第二七話 So Help Me God

【二〇〇四年八月二七日/アテネ・トライデントホテル】


 それから李奇は度々トライデント・ホテルを訪ね、シノと人間や同類について話し合った。彼女のお蔭で同類及びユリアに関する知識は量質ともに飛躍的に向上し、彼が委員会と同類と母国の橋渡しを担う上で大変役に立った。

 とはいえシノの会話内容は玉石混交で移ろい易く、話の要点すら朧気な場合が多い。例えばある日、李奇から同類アルファルドについて質問された彼女は、残りの時間全てを費やして次のような回答をした。即ち、アルファルドの住処『無憂館』の名称は、館の温室で栽培しているムユウジュ(無憂樹)に由来しており、それは当時同居人だったアルコル博士が、ウィーン大学植物園の伝手で入手したものであると。博士は全ての植物に最も適切な環境を提供できるよう、わざわざユトレヒトに隠居していた元ボゴール植物園長を紹介して貰い、事細かに教えを請うた。更にアルコルは配置にも拘った。それは彼が半ば強迫的とも言える程、身なりに気を遣うのと同じ動機に基づく行為だ。彼は見苦しくない事を何よりも重視したという。

 それらは特別求めた情報でもなかったから、李奇を少なからずがっかりさせた。彼女のような話し手は、往々にして顰蹙を買うものだ。しかしながら、彼はシノの意図を逐一質して直截に疑問をぶつける気にも、割り切って本筋以外を聞き流す気にもならなかった。

 李奇は人付き合いのために進んで自らを費やす人間ではない。一体何が自分にこのような辛抱強い態度を取らせるのだろうか? ―――それはもちろん、彼女を通して同類ユリアと良好な関係を保つためだ。楊何業の例を見るに、ユリアとの個人的関係の構築が、委員会中枢のパワーバランスに如実な影響を与えるのは明らかである。だから委員会の発展に貢献し、組織内における母国の安定した地位を確立したいなら、シノやカト、ひいてはユリアの不興を買うような過ちは絶対に犯せない。

 しかしそれとは別に、シノの関心に応えたいのもまた事実だった。あの日彼女が父の研究に大きな価値を見出してくれた事実を、李奇は心から得難い知遇だと思っていた。 

 今年の早春、丁度条約改正の下準備が一段落ついたある日のことだ。再び訪ねて来た李奇に、シノは一枚のCDを披露した。ピアノとバイオリンによる珍しい曲調だ。

「貴志康一の『竹取物語』、ユリアが録音してくれたのです」

「良かったですね。ユリアさんは友人思いだ」

シノは薄紫色の平たい包装を差し出した。

「もう一枚用意して貰いました。これは李奇さんに差し上げます」

「いいのですか? わざわざ気を遣ってくれてありがとうございます」

「いえいえ。自分の好きな曲を、お友達と分け合っただけですよ」

 シノは珍しくにこにこと笑った。彼女が窓辺に手をかざせば、蒼い炎はいくつもの蝶の姿となり周囲を飛び回り、次々と消えていく。思えば彼女が『岩漿』の性質の片鱗を披露したのは、最初に招待された時以来だ。李奇は普段と違う様子に違和感を覚えつつ、彼女のために北京の百貨店で探した桂花茶の包みを渡した。

「わあ、どうもありがとうございます。前も少しお話しましたが、このお茶は私にとって思い出深い品物なのです。ユリアが初めて長崎に来た時にくれたお土産だから」

「確かユリアさんは中国経由で鎖国下の長崎を訪れたのでしたよね」

「ええ。『フェートン号事件』の年です。ご存じですか?」

「正確な年代は覚えていませんが、確か江戸時代後期に、イギリス船がオランダ船と偽って長崎に入港した事件だったと」

 シノは大げさに頷いた。

「さすがですね。因みに一八〇八年です。あれはオランダ以外のヨーロッパが日本を再度『発見』し、日本が一度はそれを拒絶しようとした事件。その前後にユリアも私を発見したというわけです」

 ユリアは水夫の様な姿で現れ、アメリカ船の乗組員だと自己紹介した。そして世界には様々な同類が存在している事、自分は彼ら同類の起源を探究している事を説明し、一緒に淵源探しの冒険に出ようと提案したという。

「彼女との遭遇は、私にとっても大きな転機でした。何よりユリアは初めて会った同類でしたから。でも私は淵源の問題に特別興味が無く、それなりに地元の人間たちと交流もあったので、当初は彼女の誘いを断りました」

