コミュニオン①

第二二話 Wie Wasser, von Klippe zu Klippe Geworfen (湯湯たる流水のごとく、巍巍たる山崖を流れ落ちる)①

【二〇〇四年八月二七日/アテネ本部・李奇代表の執務室】


 上級委員はアテネ本部に置かれる非定員の幹部職で、主に組織の全体的な方針策定を業務とする以外に、彼らの中から『総論』執筆監督者が選出される。『総論』の執筆監督とは即ち、加盟国全体が共有するべき歴史見解に責任を負う立場と換言できるため、上級委員は特別重要な役職と看做されている。

 上級委員に任命されるのは、各国本部・支部長などを歴任した実力者と、そして若干の将来有望な若手職員である。例えば楊何業は前者、アントニス・フィデリオは後者に分類され、両者の違いはそのまま職掌や待遇の差にも影響を与えている。最大の相違は、若手側に『総論』の監督資格が無い点だ。これは実際『総論』執筆の任に堪えるには、役職以外にも様々な条件がある事を示している。

 アントニスが上級委員に任命されたきっかけは、ウィーン本部が地元大学などと協力して独自に行っていた調査だった。それは第二次大戦後の東欧におけるドイツ人追放問題に関する基礎調査で、アントニスは現在のスロベニア北部を中心に、主に当事者への聞き取り調査を行った。彼の六年弱に及ぶ実地調査の仮まとめは、敗戦国出身者の境遇という調査し辛い問題に関し、口述資料と文献資料に基づいて実態を克明に描きつつ、現代東欧におけるドイツ(人)という観念にも考察を加えた点が評価され、モデラたち上層部の目に留まる事となった。こうして上級委員に抜擢された時も、また彼を見込んだモデラが自身の娘との縁談を持ちかけた時ですら、アントニスはまるで水が低地へ流れるように承知したのだった。

 同世代の中では突出した実力者であり、常に落ち着き払って少しの頓着も見せないアントニス、そんな彼の名声に予想外の瑕疵がついたのは、二〇〇四年六月、リゲル・クラウディアの後任者を決める人事調整でのトラブルだった。それは彼が参加する初めての人事だったが、彼が頗る躍起になる様子を見て、調整に与る面々は少なからず戸惑いの表情を浮かべた。アントニスは実兄の北京本部長任命に断固反対したのだ。

 ペレウス・フィデリオを推薦したのは元北京本部長の楊何業上級委員である。各国本部長人事では、ポスト経験者の推薦が慣習化しているため、いくら推薦人が厄介なトラブルメーカーといえど、正式な手続きさえ踏みさえすれば承認される可能性が高い。また突然の離職という背景や、中国の正式加盟を目前にしている現況を鑑みても、ペレウスの推薦に大きな反対意見は出ないと目されていた。

 しかしアントニスは、人事調整の場において、実兄が如何に北京本部長の任に適さないか証明するために、楊何業の推薦文を逐一引用しながら延々と列挙し、竟には他候補の擁立までも試みた。幸い処分の対象にこそならなかったものの、常識を逸した頑迷さで人事調整の場を混乱させた彼の行為は、新進気鋭の代名詞たる本人はもちろん、義父の顔にも大いに泥を塗る事となった。

 結局アントニスが錯乱した動機は誰にも分からない。李奇代表も彼の前で兄の話題を避けていた一人だったが、ユリアをトライデント・ホテルに訪ねた翌日、とうとう彼を執務室に招いて尋ねた。

「アントニスさんは、ペレウスさんがリュブリャナに滞在中とご存じでしたか?」

「いいえ。兄からは北京に直行すると聞きましたが」

 李奇はリュブリャナでのフェイトン追跡の経過を説明した。

「二人が不審車に乗り込んで逃げたですって? ……まさか曄蔚文事件と関係があるのでしょうか」

「今のところその可能性は低いと考えています。というのも、数日前からフェイトン君は私の部下の尾行を不審がっていたようなのです。大方訃報に動揺した彼が、偶然知り合ったペレウスさんと共に、現地人の助けを借りて追跡集団から逃れたのだと思います」

アントニスは怪訝な顔をした。

「確か昨日は李奇さんご自身がフェイトン君に連絡を取るとおっしゃいましたよね。彼は一体何を勘違いしているのです?」

「分かりません。メールを送って経緯を説明しましたが、今のところ返事はありません。更に奇妙なことに、彼は大使館や委員会、或いは所属大学とも連絡を取っていないのです」

「ご家族は?」

「彼に連絡を取るべき家族は居ないはずです。彼の両親は既に他界しています。また曄博士のご実家は河北省石家荘市にありましたが、とっくの昔に没落し、交流のある親族も居ないと聞いています」

「そうでしたか……」

「問題はそれだけではありません。肝心のペレウスさんも、アテネ本部や大使館と連絡を取った形跡が無いのです。彼がフェイトン君の正体と殺人事件とを知らないとは思えません。それで貴方に相談したいと思って」

