第二五話 Wie Wasser, von Klippe zu Klippe Geworfen(湯湯たる流水のごとく、巍巍たる山崖の間を流れ落ちる) ④

 アントニスが退出すると、李奇は片付けもそこそこに、いつもの手巻き煙草を取り出した。あのギリシャ人が垣間見せる実兄への偏執は、普段の慇懃かつ恬澹とした姿と余りに乖離していて、思わずぎょっとさせられる。尤も李奇自身に実害が及ばない限りは、超人の俗物めいた一面として許容できない事もないし、彼の求める言葉が手に取るように分かるのも好都合だ。そして何より、世渡り下手な兄の名利に躍起になる気持ちは、父への正当な理解者を求めてきた李奇にも感覚的に理解できる。

 一方、アントニスは、研究室に戻って手早く荷物をまとめ、慌ただしく帰途に就いた。彼は先ほどの会話を反芻した。李奇は自分と精々七、八歳しか違わないのに、天賦の才とも称すべき政治的嗅覚を備えていて、更にはそれを巧妙に隠す術に長けている。知性や経験は顔や言葉に出るというが、あの扁平な仏頂面と抑揚に乏しい口調から、それらを窺い知るのは簡単ではない。だから李奇の為人をよく知らない者は、彼の待遇を単に親の七光りと思うのだ。しかしそれは明らかな見当違いである。

 アントニスは自分が後塵を拝するだけの人間とは思わない。しかし今回のように、李奇の言動の意図を見誤り、結果として上手く乗せられたと感じる出来事は度々あった。その最大かつ単純な理由は、自分が所詮多少勉強しただけの青二才に過ぎないからだ。

 あれこれ考える内に、彼はリカヴィトス丘南方の住宅街に位置する、真新しい自宅アパートに着いた。妻エンマの姿は数日見ていない。確か暫くの間、泊まり込みで写真家の友人を手伝うと聞いた気がする。彼は自室のパソコンを起動し、クレジットカードと航空会社の会員サイトにログインした。それはどちらも兄の名義だ。

 実のところ、アントニスは兄のパソコンや仕事用メールのパスワードも知っている。メールだけは簡単にログイン履歴が判明してしまうため、そう気軽には使えないが、それでも兄の大まかな動向を把握する分には支障ない。だから彼は兄がローマ経由の航空券を購入した点から、北京に直行しない事を初めから承知していた。その上で何度も尋ねていたのだ。兄が嘘を吐く回数と内容を吟味し、彼が誤魔化したい本心を当てる。アントニスはこの遊びを通して、兄から自分の求める回答を聴き出す方法を探してきた。

 尤もこの自虐的遊戯は、殆どの場合アントニスの一人負けに終わる。今回も兄が自分に白を切り通した事実は、知ろうと思えば彼の色々を知り得る優越感を差し引いても、やはり弟の心に暗い影を落とした。

 しかし今はつまらない感傷に浸る余裕は無い。アントニスは気を取り直し、再び李奇代表に考えを巡らせた。李奇は私欲を追求する人物とは違う。だから彼の目的は、波風を最小限に抑えて楊何業を失脚させつつ、ユリアとの交渉を有利に運ぶ事により、委員会における母国の立ち位置を維持する点に尽きる。そんな母国の利害に忠実な彼が委員会に出向するのは、ともすれば楊何業より厄介だろう。自分は李奇と協力関係を保ちつつ、彼という潜在脅威に手を打つ必要がある。

 重要なのはその方法だ―――。李奇は今までも己とアントニスの利害の一致を殊更に強調してきたが、決定的な間隙は確かに存在する。例えばペレウスの「提言」調査だ。李奇が掲げる厄介者放逐と秩序維持という大義名分の下では、ペレウスの調査が成功するか否かなど大した問題ではない。さらに言えば、一つの歴史資料が実在しようがしまいがすら関係ないのだ。しかしアントニスにとっては違う。彼はこの差異が、李奇本人を相手取った時に、意外と有用な切り札になると思えて来た。

 何にせよ、まずはペレウスの研究状況を正確に理解する必要がある。でも本人に馬鹿正直に尋ねるだけでは駄目だ。李奇代表のように、意図を悟らせない質問を準備しなければ。アントニスは密かに複製していた兄のアパートの鍵を手に取り、念入りに身なりを整えると、ゆらゆらと陽炎が浮かぶ道をネア・スムルニ地区へと急いだ。

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