「だけど最終的には応じた?」

「ええ。大分後の話ですよ。一八八〇年頃です。私達は考古学者モースの伝手でアメリカに渡航しました」

「『大森貝塚』のウィリアム・モースですか?」

「よくご存じですね。ユリアは彼の博物館で手伝いつつ、様々な出土品を手掛かりに、日本という未知を考察しました。彼女は美術史家のフェノロサとも交流があったようです」

「どうしてユリアさんは日本を研究対象にしたのでしょう」

「日本だけじゃありません。彼女は色々な地域の文化と歴史を研究していました。一九世紀後半には、それが偶々極東だっただけの話です。……恐らくモデラ委員長は、ユリアが長年ローマに拠点を置いてきた同類だと説明したでしょう。間違いではありませんが、彼女は一七世紀後半には北アメリカ大陸に居ましたし、一九世紀以降はインドや中国にも足を運んでいたのですよ。丁度さすらい人が自分のための薔薇が咲く国を求め彷徨するように」

「じゃあ貴方と一緒にウィーンへ赴いたのも、その過程の一つだったというわけですね」

「ええ。渡米後すぐさまウィーンに向かった理由は、そこである議論が盛んに行われていると知ったからです」

「議論?」

「同類の起源と本質に関する議論です。その中心にいたのがアルコル、アルファルド、フェルカド、リゲルでした。ご存じの通り、後者二人は現在のウィーン本部長と北京本部長です」

 李奇はフェルカドとリゲルの正体を知ってはいたが、流石に過去の人物関係図については知らなかった。

「まさかあのお二人が、ユリアさんやアルコル博士、それに例のアルファルドとも旧知だったとは……」

「寧ろその過去があったからこそ、彼女たちは人間として委員会に所属する事を選んだのだと思いますよ」

 ウィーンの同類アルコルは、同類の特徴を人の真似という点に集約し、人間を鏡に自らの淵源を探る手法を試していた。ユリアは彼らと交流する中で、鏡としての人間への考察においてより有効な手掛かりとなるのは、そこに器があるという紛う事無き事実ではなく、筆者の意図が多分に含まれた叙述の方だと気付いたという。

「叙述……。つまるところ、それが歴史記述を扱う調査共有委員会への関心に繋がっているのでしょうか」

「その理解で差支えないと思います」

 李奇は相手の気分を害さないよう、慎重に言葉を選んだ。

「ユリアさんの考えを否定するつもりはありませんが、そのようなお話ならば、今の委員会は彼女の関心を十分に満たせないと思います。というより、恐らく現在の歴史学そのものが」

「あら、どうしてですか?」

「今の歴史学界においては、筆者の意図が多分に含まれた叙述が敬遠されがちだからです。事実関係に関してなら殊更。尤もこれは仕方のない傾向です。委員会が『総論』を受容してもらうためには、歴史資料の内容を慎重に吟味して、その記述が限りなく事実に近いと判断できなければならないので」

 シノは腕組みをしたままうんうん頷いた。

「科学としての歴史学の手法は理解しています。でも貴方の言う客観的蓋然性は、必ずしも歴史の絶対的基準になり得ないと思いますよ。もちろん委員会においても」

「どういう意味ですか?」

「一先ず淵源探しの話に戻りましょうか。今までの話を整理すると、ユリアとウィーンの同類たちは、同類と自然の境界を人間の姿か否かに求め、人間への考察を鑑に自己の淵源を探ろうとしたわけです。だから『人間であるとはどういう意味なのか?』或いは『人間は何を以て自らの存在を定義するのか』という疑問は、彼女たちにとって重要な意味を持ちます」

「どちらも簡単に解の出る問題ではないと思いますが、ユリアさんたちは何か展望を得られたのでしょうか」

「多少目ぼしいものはあったようです。例えば、人間存在の定義付けについて、ユリアは次のように説明したことがあります。各々の社会は『神』が創造する一つの世界であり、歴史はその正統を保証するための捧げものだと。ここで挙げる『神』とは、宗教的な意味での神様ではありません。自分が今の自分に至った根拠です。『運命』や『天命』と言い換えても構わないでしょう。彼女は更に、多くの場合、『神』と捧げものに確固たる相違はないと考えました」

「違いが無いとは?」

「両者は互いに補完する関係にある、という意味でしょうか。例えば委員会が「提唱」の文言に依拠して自らの存在意義を示し、「提唱」の掲げた理念を遂行する者として文言の価値を守ってきたのと同じ。そしてユリアは『運命』がより広い時空間で共有された状態を『正統』と看做しました。彼女によれば、そんな『正統』に依拠した集団が形成される時、個々の人間たちを覆い尽くす程の高揚感が芽生えるそうです」

