第二三話 Wie Wasser, von Klippe zu Klippe Geworfen (湯湯たる流水のごとく、巍巍たる山崖を流れ落ちる)②

【二〇〇三年八月三一日/アテネ本部・李奇代表の執務室】


 李奇とアントニスは、ここ一年の間、共に楊何業の動向を警戒し、彼とユリアの関係を注視して来た。二人がそのような秘密の協力体制を築いたのは、二〇〇三年八月、二人がモデラに連れられてトライデント・ホテルに赴いた時に遡る。ユリアたち三人の同類を紹介され、彼らの不可思議な力、及びアテネ本部との蜜月関係を知ったアントニスは、モデラが自分を同類との交渉役に据えるつもりであり、その期待に応えるには李奇中国代表との良好な関係維持が重要だと察知した。

 数日後、アントニスは李奇の執務室に招かれた。李奇は桂花茶(キンモクセイの茶)を振る舞った。

「お口に合うかは分かりませんが。先日南京に住む両親が送ってくれた品です」

「とても香りが良いです。尤も中国茶を頂戴するのは初めてなので、こういう単純な感想が無知故の無作法になっていなければいいのですが」

「はは、まさか。どうかあまり畏まらないでください。突然呼び付けるような真似をしたのは私の方なのですから」

アントニスは張り付けたような笑顔を浮かべた。

「お気遣い恐れ入ります。……実は李奇代表には、前々から個人的にご挨拶申し上げたいと思っていたのです。李魁博士の著作『Serenity of the Stone City(原題:清代南京都市経済史)』は学生時代に何度も拝読したものですから。彼が文中で度々言及なさるので、『紅楼夢』にも手を出した位です」

 些か誇張しているが、嘘ではない。李奇はいかにも意外そうな表情を浮かべた。

「そうでしたか。ですがどうして父の本を? 確かフィデリオ委員のご専門は―――」

「近世ドイツ都市経済史です。だからこそ博士の研究には大変感銘を受けました。博士は中国都市の経済を検討する上で、近世ドイツを初め、同時代他地域の経済研究を踏まえているでしょう。李魁博士が比較史的手法を用いて提示した論点は、一九六〇年代後半の論考とは思えないほど、精緻で的を射たものばかりです。原語版が出版されて二十年近く経って英訳が刊行されたのは、それらが今の時代でも示唆に富んだものだからに他なりません」

 李奇は相手の評価をおべっかだと思いつつ、軽蔑する気にはならなかった。アントニスの研究職員としての顕名は以前より耳にしているし、恐らく彼は中国代表に媚びを売るためだけに、その父親の研究を履修するタイプの人間ではない。

「他ならぬフィデリオ委員にそう言っていただけるとは、大変恐れ多いですね。私もウィーン本部でのお仕事ぶりを聞き及んでいたので。ご指摘の通り、父は比較史的手法を重視していました」

「『外国史は自国の歴史を映し出す鏡となる』、ですよね」

アントニスはすかさず跋文の一節を口にした。

「ええ。因みにその比喩は、『明鏡は形を照らす所以なり、故事は今を知る所以なり』という中国古典の語句が由来です。つまり歴史が現在を映し出す「鏡」という意味です。委員会の方はあまり興味が無いかもしれませんが、父が最初にアルコル博士の研究を知ったのも、そんな鏡を求める過程においてでした。ドイツ南部都市における貨幣経済発達の歴史は、アルコル博士の最初期の研究テーマですからね」

 桂花茶の甘く湿潤な芳香に包まれて、李奇の英語はどこまでも淡泊に響く。だが彼が内心悪くない気分なのは、ほぼ初対面といっていいアントニスにも見て取れた。

「今日フィデリオさんにご足労いただいたのは、同類ユリアについて相談したいからです。モデラ委員長は彼女を、来年九月の改正条約の重要な協力者だと説明しました。それについてどう思われますか?」

 アントニスは少し考えてから答えた。

「率直に言って不可解……でしょうか。改正条約の主な内容は、当事者国の再定義と『総論』の周知方法改善の二つ。具体的には、加盟国以外の国と地域にも当事者資格が発生し、『総論』の周知にデジタル媒体が活用されるという二点です。両者ともこれまで異口同音に改正が求められてきた内容であり、殊更超自然的な助力を要する問題とは思えません」

