第三〇話 博士の理想主義②
最初に口を開いたのはペレウスだった。
「信じがたい……。旧西側諸国が揃って加盟するのは、彼らの歴史観を世界の共通見解にするためで、アテネ本部側もそれを承知しているですって?」
「曄蔚文たちの調査によればね」
「話になりません。委員会は誰もが自分の歴史を記し、それを保証される権利を守る機関です!」
「マリアンから話を聞いて、君ならばそう言うと思っていた。君みたいな人がいるからこそ、この計画は慎重かつ秘密裏に、かつ大義名分に重きを置いて進められたのさ」
「この文面から察するに、祖父は当初、大国の新規加盟と条約改正に反対していなかったようです」フェイトンが言った。
「ああ。彼は寧ろ好意的だった。共有による平和と協調はもちろん、共有対象の恣意的制御自体は、必ずしも曄蔚文の主張と背反しないもの。彼が反対派に転じたのは、研究成果が自らの意図を超えた方法で利用される可能性に気付いた時だ」
「大国主導の歴史見解の共有が、冷戦を再現する可能性ですね」
「そして彼は、計画に『感動』の同類ユリアが関与している事を知った。そこでリゲルや私に協力を要請したんだ」
「曄蔚文博士は同類に詳しかったのですか? その割にこのファイルには、同類に係わる事柄が一切記されていませんが」
「君はぽんと超常現象を書き入れたら、他も虚偽と疑われる可能性を想像できないのか?」
小馬鹿にしたような言い方に、ペレウスは苛立ちを隠さずに言い返した。
「そうですね、確かに。ただ同類関連を省いたこの資料でも、委員会内の論調を覆すには十分な根拠だと思います。一九七五年条約を骨抜きにした上、東西対立の再現に繋がりかねない事態を招き、挙句死者まで出して。それで国際平和を謳うなど、誰の目にも支離滅裂です。貴方は同類がどうのと仰いますが、そもそもこれらの資料を早くに公表すれば、アテネ本部と大国の計画を阻み、犠牲を防ぐことが出来たのでは?」
アルファルドはピクリと眉を動かした。
「その認識はかなり甘いと思うよ。平和という揺るぎ難い正当性と、無意識の内に『感動』の同類に守られた集団の思考は、真相を公開した程度では覆らない」
「それは試してみないと分からないでしょう。今はもう失敗を恐れて躊躇できる段階にはありません。改正条約締結は来月七日の調印式典を残すだけ、殆ど完成しているようなものですよ」
「そんな事は分かっている。そう前のめりになるな。猪か、君は」
「はい……?」
マリアンがうんざりした顔で言った。
「二人共、何でそうなるんだよ……。アルファルドは彼らが納得できる説明をしてください。相手の立場と見識と心情を慮れという意味ですよ!」
「はいはい」
マリアンは友人に向き直った。
「まずは皆で情報を出し合って、状況をより正確に把握しよう。そこでペレウスに聞きたいのだけど、改正条約の裏でこんな計画が進められているのに、現職員にとっては単なる文面上の訂正程度という認識だったというのは、流石に不自然じゃないか? 本当に曄蔚文博士やリゲル本部長以外が、誰一人真相に気づかなかったなどありえるのかな」
「僕も疑問に思いました。そういう職員の方が多ければ、改正阻止に賛同してくれるかも」フェイトンが頷いた。
ペレウスは暫く考えてから首を振った。
「すまないが、私には思いつかない。条約改正を真っ向批判した職員は、ズメルノスト本部長だけだ。だけどもし彼が棄権した理由が、真相を知っていたからだとすれば、彼とスロベニア本部は協力してくれるかも」
「それにしては起こした行動が理解不能だ。棄権してどうなる?」
「どうして理解不能なの?」
訊ねたのは、四人から少し離れた椅子に座っていたカラーだ。
「何も知らないなら口を慎むべきじゃないか?」
「誰がこの三人を連れて来たのかしら」
ペレウスは狼狽えつつ彼女を擁護した。
「アルファルドさんの意見もカラーさんの疑問も尤もです。総会での棄権は特殊ですから」
「特殊って?」
ペレウスは説明を始めた。
「加盟国には総会を棄権する権利が無いって事だ。もちろんこれには理由がある。総会とは、委員長・上級委員・一部の上級職員の他、各国代表と本部長が出席する最高会議で、議題は基本的に一つだけ」
「『総論』の承認ですよね」フェイトンが言った。
「そう。『総論』は加盟国が共有するべき歴史記述、それを承認するとはつまり、『見方』の正統性を認める意思表示になる。だから総会では、反対は出来ても棄権はできない。委員会は自ら叙述した歴史を互いに保証し合う機関であり、放棄とは当時者国の過去や成立を素気無く拒否するという意味になってしまうから」
ペレウスは「互いに保証し合う」のくだりを殊更強調した。マリアンが再び尋ねた。
「総会の議題が『総論』承認だけなら、どうして改正条約採択の場になり得るんだ?」
