第二九話 博士の理想主義①

 

 アルファルドは十五年前の写真と全く変わらない容姿、かつ想像よりもずっと穏やかな口調で自己紹介した。

「アルファルド、『再生』の性質を持つ同類だ。君たちの事は知っているから、わざわざ自己紹介して貰わなくて構わない。まずはフェイトン君、おじいさまの事件は本当に残念だった。彼と顔を合わせたのは一九七五年の一度きりだが、とても聡明な御仁だったと記憶しているよ」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

 次に彼はペレウスに向き直った。

「そしてそちらがフィデリオ君か。君の話はマリアンから常々耳にしている。私の招待に応じてくれたという事は、あの言付けに多少心当たりがあったと見做していいのかな」

「まだ分かりません。こちらに伺ったのは、それついて更に知りたいからです」

 アルファルドは優美な微笑を浮かべた。

「正直で結構。じゃあ早速本題に入らせてもらおうか。時間も限られていることだし」

 彼は三人をソファに座らせた。慇懃な言葉遣いと何の頓着も感じさせない優美な表情は、「独占欲の塊」像からかけ離れている。

「恐らく君たちは、大きく三つの疑問を抱いているはず。一つは委員会と改正条約への疑問。これは曄蔚文やリゲルの事件と関係する組織的問題であり、歴史を扱う国際機関としての在り方と関わる理念的問題でもある。次に同類、つまり人間の姿を取る自然についてだ。これも重要だよ。最初に挙げた問題が現在の様相を呈しているのは、同類同士の対立に起因するところも大きいから。この辺りは多少カラーから聞いただろうね?」

 ペレウスとフェイトンは頷いた。

「よろしい。そして三つめは、私を信用してよいのかという疑念だろう。正直あまり得意ではないが、私は自分の過去や人脈を開示して、自分が前二つの問題と切っても切り離せない立ち位置にあると知ってもらう他ない。だから疑問があれば遠慮なく尋ねてくれ。可能な限り誠実に回答すると約束する」

 アルファルドは手元のノートパソコンを操作し始めた。

「まず一つ目の疑問の答えだが、これを見て貰った方が早いだろうね」

「何かの資料ですか?」

「うん。五月末に君がコブリーツ氏に連絡した時、マリアンは君が曄蔚文の孫である可能性を疑った。そこで私は君を知る中国の知人に、留学生フェイトン・イエの正体を確認し、万が一君と遭遇した時に備えて、状況説明できる資料の提供を求めたんだ」

「五月末の段階で、彼との遭遇を想定していたのですか?」

「ただの孫なら放置しただろう。でもフェイトン君は委員会のインターンだ。改正条約締結を阻止する時に、遭遇する機会があっておかしくない」

「僕を知る知人の方とはどなたです? 祖父ではないのですよね」

「私は曄蔚文博士と直接連絡を取り合えていない。彼は厳しい監視下に置かれていて、私たち改正反対勢力の仲間だと知られるわけにはいかなかった」

「監視って、中国当局ですか? それとも委員会の……」ペレウスが尋ねた。

「条約改正を推進する全ての人物さ」

「じゃあ祖父が殺害されたのは、それが露見したからなのですね?」

 フェイトンは身を乗り出した。しかしアルファルドは全く意に介さずに、暗褐色の瞳を細めてパスワードを打ち込んでいる。

「順当に考えればそうだ。……さあ、開けた。最初の数行以外は漢字で書かれているから、君さえよければ、差支えない範囲で英語に訳してくれるだろうか。私はともかく、フィデリオ君にとっては未知の事柄もあるからね」

 フェイトンは頷いた。一枚目はワープロ打ちされたアルファルド宛の手紙だが、差出人の名前は記されていない。



    アルファルド様 


  過日お訊ねいただいた曄子仁の件ですが、ご推察の通りと申し上げます。ただ曄 

  蔚文は、彼が件の雑事に巻き込まれるのを望んでおりません。そこで小生の独断

  で、以下に曄蔚文が小生へ宛てた文章、および調査手記の一部を送付いたしま

  す。個人的事柄に係る部分は省略いたしましたが、彼が貴殿と祖父君との関係を

  知り、現況を理解する分には、何ら差支えないと存じます。



 二枚目から四枚目はスキャンされた手書き原稿だ。いずれも祖父の筆跡で、冒頭は彼が資料の送り主に充てた手紙らしい。フェイトンは区切りの良い文章毎に逐語訳を始めた。


                             