「もしかして、それが『感動』の同類としてのユリアさんのなのでしょうか」

シノは口元を手で隠してくすくすと笑った。

「珍しく可愛らしい質問をなさるのね。誕生した事自体は、そのままにはなりえないのでは?」

「確かにそうですね。すみません」

「だけど発生由来という意味であれば、私も貴方の推測が正しいと思います」

「しかし『運命』や『正統』と結びつく情動や高揚感とは……。委員会に当て嵌めれば、自分達の取り組みが国際平和と協調に寄与するという熱意、といったところでしょうか」

シノは大きく頷いた。

「そしてユリアはその熱意をある程度制御できる。だから彼女を相手取る時は、その辺りを念頭に置く事をお勧めしますよ。―――ところで李奇さんは、以前私が渾沌の伝説に言及したのを覚えていますか?」

「ええ」

「私はこう言いました。渾沌とはよく分からない無秩序、存在を認める事は出来ても、手に取るようには理解出来ない事物。それは過去かもしれないし、人間の内面かもしれないと。……委員会は過去という渾沌に対し、世界平和という非の打ちどころの無い『運命』の下で、同じ歴史見解という竅を穿つ機関です。それを学術的論拠で支える捧げ物が『総論』、当然その内容は、全加盟国の共有に堪える整合性を備えていなければならない」

「ええ。だから自分の歴史を自分で記述するとは、際限ない自由な叙述を意味しません。皆が分かち合うために、科学という共通のルールを許容するのです」

「本当にそうでしょうか」

「というと?」

「貴方はユリアと曄蔚文の考えを把握しながら、このように考えた事は一度も無いのですか? 

李奇は困惑した。改正条約という舞台に登るのを拒否する者に対し、委員会が何かしらの権力を行使できるとは思えない。

 シノは相手の反応を見定めてから、先程より幾分口調を和らげた。

「嘗て大国から見向きもされない機関だった委員会が、今回彼らに『発見』され、改正条約という『明白な運命』が定められた事は、もっと重く受け止められるべきだと思いますよ。これからあの組織では、『運命』への高揚感を根拠に、差異や対立をそっちのけにした集団が形成されるでしょう。その過程ではあらゆるレベルにおいて、無遠慮な吊し上げと激烈な排斥が生じる。でもその正当性は、きっと自分たちの『運命』に守られる」

 李奇は相手の話を理解しないまま、しどろもどろに弁明した。

「確かに、我々には多くの課題があります。しかし進んで貴方の想定する事態に陥らせたいと思う人などいません。私も同じです。唯一の準加盟国の代表として、新規加盟国と現加盟国、或いは人間と同類の橋渡しとなり、調和のとれた組織になるよう努めたい。各人の努力が必ず実を結ぶとは限りませんが―――」

 しかしシノは彼の言葉をやんわりと遮った。

「新たな国際平和維持の枠組みを構築するために、貴方がたが費やしたものを軽んじるつもりなどありません。だけど『運命』とは、往々にして熱意と理性以外の要素によって強烈に歪められ、渦中の者にはそれを認識する事さえ難しいのです。……渾沌は無秩序ながら、饗客に足る礼節と見識を備えていた。だけど七つ目の竅が穿たれた時、彼がなお正気を保てたとは思えません」



 目を覚ますと、時計の針は既に八時を回っている。どうやら李奇はアントニスと別れてから、小一時間ほども居眠りしていたらしい。今まではどんなに疲れていても、職場で寝落ちするなどなかったのに。

 李奇はアテネ本部を出た。市街地方面へとぼとぼと歩みを進めれば、ここ二か月間に起きた事件が次々と頭に浮かんだ。万全を期して臨んだ改正条約採択総会は、ズメルノストに泥を塗られ、リゲルの退任と急死は小さくない動揺を招いた。極めつけは曄蔚文殺害事件だ。しかしあの日の会話を度々夢に見るのは、それが原因ではない。「提言」実在計画もまた、無遠慮な吊し上げと激烈な排斥の一つに過ぎないと、李奇本人が承知しているからだ。

 実のところ、李奇はシノに「提言」計画の目的を明かしていない。彼はユリアが「提言」の抹消を望んだ場合、自分の立場上彼女の意志に従う他ないと前置きした上で、「提言」実在の有無を調べられる可能性があると説明し、それが判明するまではユリアに感知されないよう協力して欲しいと依頼したのだ。嘗ての語学の師を慕う彼女は、二つ返事で了承してくれた。だがあのシノの事だ。本当の目的が楊何業失脚とユリアへの交渉カード確保にある点など、既に見透かしているに違いない。

 李奇は再び惨めな道化を演じているような気分に陥り、止む無く自身に言い聞かせた。楊何業が組織秩序を乱してきたのは紛れもない事実である。だから彼を放逐し、ユリアとの関係を維持する事こそが、委員会の健全な運営と正加盟国としての地位確立の第一歩なのだと。いくら浅はかで滑稽に見えようと、彼は自分が必ずこの曲芸をやり遂げると信じている。

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