第二八話 無憂館

【二〇〇四年八月二七日/オーストリア】


 車内では誰一人口を利かなかった。フェイトンは目を閉じて、記憶している限りの祖父の言動から、今回の事件に繋がりそうな手掛かりを洗い出した。やはり一番不可解なのは、昨年ロンドンで、祖父とモデラが改正条約を「委員会改革の集大成」と表現した点だ。あの時の祖父の表情は真剣かつ晴れやかで、とても内心を偽っているようには思えなかった。

 気になる点は他にもある。祖父の発言と態度を素直に解釈すれば、改正条約は複数存在した改革の総仕上げということになる。しかし肝心の改正内容は、当事者国の拡大と『総論』周知に係るインターネット関連条項の整備に止まっていて、「集大成」と称するには規模が小さい気もする。或いは大国の加盟を指しているのだろうか?

 フェイトンは斜め前に座るマリアンの青白い横顔を眺めた。彼は時々携帯を操作したり、グローブボックスから道路地図を取り出してぺらぺらと捲ったりしている。一方ペレウスは、先程からずっと、デジタルカメラの液晶を証明代わりにして、大ぶりのギリシャ文字を書き連ねている。彼は出発前にエレナとドイツ語で熱心に会話していたようだが、「思い出」やズヴェスダ、或いは今の状況について、進展でもあったのだろうか。

 フェイトンは再び目を閉じた。彼もペレウスも、カラーに密入国の詳細な手順を尋ねる勇気は無かった。本音を言えば、この際方法は問わないので、とにかく誰にもばれずにウィーンに到着して欲しい―――。

 フェイトンの焦りとは裏腹に、カラーの行程は頗る順調に進んだ。彼女はスロベニアからハンガリー国境を越えてシェンゲン圏に入り、そこからオーストリアへ入国する方法を取った。ジョール(ハンガリー北西端の都市)からオーストリアへの入国時には、既に日が高く昇っていて、カラーの車も国境検問所を経由したが、ペレウスやフェイトンですら旅券の提示を求められなかった。どうやらこれは彼女にとって一種お決まりのルートで、スロベニアから直接オーストリア国境を跨ぐ経路は確保できないが、スロベニアからハンガリー、ハンガリーからオーストリアへの移動に関しては、同行者が複数いようと支障なく行き来できるらしい。つまりその周辺には、彼女の移動を支援する人間がいるのだろう。

 車は午前十一時頃に、ウィーン郊外のガソリンスタンドに立ち寄った。マリアンは後部座席を振り返って言った。

「もうすぐで到着するよ。カラーのお蔭で概ね順調だ。そういえば二人共、リュブリャナの宿泊先に荷物を置いたままだろう。ここの売店の公衆電話は国際電話対応だったはず。本屋のノヴァークさんが取りに行ってくれると思うから、電話でそう伝えてくれないかな」

 ノヴァークはヤヌスの元教え子で本屋の現店主だ。しかしペレウスは断った。

「いや、これ以上君たちの手を煩わせるのは悪いから、ホテルにはアテネの私のアパートに配送するよう頼むつもり」

「え、まだアパートを契約していたの?」

「うん。少しの間大家さんに預かってもらうよ。フェイトン君の荷物も一先ずそこに送ろう。元々君はアテネに行くはずなのだし。差支えないだろうか」

「分かりました。よろしくお願いします」

 ペレウスは留学生に公衆電話の使い方と送付先住所を教えた。フェイトンは説明を聞きながら、数日前ウィーンで祖父に安否確認の電話をした時を思い出した。あの時は改正条約を巡る不穏な企みも、不思議な力を持つ同類の存在も、ましてや祖父が本当に殺害されるなど思いもよらなかったのに。

 彼は電話をペレウスに譲ると、書籍売り場に足を運び、ウィーン周辺地図を手に取った。だが先日両替した分のユーロではぎりぎり足りない。仕方なく棚に戻したところに、マリアンがやって来た。