   これを認めている時、嘗て君から『回りくどく論旨が不明快』と批判を頂戴し

  た拙論を思い出したよ。一九六八年の事だ。実のところ、あれは■■博士に抗議

  する意味で、敢えて不明快な文を書いたのだ。■■は言葉尻を捉えて弁駁した風

  を装うのが得意な男だった。優れた研究内容にも拘わらず、下手糞な口頭発表で

  損をしがちな君とは、全く正反対の人物だ。そういう相手だからこそ、一定以上

  のコンテクストを有していなければ、そもそも意図を測るのが困難な文章を突き

  付けてやったのさ。これも必要な駆け引きと思わないか? まあ君はそう思わな

  いだろうな。

   この資料を読めば、君はきっと当時と同じ不満を抱くはず。だが今回ばかりは

  私の意図するところではない。というのも、改正条約を巡る思惑は、複雑かつ異

  常な様相を呈していて、一つの事柄を説明するために、十の背景を述べる必要が

  あるのだ。だが最大の要因はやはり、私自身が説明に足る理解と展望を持ててい

  ないせいだろう。それが逐一私の筆を迷わせている。

   それでもこの文書を送るのは、研究者としての責任故に他ならない。どうか私

  の拙い叙述によって、本来寄せられるべき君の関心が削がれない事を祈る。 



   もし君が委員会職員に改正条約の内容を尋ねれば、必ず判を押したような答え

  が返ってくる事に気付くだろう。第一に「当事者国」の定義の明確化、第二に

  『総論』周知のためのデジタル施策関連条項の制定であると。しかしこの二つ

  は、所詮氷山の一角に過ぎない。条約改正を巡る全体像を窺い知るためには、一

  九九〇年代における委員会の動向を、複数の視点から押さえておく必要がある。

   一つ目は、委員会の制度に関する視点だ。当時委員会は創設二十周年を控え、

  いくつか制度的問題が存在した。その一つが「当事者国」の定義だった。

   知っての通り、一九七五年条約は、委員会の使命について、「歴史見解の齟齬

  に起因する国際問題について、当事者国の要請に基づいて調査を行い……(以下

  略)」と定めたが、その際この「当事者国」については厳密な規定が設けられな

  かった。ただ『総論』執筆では各国本部が調査の実働部隊となる故、必然的に当

  事者国を加盟国と読み替えていたのだ。

   これは確かに条文上の瑕疵である。しかしこの「読み替え」が既に慣例として

  通用し、全加盟国と職員の間で常識として共有され、問題なく運用されていたの

  もまた事実である。だから私の知る限り、創設時から一九九〇年代にかけて、少 

  なくともこの条文改正を求める声は一切無かった。

   では一体なぜ「当事者国」条文の改訂が、現在の委員会において、恰も宿望の

  ように看做されるに至ったのだろうか? それを考える前に、二つ目の視点を提

  示しておこう。即ち委員会と新規加盟大国の関係だ。

   一九八九年にソビエト連邦が崩壊すると、所謂主要先進国と呼ばれる国々の中

  には、調査共有委員会への関心を示す者が現れた。当時委員長に就任したばかり

  だったスタニスラウス・モデラたち委員会中枢の面々は、彼らの接触を好意的に

  受け取りつつも、極めて慎重を要する傾向と認識した。なぜならこれは、委員会

  創設時の理念に違える恐れがあったからだ。

   一九七〇年代初頭に私を旧アテネ本部へ招聘したのは、軍事政権打倒を目指し

  ていたギリシャの反体制派だった。彼らの目標は、圧倒的な政治・経済・外交・

  学術で他国の価値観や歴史観に影響を及ぼす大国に抵抗し、己の歴史と淵源を己

  の意思で記述できる権利を守る事だ。そしてこれは加盟国全体に共有されて来た

  危機感でもある。今でもとりわけギリシャ人職員の中には、旧アテネ本部の掲げ

  た目標を侵しがたい教条と考える者が多い。

   だが現実は理想ほど単純ではなく、ものの見方も一つとは限らない―――。国

  際的に多大な影響力を持つG7の加盟は、「提唱」と一九七五年条約が掲げた理

  念、即ち「歴史の共有が齎す平和と協調」を実現する上で、千載一遇の機会でも

  あった。だからアテネ本部中枢は、大国の加盟打診をきっぱりと断る事も、現加

  盟国を正面から説得する事も困難だと判断し、双方を包括する新たな枠組みの創

  設を以て解決の手段とした。それこそが改正条約なのである。

   一方、時を同じくして、当時北京に転居していた私は、委員会への正規加盟に

  関して中国当局の諮問を受けた。中国において一度立ち消えた正規加盟の話が、

  十年も経たない内に再度持ち上がったのは、当然G7との協議と無関係ではな

  い。


   ではG7と中国は、地域協力の枠を出ない小規模な専門機関に何の有用性を見

  出したのか? 敢えて簡単に表現するならば、彼らは委員会を『よすが』として

