第三話 アルコル博士と「提言」
弟には嘘をついたことになるが、ペレウスは直接北京に赴かず、スロベニアに立ち寄るつもりでいる。彼はここ二年ほど、まとまった休暇を全て「提言」の調査に充てていて、その手掛かりとなる場所がリュブリャナなのだ。切欠は記録保管室で偶然発見した一つの記事だった。
アルコル博士はミュンヘンの大学で教鞭をとっていたドイツ封建制度史の専門家で、文筆業も兼ねていた事から、ドイツ語圏では比較的名の知れた文士だった。だからスペイン内戦勃発時に、還暦目前の彼が息子と共に従軍記者として渡西した出来事は、ドイツ内外で多少の関心を集めるに至った。博士はバルセロナに到着すると、人民戦線の文書管理などに携わりながら、国外向けに内戦状況を解説する文章の執筆準備を進めていたが、一九三七年二月、市街戦の最中に瓦礫の下敷きになって死亡したという。
「提言」は内戦の混乱で散逸したため、おおまかな内容や体裁については、同年冬にソ連の機関誌に掲載されたロシア語の「提言」概要が残るのみである。しかし特に解題が付されているわけでもないので、掲載に至った経緯は推測するほかない。博士はロシア語を解さないため、恐らくは初めにドイツ語乃至英語の原本があり、それがロシア語に翻訳されたのだろう。
一番の問題は、「提言」に関する同時代資料が他に無い点だ。だから「提言」概要が存在しているにも拘わらず、「提言」の実在については長らく否定的な見方がなされてきた。中には冷戦下におけるソ連の国際的位置づけや、生前の博士が共産主義に同情的な姿勢を見せていた事実も相俟って、ソ連が歴史地理研究委員会の創設に際し、博士の名を借り「提言」なるものをでっち上げたと断言する者もいる。尤もアテネ本部を含む大方の見解は、学術的・政治的価値の乏しい「提言」の実在に、取り立てて言及する必要など無いというところだが。
以上の背景があるからこそ、ペレウスが偶然発見した記事は、頗る彼の関心を引いた。それは「ズヴェスダ」なる人物が著した「アルコル博士の思い出」という記事で、一九八七年にリュブリャナで刊行された雑誌『リュブリャニツァ』に掲載された。そこには博士が一九三七年一二月に渡西してから凡そ四か月の間、諸施設の修繕や改築に従事しながら「提言」を執筆する様子が詳細に記されていた。
この記事はスペイン内戦当時と時間・空間的に大きな隔たりがあるにも拘らず、記述内容の正確さと執筆目的の明確さによって、謎の多い博士の最期に言及した資料としてはかなり有力に思えた。ペレウスはまず初めにバルセロナ本部の協力を得て、同時代の公的記録などから博士の足跡を記した断片的な資料を集めたが、「思い出」の記述はそれらと全く食い違いが無いのだ。また記事の執筆目的について、ズヴェスダは「スロベニアが創設を主導した調査共有委員会について、その関連理念を示したアルコル博士に関する知識を広める」ためだと説明している。『リュブリャニツァ』は、「スロベニア独立に関する知的交流」を目的に創刊された同人雑誌で、投稿者・読者共に殆どがリュブリャナ在住の独立支持者だったのだ。そんな雑誌に完全な出鱈目を書き連ねるとは考え難い。
二〇〇二年末、ペレウスは『リュブリャニツァ』の発行者ヤヌス・コブリーツ氏に面会の約束を取り付けた。だが彼にもズヴェスダを名乗る人物の素性は不明だという。幸いコブリーツ氏は良心的な名望家で、一人息子マリアンと共に、スロベニア語が不自由なギリシャ人が順調に調査できるよう様々な便宜を図ってくれた。だから三度目となる今回のリュブリャナ訪問は、調査の続きというより寧ろ、お世話になったコブリーツ父子への挨拶をするのが目的である。
翌八月二四日、ペレウスはローマ経由でリュブリャナに向かった。盛夏のアテネは五輪の開催によって空前の盛況を迎えている。ペレウスは里帰りした平和の祭典には我関せずで、生まれ育ったこの街が、普段の落ち着きを取り戻すのを待ち遠しく思っていた。自分がそこにいないことに一抹の寂しさを覚えながら。
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