「ああ、それは一九九九年に『条約改正の手続きに関する諸事項』という取り決めが成立して、条約改正は総会で採択されると決まったからだ。尤もこの決定については、個人的に特別違和感は無い。全代表と本部長が出席する会議は総会だけだし、なにより歴史の共有を体現した最高議決機関だから」
アルファルドが言った。
「つまり改正条約採択は、本来の規定と専用の取り決めに則って、正しく行われたわけだ。ズメルノストの棄権は無効、彼は総会を故意に撹乱した廉で罷免処分を受けた。じゃあ結局彼の棄権は、採択に何のダメージも与えなかったの?」
「私の知る限りでは。打撃を受けたのは、寧ろズメルノストと対話支持者の方でしょう」
「対話支持者とは、つまりスロベニア本部?」マリアンが尋ねた。
「必ずしも彼等だけとは限らないが……」
ペレウスはフェイトンに視線を移し、その表情から戸惑いを見て取ると、一度咳払いをして続けた。
「……分かりにくい言い方ですまない。先に共有と対話について、少し補足しておこう。曄蔚文博士の手記にある通り、旧アテネ本部は、自分の歴史を自ら記述し、それを互いに保証する、つまり共有の価値観として受容する点を重視していた。一方スロベニア本部の前身である旧リュブリャナ本部は、歴史見解の齟齬が関連する国際問題について、一定の水準を満たした歴史研究に基づき、当事者国同士が対話を行う場所を提供するという目的を掲げていたんだ」
フェイトンが言った。
「聞いたことがあります。だから両組織を元に成立した調査共有委員会には、共有と対話の両方の要素が取り入れられたと」
「その通り。だからスロベニア本部は、対話を尊重する職員の拠り所だった。ズメルノストはその筆頭みたいなもので、彼は以前からアテネ本部の方針を共有偏重と批判したり、『総会』が承認の場に過ぎない点を批判したりしてきたんだ」
アルファルドはうんうん頷いた。
「そう考えれば、改正推進派が文面上の変更に留まると殊更に強調したのも頷ける。改正条約は大国主導による『よすが』の恣意的制御、いわば『共有』偏重の極致だ。当然ズメルノストたちの反発は予想できる。だが文面上の変更としておけば、たとえ彼らが改正の背景を知り、それに抵抗したとしても、一九七五年条約を直接攻撃しているように見える。きっとズメルノストには分が悪かったはずだ。流石に一九七五年条約の正当性を疑う者はいないのだから」
「加えて条約改正に疑問を持つような職員がいたとしても、彼の一件で思考停止してしまうでしょう。今は誰だって彼と同列に扱われたくないと思っていますよ。彼への悪評は凄まじいものがあります。母国の既得権益に固執し、共有が齎す平和と協調を妨げたと」
「スロベニアには既得権益があるのですか?」フェイトンが尋ねた。
「彼らは創設国の片割れだ。当然主導的位置を担う場合はある。だがそれなら猶更、どうしてズメルノスト本部長は棄権など犯したのか……」
アルファルドは首を竦めた。
「とにかく彼が当てにならない事は判明したのだから、動機究明は後回しにしよう。行方は誰も知らないし、過ぎた事はどうしようもない」
「でも対話派を取り込む発想自体は悪くないのでは?」
再びカラーが口を開いたので、アルファルドは彼女に冷ややかな視線を向けた。
「どういう風の吹き回しかな。君はずっと委員会に無関心だったと記憶しているけど?」
「何もズメルノストが旗印になる必要は無いでしょ。彼以外にも対話を重視する有力職員くらいいるはず」
ペレウスは難しい顔をした。
「そうですね……。比較的対話派が多い部門として知られているのは、ハンガリーのブダペスト本部とチュニジアのチュニス本部でしょうか。どちらも原加盟国です。ただ……」
「ただ?」
「条約改正における彼らの立場は不鮮明です。例えばブダペストのヤンカ本部長は、批判すべき問題には忌憚ない発言をしてきた指折りのベテランですが、改正条約採択の時もズメルノスト処分の時も、ずっと沈黙を貫いています」
「つまり彼にとって、条約改正は批判すべき問題ではないのでは?」アルファルドが言った。
「チュニス本部は?」フェイトンが尋ねた。
「うーん……。チュニス本部が伝統的に対話を重視して来たのは本当だけど、最近の状況はよく分からない。昨年新たにチュニジア人本部長が就任したらしいが、彼に関する話は殆ど聞かないし」
アルファルドは肩を竦めた。
「これでよく分かっただろう。対話派と言いつつその実態は曖昧で、彼らを集めて反対勢力に仕立て上げるのは難しい。人間側の協力者は殆ど見込めないって」
「だからまずは同類ユリアを標的にすべき、アルファルドさんはそうお考えなのですね」
「その通り。やはり話が分かる奴だ」
ペレウスは更に尋ねた。
「では貴方には、『感動』の同類を打倒する具体的な方法があるのですね?」
セビーリャの囚人 江島 @fae_mel
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