  の歴史を、恣意的に制御できる仕組みと看做したらしい。(『よすが』とは一部

  の条約改正関係者がよく使う用語で、自己の存在や言動の根拠を意味する。)自

  らの歴史を記述できない可能性を案じる人々によって創られた委員会が、そんな

  心配を特段必要としない国々に発見された事は、もっと重く捉えられるべきだろ

  う。というのも、どうやら改正条約締結後の新生委員会において、最初に取り上

  げられる調査題目は、冷戦の歴史的総括らしいのだ。

   言うまでも無く、冷戦は二つの「見方」に基づく陣営の対立だった。「民主主

  義国家と共産主義国家の陣営」という発想が成り立つのは、各々の国が行動の根

  拠を、それぞれ異なる見方に求めてきたからだ。冷戦が一応の終結を見せた今、

  その根拠を持ち上げたり貶めたりするのに、新規加盟国は委員会の『総論』シス

  テムを利用するつもりらしい。そこで執筆された『総論』が西側寄りの見解にな

  る事は自明であるし、第三世界の加盟国が比較的多いこの組織で、その『総論』

  を周知するのが何を意味するかも予想がつくはずだ。

   それを踏まえて、三つ目の視点を示したい。即ち改正条約のもう一つの柱、デ

  ジタル技術の活用を想定した関連条項の制定だ。

   最近委員会では、『総論』調査の円滑化のため、アテネ本部と各国本部を結ぶ

  遠隔会議システムが導入された。これは六月の条約採択後に本格運用が決定して

  いる。問題は技術と費用の出どころだ。

   システム本体の開発はもとより、セキュリティ等副次的な技術の導入、そして

  それらを構築し維持する資金……。委員会は従来の出張費や文書費を減額した

  が、とてもその程度で賄えるものではない。実のところ、この技術と資金は、完

  全に新規加盟国に依拠しているのだ。  

   これが何を意味するか、君ならば容易に予想がつくだろう。今後加速する『総

  論』周知のデジタル化事業も、大国主導で進むはずだ。これら『総論』の執筆と

  共有は、言わば組織の根幹となる事業である。そのインフラ部分を特定有力国に

  掌握され、それがどのような影響を及ぼすのか、関係者たちはまるで理解してい

  ないか、無視しているのである。

   最後に、まだ公にはなっていないが、ほぼ確実な情報として、ロシアはオステ

  ルマン博士が創設した教育機関を「提言」の正統な後継者と自称し、調査共有委

  員会に対抗して新たな国際組織を作るつもりだという。そして先日、委員会と全

  ての新規加盟大国は、ロシア側の声明が出た段階で、国際平和と協調に反する行

  為だと非難する算段を取りつけた。改正条約が今のまま進行すれば、二十世紀後

  半に世界を大分した『陣取り』が再現されてしまうだろう。私は歴史の共有につ

  いて誰よりも考えを巡らせた者として、自らの研究に責任を持たなければならな

  い。



 五枚目は再びワープロ打ちである。恐らくファイルの送り主によるものだろう。

                                                        

   文中の『よすが』について。曄蔚文は嘗て、これと自身が示した「見方」の概

  念とが地続きにあるという考えを示した。参考として、以下に『集団瓦解論』の

  一節を引用する。


  [1] 曄蔚文.集団瓦解論〔第二版〕,(北京: 政治社会学出版社,1998),22-23.


     例えばある遊牧民は、自らの祖先を狼と信じている。或いはそれを鯨に求

    める者もいる。だがそういう「間違い」に対し、生物学的根拠を以て懇切丁

    寧に説明するのは無意味である。彼らは人間の祖先を生物学的に知っている

    が、それは彼らの信じる淵源とは別次元の話であって、両者は矛盾なく両立

    し得るものなのだ。自己の過去、淵源を巡る問題には、斯様な「見方」の問

    題が深く関わっている。

     また中近世の欧州において、教会とは識字者の集まりだった。彼らは異端

    審問によって正統と異端とを区別し、教会に集う人々が間違った解釈で世界

    を理解しないよう記述した。このように正統と異端で判断する伝統こそが、

    現在の欧米社会の倫理観と価値観に過大なる影響を及ぼしてきた点について

    は、筆者の手に余るため、ここでは踏み込まないでおくが―――。とにかく

    天動説という世界の見方は、どれだけ自然科学が進歩しようと、長らく選ば

    れ続けてきたのである。

     以上二つの事例は、人間が現実とは別次元で「世界の見方」を主体的に選

    択でき、それは時に科学や倫理に基づく正当性すらも凌駕し得る事を示して

    いる。

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