第二六話 折桂

【二〇〇四年八月二七日/アテネ本部・李奇代表の執務室】


 同類シノはアントニスと並ぶ重要な協力者だ。李奇がユリアによる香港調査事件の幕引きや改正条約との関係について詳細な展望を得、今回の楊何業失脚計画の構想を築けたのは、シノが与えてくれた助言に由るところが大きい。

 二〇〇二年の冬、李奇が初めて同類ユリアたちと顔を合わせた数日後、李奇はシノの招待で、一人トライデント・ホテルに足を運んだ。李奇を応接間に案内すると、彼女は日本語で話しかけた。

「モデラ委員長から聞きました。李奇代表は日本の長崎領事館に在籍していたとか」

 シノは肩で切りそろえられた漆黒の髪と、透き通るような白肌が目を引く可憐な女性だ。ユリアと同じく二十代前半か半ば位の容姿をしているが、鈴を転がしたような声と華奢な体格、乏しい表情筋のせいで、相方よりやや幼い印象を受ける。

「え、ええ」

「委員会はまだ小規模な専門機関ですが、それでも外務省の一スタッフから国家代表になるのは、例を見ない大出世でしょう。とても優秀な方なのですね」

 似たような挨拶をされたのは初めてではない。李奇は親しみ深い言語を使って、お決まりの言い返しをした。

「実際は私の能力云々より、父の縁故を疑う人の方が多いですよ」

「あら、そうなのですか?」

「もちろん父にはそんな力はありません。でも代表就任に全く影響を与えなかったとは言えないでしょうね」

 シノは微笑を浮かべた。

「一応申し上げておきますが、私が長崎の話題を出したのは、別に縁故を揶揄したいからではありませんよ。実は私も長崎の近くに住んでいたのです」

李奇は然も意外そうに言い返した。

「そうだったのですか。確かにお名前や外見が日本的だと思いましたが」

「漢字では篠笛の篠と書きます。篠笛って分かるかしら」

「ええ」実物を見た事は無いが、恐らく竹製かそれを模した和楽器だろう。

シノは白魚のような手指を動かして、テーブルに縞入り青磁の湯呑を並べた。この卓は先日初めてここを訪れた時にあった物とほぼ同じだが、李奇はそれが別物と知っている。他ならぬシノが『岩漿(マグマ)』の力を示すために燃やしたからだ。ふと顔を上げれば、彼女が東洋人にも珍しい漆黒の瞳で、こちらをじっと観察している。

「あまり警戒なさらないでください。別に取って燃やしたりなどしません」

李奇は躊躇いがちに尋ねた。

「そんな事はありませんが……。ユリアさんやカトさんはご不在ですか?」

「ええ。私だけでがっかりさせてしまいました?」

「まさか、とんでもありません。貴方がご招待くださったのは承知していますから」

そこで李奇は要件を尋ねた。

「それで……、何か私でお力になれる事があるのでしょうか?」

「まあ、要件がある事にはあるのですが。実は少しお話したかったのです。もちろんお忙しい方の時間を浪費させるつもりはありません。李奇代表は同類やユリアについて、殆ど知らないのではありませんか? だから私で差支えなければ、貴方の疑問に答えて差し上げようと思って」

 シノそう言いながら、湯呑を左右に軽く傾けた。するとボッという音と共に火炎が上がる。李奇は奇怪な光景をまじまじと見つめながら、予想外の申し出に対し慎重に言葉を紡いだ。

「ええ、確かに。率直に言って、同類は完全に私の常識外の存在です。モデラ委員長は貴方がたを、人間の姿をとった自然だと言いましたが、そんな説明ではとても納得できません」

「でもモデラさんの表現は的確ですよ」

「ですがやはり基本的な事柄への理解が不十分です。例えばなぜ自然が人間の姿を取るのかとか。もし暗黙の了解などがあるのなら、是非ともご教授ください」

 するとシノが俄かに声を上げて笑ったので、李奇は思わずぎくりと肩を強張らせた。

「ふふふ、すみません。意外な質問だったので。普通は同類の能力とか、委員会に干渉する目的とか、他にどんな種類の同類がいるかを尋ねるものなのに」

「も、もちろんそれらも疑問に感じていますが……」彼は訥々と言い返した。

「いえ、寧ろ慧眼に感心しました。流石は李魁博士のご子息ですね。同類にとって、人の真似は最も本質的な要素です。人間の姿でない同類は、ただの自然に過ぎません。では何故人間の姿を真似るのか? 実はこれは、ユリアと私が考察を重ねて来た問題なのです。未だ解答を出せていませんし、当然暗黙の了解もありませんが、一先ずは単純に人間との関りを求めているからだと仮定しています」