「分かりました。じゃあ直ぐにでも兄と連絡を取ります」

 李奇は慌てて相手を宥めた。

「待ってください、もう一つ勘案を要する問題が。二人がリュブリャナに滞在していた理由です。どうやらアルコル博士の記事について調べていたらしいのです」

アントニスがピクリと眉を動かしたのを、李奇は見逃さなかった。

「何か心当たりがお有りなのですね?」

「いや……、もしかして「アルコル博士の思い出」でしょうか」

「おや、ご存知でしたか。モデラ委員長も初耳だったというのに」

アントニスは半ばばつが悪そうに、昨年のロンドンでの出来事を説明した。

「なるほど。じゃあ二人は同じ記事を調べる者同士、偶然知り合う機会もあったでしょう。自然彼らを車に乗せた現地人の目星もつきます」

「記事の筆者ですか?」

「いえ、筆者は故人です。私が言いたいのは、それを掲載した雑誌の関係者の方です。そうだ、アントニスさんは記事の中身をご覧になった事はありますか?」

「いいえ。兄からはアルコル博士の晩年に関する記述としか」

李奇は「思い出」の英語訳を手渡した。

「どうぞ。訳者はデジューというリュブリャナ出身の職員で、楊委員が用意したスロベニア本部内の協力者です」

アントニスは真剣な表情で頁を捲ったが、読み終えると首を傾げた。

「うーん……。確かにアルコル博士の晩年を記した珍しい記事ですが、作者の正体は不明、他の資料との関連も不明とは……」

「「提言」について記載があります。ソ連の機関誌以外で、「提言」の実在に触れた記述は他に無いはず」

「ですがそれも僅かに一文のみです。しかも資料の成立過程が不明である以上、記述の正確性か保証できません」

「では放っておいて構わない?」

「まさか。歴史を扱う国際機関が、歴史資料の存在を無視したなど、不都合では済みません。モデラ委員長には先立ってご報告なさったのでしょう。彼は何と?」

「特段何も。ペレウスさんは記録保管室の管理主事だから、自然「提言」を調べる機会もあるはずだと。ただ「提言」の実在否定を要求したのはユリアと楊委員だから、あの二人を刺激しないよう配慮する必要があると」

 アントニスはモデラの返答に違和感を得た。確かに「提言」否定見解は、ロシア声明への対抗手段である一方で、ユリアの強い要望が通ったという側面も持つ。だから改正条約の重要協力者である彼女を刺激しないためには、直ちにペレウスの調査を中止させ、問題の記事を回収せよと指示するべきだ。だがモデラは―――。

「まるでペレウスの調査を黙認しているように聞こえます。楊何業はユリアの駒、彼が既に知っている以上、彼女に漏れるのは時間の問題でしょうに」

「私もそれを懸念しました。ですが楊委員は彼女に報告していないらしいのです」

「それは事実ですか? 一体どうして……」

「分かりません。まあ順当に考えれば、改正条約と中国の正式加盟を達成するために、これ以上人的犠牲を出したくないからでしょう」

 李奇の推測はこうだ。もしこの一件を知れば、ユリアは直ぐにペレウスの調査を力ずくで阻止し、場合によっては彼に危害を加える事も躊躇しない。事実、彼女は背叛を理由にリゲル本部長へ手を下している。曄蔚文とリゲルに続き、北京関係者から更なる犠牲が出れば、否が応でも悪い意味で衆目を驚かす事になる。そうなれば北京本部を地盤に成りあがった楊何業も影響を免れないし、ともすれば中国の新規加盟にも支障が生じるかもしれない。

 アントニスは李奇の推測に一定の理屈を認めつつも、今一つ納得できない表情で言い返した。

「あの楊何業がそんな殊勝な判断をするでしょうか。寧ろ今までだって、わざと危ない橋を選んで大闊歩してきた印象しかないのに」

「だからこそ、楊委員が彼の飼い主に報告していないのは、相応の桎梏を想像させるのでは?」

「まあ、そうかもしれません。とにかく私達もユリアの耳に記事の話を入れないよう、素知らぬ振りをしておかないと」

「それはどうでしょう。私達や楊委員を経由せずとも、ユリアがペレウスさんの動向を察知する可能性は十分にあります」

「何をおっしゃりたいのですか?」

 アントニスが尋ねると、李奇は声を一段と低くした。

「私に一つ提案があります。そこでアントニスさんにお願いが。その実現可能性を判断するために、「提言」を巡る状況とお兄様の動向に関し、ぜひとも腹を割ってお答えいただきたいのです。「提言」はともかく、ペレウスさんについてなら、貴方以上の回答者はいません」