「ええ。にも拘らず、モデラ委員長たちは同類の力を借りる。つまりあの改正条約は、単なる具体的事項の変更に止まりません」

 李奇がやけにはっきりと断言するので、アントニスは怪訝な表情を浮かべた。

「李奇代表は何かご存じなのですか?」

「根拠の一つは中国の正式加盟です。フィデリオさんが仰った程度の改正内容ならば、我々は正式加盟に踏み切ったりしません」

 李奇は黒革に金字の装丁が施された分厚い冊子を差し出した。

「一九九六年の香港調査の『総論』です。これにまつわる事件をご存じですか?」

 アントニスは頷いた。所謂香港調査とは、一九九五年から九六年にかけて行われた、「香港島の体制変遷に関する基礎的調査」の略称である。そこで当時北京本部長だった楊何業が引き起こしたのが、委員会の根幹を揺るがす一大スキャンダルだった。

 香港調査では、当事者国であるイギリスと中国の要請に基づき、香港が南京条約で清朝からイギリスへ割譲され、中華人民共和国へ返還されるに至る歴史的記録を、加盟国が共有すべき『総論』としてまとめたのだが、当調査には従前に比して二点例外があった。一つは返還自体が外交上一応の決着を見た問題であり、故に『総論』に基づく当事者国同士の対話が省略された点、もう一つはイギリスが非加盟国だった点である。だが実のところ、香港調査が実施された理由こそが、この非加盟国の当事者国資格適用問題にあった事は、一部の関係職員を除いて殆ど知られていない。

 当事者国資格適用問題とは、一九七五年に締結した『調査共有委員会条約』の条文解釈を巡る問題である。この一九七五年条約では、委員会の役割について、「歴史見解の齟齬に起因する国際問題について、当事者国の要請に基づき調査を行う」と定めた。しかし肝心の「当事者国」に詳細な定義が無く、また当事者が「国」に限定されている点が問題視され、早くから見直しの必要性が叫ばれてきた条文でもあった。そこで当時の委員会中枢は、将来的な正規加盟を見込んでいた両国の協力を得て、香港調査を「当事者国」拡張解釈の前例と位置付けたのだ。

 つまり香港調査は現今の国際問題解消を目的としていなかったため、調査結果に基づく『総論』も、香港島に関係する公的文書をまとめるという当たり障りのない内容となるはずだった。当然楊何業本部長も、調査の実働部隊の長として、『総論』執筆担当の上級委員の下、基礎的な資料収集を任された。しかしあろうことか彼は、返還の政治的影響を懸念する香港民主派に極めて同情的な調査を行った挙句、それを理由に対立した執筆担当委員を放逐し、自分で勝手に『総論』を書き上げてしまったのだ。

 アントニスは楊何業の『総論』をペラペラと捲った。

「……『職員は所属集団の利害を顧みず、可能な限り公平かつ公正な姿勢で調査に当たらなければならない』。楊何業は最も重要な職員規範を破ったのみならず、返還自体にも浅からぬ禍根を残しました。彼は然るべき処分を受け、調査もやり直されるべきだった。なのに彼の『総論』は何故か正式に承認され、現在も加盟国ではそれに基づく報道や教育が行われている。そして彼本人も辻褄合わせで上級委員へ昇進した。そういう事件だと理解しています」

 李奇は頷いた。

「おっしゃる通りです。さらに楊何業の『総論』は、その論理的完整ぶりもさることながら、香港が抱える体制的課題に一石を投じた好論として、欧米の反共主義者を中心に今なお高い評価を得ています。委員会でも、特に若い職員や中下級職員には、彼を剛毅果断と支持する者が多いとか」

「否定はできません。李奇代表は委員会の事情に詳しいのですね」

「仕方ありませんよ。私どもの立場から言えば、偏向的な歴史見解を加盟国に共有されたわけですから。もとより中国が準加盟国に収まったのも、国内で内政干渉を助長すると猛批判を呼んだせいだったのに」