「同類が人間の姿を取るのは、彼らが人間と関りを求めるから?」

「ええ。譬えるなら、アテネで私が名前の漢字表記を教えたのは貴方だけ、それと同じです。人は何かを理解する時、己との共通点を手掛かりにするものでしょう。仮令相手が未知なる渾沌であろうと、自分と同じ感覚器官を用意すれば、同じように世界を感じとり、互いに喜びを分かち合える。同類は人間を知り、自分を知って欲しいから、自らに人間の姿というあなを穿ったのです」

 「渾沌七竅に死す」―――。二人の神は渾沌の歓待を喜び、その謝礼として、目鼻などを持たない彼のため、その体に七つの竅を穿った。彼女がここで中国の故事を引き合いに出したのも、中国人である李奇への配慮というのだろうか。

李奇は神妙な表情で尋ねた。

「しかしその伝説に従えば、渾沌は……」

「竅を穿つとは形を変える事。逐一相手の反応を気にしては、永久に共有などできません。共有とは『分かち合い』という牧歌的な響きの反面、異なる事物の形を歪め、同じ型に嵌め込む暴力性を内包しているものです。違いますか?」

 先程まで小鳥が囀るように軽やかだったシノの言葉は、忽ち反論の余地も見せない巌乎としたものになった。その移ろい易い口調は、話の内容と相俟って、李奇を大いに戸惑わせた。共有が内包する暴力性……。恐らくシノは、同類にまつわる質問に回答する体をとりつつ、「共有」による平和を謳う調査共有委員会へと話題を移そうとしている。だが神々による目口の共有と、人間による歴史の共有とが、単純な連想に過ぎないのか、或いは彼女の中で何らかの有機的緊密を成しているのかまでは判別できない。

 そんな李奇の様子を見て、彼女は再び嫋やかな微笑を浮かべた。

「渾沌とはよく分からない無秩序です。と言い換えて差支えないでしょう。それは自然、社会や自己の内面、或いは過去かもしれない。委員会はその過去に、同じ『見方』という竅を空ける機関です。まあこの辺りについては、曄蔚文博士の著作からも多少は読み取れますから、今ここで私が無駄口を叩き、殊更恥を晒す必要も無いでしょうけど」

「……シノさんは、曄蔚文博士の学説にも詳しいようですね」

 するとシノは不本意とでも言わんばかりに小さく肩を竦めた。

「ユリアのせいです。彼女は博士を人間の知音と慕っていますから。でも正直私は曄博士の思想には懐疑的です。寧ろ貴方のお父様の考え方が好きですよ」

「そうですか。そんな風に言われる機会は少ないので……」

するとシノは黒い瞳を輝かせ、幾分口調を和らげた。

「『外国の歴史を鑑にして、自国の歴史を理解する』。李魁博士の研究姿勢には、比較や類推、つまり置き換えが大きな役割を果たしています。私が親近感を抱くのも当然でしょう? だって自然が自身を人間に置き換えたのが同類ですもの」

 どうやら彼女は自分の関心と重ね合わせ、父の業績を高く評価しているらしい。それが何だか面映ゆくて、李奇は思わず口数を多くした。

「確かに比較や類推は、父が好む手法でした。……尤もそれはいわば諸刃の剣で、論理的脆弱として批判される場合もありましたが」

シノは長い睫毛に縁どられた目をぱちりとさせた。

「奇妙な風評ですね。私は寧ろ、類推こそ歴史の一本質と考えていますけど」

「それは……、なかなか特別な見解ですね」

「実はマンフレート・アルコル博士の受け売りです。彼も割合類推に類推を重ねる方だったのですよ」

意外な名前が登場して、李奇は驚きを隠さず尋ねた。

「そうだったのですか。不勉強ながら、博士の著作をあまり読めていないもので」

「仕方ありません。ユリアが焚書して回っているせいで、彼の文章は本質に近いものほど失われ易いもの」

「ふ、焚書とは、穏やかじゃないですね……」

そこで漸く李奇は、モデラからユリアの前でアルコルの名前を出さないよう釘を刺された事を思い出した。彼によれば、彼女は博士と過去に何らかの因縁があり、彼の研究に異常な執着を抱いているという。