「え、ええ、分かりました。それでご質問とは?」

 李奇はテーブルに黒革製の手帳を広げた。そこには「提言」関連の事柄をまとめた年表が記されている。

「一つ目は「提言」実在問題についてです。私なりに経緯をまとめてみました。……一九三七年、ソ連はアルコル博士の「提言」を訳した「『提言』概要」を公表し、二年後それに基づく教育研究機関を創設しました。そして一九六七年、曄蔚文博士たちは、「提言」原本の実在云々には直接言及せず、「『提言』概要」とソ連の教育研究機関への批判をベースに「提唱」を発表しました。一方同時期の西欧諸国では、「提言」実在を示す記述がソ連だけに僅存する点を根拠に、更にはソ連と該当教育研究機関への拒否感を背景に、「提言」が新設機関の箔付けを目的とした捏造に過ぎないという見解が存在していました。ただ実物が無い故、正面から議論される機会も無かった。そして今回、調査共有委員会と新規加盟国は、ロシアの新機関創設声明に対抗する形で、「提言」の非実在に公式の場で言及しました」

「私もほぼ同じ理解をしています。それが?」

「……私は歴史の専門家ではないので、この史料を巡る以上の経緯が、つまるところ何を意味するのか理解できません。アントニスさんは、研究者としての直感を働かせたとき、アルコル博士の著した「提言」なる書物が実在するとお考えですか?」

 アントニスは直截に過ぎる質問の真意を測りかねた。委員会職員としてならば、「客観的根拠が無い以上、ソ連の創作である可能性が極めて高い」と答えるべきだ。だがそれは李奇が求める回答態度ではない。彼が「腹を割って」と強調したのは、そのまま「委員会の建前を考慮せずに」と換言できる。では一人の歴史を専攻した人間としてなら? それは先程の「思い出」の一文を、資料的価値が乏しいと断じつつ決して無視出来ない理由でもある。

 彼は重々しい様子で口を開いた。

「確かに、客観的証拠が無いだけで、私個人は「提言」があったと考えています。ですが往々にして、過去に存在したどんな事物も、必ず存在を保証されるわけではありません」

「分かりました。では貴方から見て、ペレウスさんは客観的証拠を見つけ、「提言」の実在を保証できると思いますか?」

 二つ目の質問は、アントニスにとっていくらか答えやすいものだった。

「今の状態では判断材料が少なすぎますが……。ただ兄はどこまでも生真面目で、自分の仕事に忠実な人間です」

「同感です」

「それが曄蔚文博士のご遺族と同行しながら、委員会に連絡の一つも入れませんでした。二人は所詮部外者です。仮に曄蔚文事件と委員会を結び付けたとして、それがそのまま疑惑に直結するのはやや唐突に思います。恐らく兄には、そう判断する下地があったはず」

「否定見解への不信感という下地ですね。彼であれば、「提言」周辺の違和感に気付いたでしょうし」

「ええ。一方で先程の「思い出」は、成立経緯や分量の面で、決して単体で十分な内容を有した史料とは言えません。にも拘らず、ペレウスは「思い出」を二年前に閲覧し、その後も何度かリュブリャナへ赴いている。つまり有無を言わせぬ論証が出来る段階にはないけれど、既に他の史料と具体的展望を持っていて、その鍵はリュブリャナにある、私はそう考えています」

「なるほど、よく分かりました」

今度はアントニスが尋ねた。

「では李奇代表のご提案を聞かせてください。表情から察するに、私の回答は、貴方の計画を頓挫させるものではなかったのでしょう?」

「ええ。……ところで、私達が丁度一年前、今のような協力関係を結んだのは、楊委員と同類ユリアの関係を打破し、楊委員の放縦を阻止しつつ、ユリアを上手く牽制する方法を探るためでした」

「その通りです。増長したトラブルメーカーと人心を操る同類との結託は、健全な委員会運営に支障を来たす危険要素ですから」

「でも私達は未だに決定打となる方策を打ち出せていません。そして事態は差し迫っている。改正条約が締結すれば、楊委員と彼の抱える支持者は一層手が付けられなくなるでしょう。なぜなら楊何業は改正条約における重要な旗振り役の一人、若手や下級職員が多くを占める楊何業派に、条約改正という成功体験を植え付けるのは、賭博におけるビギナーズラックと同じですので……」

 アントニスは歯がゆく感じた。李奇は率直に答えざるを得ない質問をぶつけて来る癖に、自分は迂遠な言い回しで本音を隠そうとする嫌いがある。

「単刀直入に仰ってください。言いにくい提案なのかもしれませんが、仮に不都合な話をされたところで、今更李奇さんへの信頼が揺らぐわけありませんよ」 

 相手に急かされて、李奇は一呼吸おいて口を開いた。

「すみません。ただ順序立てて話したかったのです。この提案は確実に貴方の反感を買いますから。……健全な組織運営を願う我々にとって、一番望ましい展開とは、外向きには「提言」の非実在見解を維持しながら、ペレウスさんの調査が成功した場合です。アテネ本部中枢においては楊委員失脚の口実としつつ、「提言」の抹消を求めるユリアに対し実在隠蔽という恩を売る。今の状況であれば、その展開に持ち込めるのではないでしょうか」

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