「まあ、確かに。中国代表ならそうお考えになるでしょう」

「ええ。中国では一九八〇年代に、一度正規加盟の話が持ち上がったものの、内政干渉を案じる国内反発を受けて、準加盟国という例外措置で落着した過去があります。そして本来委員会への歩み寄りとなるはずだった九六年の香港調査も、更に追い打ちをかける結末を招いてしまいました。だから私はあの香港『総論』が破棄か大幅改訂されない限り、中国の正式加盟はあり得ないと考えてきました。にも拘らず、今回の改正条約を機に、中国政府は正式加盟を決定したのです」

「まさか香港調査に関する何らかの取引が?」

「或いはそれを差し引いて余りある利点があるのか。ですが不自然と思いませんか? そもそも中国は、九六年当時何故もっと強固に抗議しなかったのでしょう。委員会を脱退しておかしくありません。ですがそんな不可解な事件の経緯も、同類ユリアが関与していたならば見方が変わってきます。実は私がユリアと面会したのは、先日が初めてではありません」

「そうなのですか?」

「ええ。中国代表は、委員会と北京当局の連絡役であるのみならず、同類ユリアの窓口でもあるのです。中国はユリアに対し、中国代表など一部を除く政府関係者との無断接触、及びあらゆる政庁への立ち入りを全面的に禁止していますから。そしてその切欠となった事件こそ香港調査です。楊何業と彼の『総論』が処分を免れたのは、つまるところユリアが彼を助命したからなのです」

 アントニスは戸惑った。そんな裏事情は初耳である。

「どういう事なのでしょう。ユリアと曄蔚文博士、そしてモデラ委員長を除けば、。一方でそれは中国も同じ、何せ改正を機に正式加盟する位ですから。ひょっとして香港調査事件の因縁は、既に清算されたのでしょうか」

「その辺りの事情は私にも分かりませんが、清算されていないのは確かです。中国は楊委員とユリアへの警戒を少しも緩めていません。ただ改正条約締結にはユリアの力が不可欠で、改正条約を進めたい中国側は、ユリアの要求を一定程度容認しなくてはならない。それが彼女の駒である楊委員の跳梁を可能にしているのだと思います」

 「改正条約を進めたい中国」―――、アントニスは再度引っかかりを感じた。李奇は先ほど、中国の正規加盟条件として、香港『総論』の大幅改定か破棄を挙げた。だが改正条約による条文変更のみでは、『総論』の改廃を望めないばかりか、その主犯たる楊何業を正当化してしまう可能性が高い。

 つまり条約改正では、中国の正規加盟を遠ざけた事件の解消は見込めないのだ。ではなぜ中国はそれを進めたいのか? それこそが彼の言った「差し引いて余りある利益」なのだろうが……。

 アントニスは自分の推理を悟られないよう、聞くからに単純そうな口調で尋ねた。

「李奇代表のお話から察するに、改正条約は、中国やアテネ本部、楊何業委員、同類などにとって、各々の利害関係を超えた一つの目標になっていると考えるべきでしょうね」

「ええ」

「だとすれば今一つ判然としない事があります。国家や個人に思惑があるのは理解できますが、人心を操る同類ユリアにも、改正計画に協力する利点があるのですか?」

 李奇は落ち着き払った様子で答えた。

「流石の慧眼ですね。私の拙い説明をお聞きになって、敢えてユリアに注目なさるとは」

「……どういう意味でしょうか?」

 アントニスは訝しみつつ尋ね返した。

「我々にとって、ユリアへの対応こそが必急の課題という意味です。恐らく彼女は改正後の委員会にも干渉します。他方、改正条約が締結に至れば、当然旗振り役である楊委員の株も上がるでしょう。それこそ次期委員長の座に手をかける位には」

「まあ、その可能性は否定できません」

「彼が首長になれば、今まで起こしてきた様々な問題行動の正当化に繋がります。楊委員は今後も様々な醜聞を起こし、委員会と加盟国の間で培われてきた信頼を破壊するでしょう。その背後に彼を熱狂的に支持する集団と、人心を操る同類がいるとなれば、事態は猶更深刻です。中国はそれを懸念しているのです」