「シノさんとユリアさんは、アルコル博士と直接お会いになった事が?」

「ええ。一八九〇年代に、彼らの住むウィーンを訪ねた事があります。アルコル博士―――当時はまだ博士ではありませんでしたが、彼はユリア以外と意思疎通できなかった私に、英語とドイツ語の基礎を教えてくれました。とても忍耐強く親切な人でしたよ」

「そうでしたか。……実はモデラ委員長から、ユリアさんがアルコル博士の著作に強い関心を抱いていると伺ったのです。そのウィーン滞在と関係があるのでしょうか」

シノはくすくすと笑った。

「強い関心というか、ただの妄執です。ユリアは博士の思想を消し去りたくて仕方ないのです」

「博士の思想とは、歴史の本質が類推という考えですか?」

「それだけではありません。うーん……、ごく単純に表現するならば、『類推』と『共有』の関係について、でしょうか。繰り返しになりますが、アルコル博士は共有の基礎となる類推を重視しました。つまり共有の質や度合いは、それを齎す譬喩や置き換えの内実に左右されるという考えです」

「歴史の本質が類推だという考えも、そういう前提あっての発想なのでしょうね」

「ええ。一方ユリアは『感動』の同類です。彼女は人心の高揚という舞台を生み出せます。注意すべきは二つ。その舞台が登壇する者としない者の峻別によって成立している点、そして舞台の設置に理屈付けなど不必要という点です。彼女に言わせれば、共有の本質は舞台の内か外かの峻別にあり、比較や置き換えなどは単なる壇上の小物に過ぎないのです。……ところで、貴方ならば、ユリアが曄蔚文を知音のように慕う理由も察せられるのでは?」

李奇は頷いた。

「お話を聞く限り、ユリアさんの考えは、『集団瓦解論』で曄蔚文博士が示した主張とよく似ています。博士は歴史事象を例に、共有が集団性の獲得に与える影響を論じ、共有対象が歴史などの知識である場合、それが一定程度恣意的に制御できると考えました。更に制御に関して、対象の理論的整合性自体は大きな問題にならず、寧ろ共有者とそれ以外の区別の方が重要だとも」

「ええ。そしてその主張は後に「提唱」の半身となる。他者の歴史を自分の事のように置き換える意志と、それを共通価値として受容する姿勢。前者が李魁博士に由来する『類推(アナロジー)』、後者が曄蔚文博士の『共有(コミュニオン)』。どちらも委員会の使命において不可欠な要素です。でも不思議な事に、委員会では何故か李魁博士の話を全然聞きません」

 李奇は内心素直に驚き、そして恐れた。シノの委員会観は想像よりも遥かに精密だ。もし人間ではないという理由だけで彼らを見縊みくびり、その思索の深度を見誤れば、取り返しのつかない事態を招いてしまうに違いない。

 李奇は一先ず当たり障りのない答えを探した。

「それは仕方ない話です。調査共有委員会と名の付く通り、委員会が歴史的価値観の共有にこそ主眼を置いているのは事実ですから。それに……」

「それに?」

「いや……。実のところ、学界でも委員会でも、父の『類推』は貴方がおっしゃる程には評価されていないのです。そもそも共同執筆者になったのも、既に気鋭の研究者として名声のあった曄博士が、まだ駆け出しだった年下の同僚の為に、業績を増やす機会を与えてくれたと言われる位ですし」

シノは憐みの眼差しを向けた。

「そうですか。ご子息ですらそうおっしゃるなら、きっと委員会には、李魁博士を顧みる人なんていないのでしょうね。でも私はこれを十分考察に値する疑問だと信じていますよ……」

そして彼女は李奇へ皎潔の頬を寄せ、秘密の取引を持ち掛けた。

「最初に申し上げた通り、私は同類の知識を提供できると思います。その代わりと言っては何ですが、貴方には私が委員会を知る手助けをして欲しいのです」

「私に出来る事なら。ただ私も所詮部外者ですので、ご期待に沿えるかは」

「それならそれで構いません。でも正直言って、私の疑問の回答者には、貴方が一番相応しい気がします。 きっと私たちはいいお友達になれると思いますよ」

 彼女が顔を離すと同時に、カーテン越しに斜陽が差し込んだ。李奇は鋭光をまともに浴びて収縮するシノの瞳が、実際には漆黒ではない事に漸く気付いた。それは地上の草木を呑み込む溶岩のどす黒い赤色であり、正しく空気に触れて岩石へと変化する間際の煌めきを放っている。

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