「ついでに買うよ」

「え、でも……」

「それより電話代は大丈夫だったかな。気が利かなくてごめん」

「それは大丈夫です。トラール(スロベニア通貨)ならまだ持っているので、大体の額をお返しします」

「いやいや、それには及ばないよ」

 彼はミネラルウォーター四本と地図とを会計すると、うち一本と地図とをフェイトンに渡し、骨格に沿って影の差す美形を僅かに歪めた。フェイトンはそれが微笑と理解するのに少し時間がかかった。

「他に何かあれば気軽に言ってくれ。まあ、今まさに君たちを困らせている僕が言える台詞じゃないけど」

「そんな事はありません。マリアンさんがいなければ、僕は委員会の事情など知る由もなかったですし」

「僕は単なる伝令役だよ。アルファルドならもっと君の疑問に答えられると思う。不便をかけて申し訳ないが……」

車に戻ると、今度は三十分もしない内に、旧市街インネレシュタット南方に位置する立体駐車場に到着した。マリアンはフェイトンに先刻の地図を広げさせ、現在地と目印になる建造物と大まかな目的地の場所を指し示した。

「すぐ前の建物が国立歌劇場、あそこに延びるのがケルントナーシュトラーセ大通りだ。アルファルドの住処は、この通りを北上して、アンナガッセ小通りで右折し、通り沿いの路地からもう一度南に入った所にある。概ねこの辺りだよ」

彼はペレウスにも尋ねた。

「君にウィーン案内は不要かな。弟さんを訪ねた事もあるだろうし」

「いや無い。ウィーンには初めて来た。君はアルファルドさんを何度も訪ねたみたいだけど」

「エレナさんはお喋りだなあ。もちろん仕事で来ることもあるよ」

 マリアンが口を手で隠して笑うので、ペレウスは彼をじろりと睨んだ。

「彼女は必要な情報を話してくれただけだろう」

 ペレウスの言い返しは、本人が想像していたより遥かに冷淡に響いた。フェイトンは狼狽して話題の変更を試みた。

「し、お仕事といえば、マリアンさんは大学の先生なのですよね。何をご専門になさっているのですか?」

「ただのしがない非常勤さ。専門は言語学、スロベニアやハンガリーで話されたドイツ語に関する研究だよ」

「へえ、なるほど」

「興味なさそうだね」

フェイトンはしどろもどろに否定した。

「まさか! 実は僕も、学部生の頃ドイツ語を履修したのですが、結局全然身につかなくて……」

「そうなの? でもそれだけ英語ができて、しかも基礎を学んだのなら、大して苦労せずに習得できると思う」

ペレウスもフェイトンの意を汲んだのか、努めて親しみやすい口調で答えた。

「……私もそう思うよ。後は慣れじゃないかな」

「そうだと良いのですが」

「折角の機会だ。僕らでも練習相手くらいには―――」

「さっさと歩く」

カラーに睨まれて、三人は小声で返事をした。四人はマリアンの説明通りにアンナガッセを右折すると、仏国旗を掲げる「ヴィエルヌ宝飾店」脇の細い路地に入った。

 人気のない通路は暗くて狭い。カラーは一際古く壮麗な建物で立ち止まると、門扉の暗証番号を入力して開錠した。中は雑然とした倉庫だ。手の込んだ装飾が施された家具や大きな額縁、板や布でくるまれた絵画などが置かれているが、よく見れば土嚢やプランター、レンガ、用途不明の機材なども見える。どうやらここの主人は、この倉庫に物品を収蔵するに当たり、それぞれの性質というものを全く考慮していないらしい。奥の壁際には格子で囲まれたエレベータが設置してあって、四人が乗り込めばガラガラと音を立てて上昇した。

 三階に当たるのだろうか、到着したのは天井と壁一面がガラス張りの温室である。至る所に蔓延るツタ植物を避け、シュロやシダが青々と茂る狭い通路を進めば、微かに覚えのある歌曲が聞こえてきた。『魔笛』の「神聖なる殿堂では」だ。

最後に温室の奥の扉を開ければ、そこは豪奢な調度品で埋め尽くされた小広間だった。中央に置かれたソファには、すらりとした姿の青年がしな垂れかかっていたが、来訪者たちに気付くと、彼はレコードプレーヤーを止めて立ち上がった。

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