 それは必ずしも中国が改正条約を推進する動機にはなり得ない。しかしアントニス自身、李奇が指摘した懸念自体には大いに頷くところがあった。楊何業が現在進行形で義父の組織運営に支障を及ぼしている事に、少なからず危機感を抱いているからだ。しかし結局のところ、楊何業の台頭は抗いがたい時勢であり、個人の画策がものを言う類の問題ではない。

「李奇代表のご見解は概ね理解しました。もちろん事態の悪化を防ぐ努力は必要です。ですが結局は成り行きに委ねるしかないと思いますよ」

 しかし李奇は引き下がらなかった。

「私はそうは考えていません。突き詰めれば、この問題で対応すべきは二つです。楊委員を委員長ポストから遠ざける点、そして彼とユリアの関係を瓦解させる点です。前者はともかく、後者については全く打つ手が無いわけではないはず。ユリアの要求を的確に把握し、彼女にとって私たちが楊何業より有益であり、手を組むに適切だと納得させればいいのですから」

 アントニスは仏頂面から飛び出した無稽な発言に唖然とした。

「ユリアと楊何業委員の協力関係を瓦解させる? 流石に実現性に乏しいのでは」

「馬鹿馬鹿しいと思われますか?」

「ユリアはもちろん、カトやシノの能力をご覧になったでしょう。水や炎を自在に操るなど、災害以外の何者でもない。人智を超えた力の持ち主を、そう体よく牽制などできるとは思えません。それに楊何業だって、ユリアと我々の接近を黙って見てはいませんよ」

 しかし李奇は相手の指摘を全く意に介さずに言い返した。

「私は決して貴方を霧中に引き摺り込むつもりはありません。先ほどユリアたちと会ったのは、先日が初めてではないと申し上げたでしょう。実はこの計画は、少し前から同類シノと進めているのです。彼女も楊何業とユリアの関係を快く思っていませんから」

 同類シノ―――。アントニスは『岩漿(マグマ)』を操る彼女の、いかにも東アジア系らしい容姿を思い出した。

「もしかして彼女は中国の同類なのですか?」

「いいえ。日本の同類です」

「彼女が信用に足るのかは……、あまり意味の無い質問でしょうが、彼女は李奇代表の方がユリアの信頼を勝ち得るべきだと考えていると?」

「私ではなく、私たちですよ。シノは楊何業の強引で不誠実な態度が、親友ユリアに良からぬ影響を及ぼす事を懸念しています。だから私は彼女の助けを借りて、改正条約や香港調査の背後にあるユリア本人の目的を把握し、私たちが楊何業以上に同盟者として相応しいと示したい。そのために、同じ立場にある貴方に協力していただきたいのです」

「そうおっしゃいましても……」

「もちろんこれが最善の策とは言いません。でも取り掛かりとしては十分なのではないでしょうか」

 李奇の言葉は懸念を十分に晴らすものではない。しかし同類の力を借りて打開策を立てるという彼の提案に、アントニスが魅力を感じたのも事実だった。こうして二人は、一先ずユリアと楊何業の周辺を調査しつつ、二人の間に付け入る隙を探す事にした。調査は順調とは言い難かったが、それでも本人たちの努力とシノの助力によって、いくつかの新事実が明らかになった。それらの中には、最近北京本部長に就任したリゲルも、密かに香港調査事件における収賄疑惑を調査している事、そしてユリアが委員会で最も恃みとしている人間は、実際楊何業でもモデラでもなく、曄蔚文博士である事などが含まれていた。

 他方、李奇代表との協力とは別に、アントニスはアテネ本部の職員として、中国代表と北京本部への注視も怠らなかった。李奇は明確に説明しなかったが、彼と楊何業、そして曄蔚文という中国関係者が、条約改正において各々主体的な立ち回りを見せているのは明白である。彼らが三者三様に同類との交渉に携わっている事実、後に起こるスロベニア本部の凋落、そしてモデラ委員長が「提言」否定見解の公表要求を退けられなかった事実は、ずれもユリアの助けを受けて誕生する新生組織において、中国関係者が主導的立場を得る可能性を示している―――。

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