第二一話 神聖なる殿堂では
【二〇〇四年八月二六日/ギリシャ・アテネ】
アテネの政治経済の中心であるシンタグマ広場、その北西に位置するトライデント・ホテルは、国内系大手ホテルチェーンであるトライデント・リゾート社の旗艦に当たる。モデラは李奇とアントニスと合流し、ユリアたちが借り上げている客室へ向かった。
「結論から言えば、曄蔚文事件の犯人に心当たりはない。あたしも寝耳に水だもの」
同類ユリアはキャミソールの上に一枚羽織っただけのカーディガンを弄んだ。彼女は外見こそ精々十代後半か二十代初頭だが、委員会と協力関係にある同類の頭領格だ。あの老淑女然としたフェルカドですら、ユリアの言動には無条件で一目置く姿勢を見せる。もちろんモデラたちも例外ではない。十五年前、モデラが初めてローマにあるユリアの拠点を訪ねた時、彼女はトラヤヌス帝の大造橋事業に携わったと豪語した。当初こそ彼は侮られたと憤慨したが、今ではそれが決して法螺話ではないと理解している。
「そうですか。何か手掛かりを得られればと思ったのですが」
「残念ながら、現状何一つ分かりません。だから北京に行って調べようと思います。誰も信用ならない以上、自分で調べるしかありません」
今度はオリーブ色の髪を指先に絡みつけている。いずれも頗る機嫌が悪い時の仕草だ。
「ユリアさんご自身が北京に向かうのですか?」
「ええ。そこで尋ねたいのですが、殺害現場にあったという、改正条約の取り決めや同類に関する資料とは? そんな資料が存在するとは初耳なのだけど」
「私たちも存じません。曄蔚文博士の所持品かどうかも不明です」李奇が答えた。
「資料はまだ北京に?」
「ええ。中国外交部が回収しています」
「それはあたしが預かります。いつも通り李奇代表に現地での手配をお願いするわ。アテネにはシノを残すから、何か要件があれば彼女に言づけてください」
「承知しました。ではカトさんも北京に同行なさるのですか?」
李奇は壁際に立つ長身の男に尋ねた。彼もシノと同じく、ユリアと行動を共にする同類の一人である。
「僕? 僕はウィーンに行きます。フェルカドのおつかいで」
「とにかく一番重要なのは、調印式典を万全な状態で迎える事。モデラ委員長たちはそれに専念してください」
ユリアの言葉にモデラは頷いた。
「ええ、私どもも式典の重要性は理解しています。曄蔚文博士にとっての集大成でもありますし」
「その通り。改正条約は同じ歴史の『見方』を共有する舞台であり、調印式典はいわばその舞台装置と言えます。改正条約という舞台を共にする加盟国は皆、同じ過去を共有する点で対等な存在となり、共通の歴史見解は互いを同じ人間と認め合う根拠になる。それが曄蔚文博士の理想であり、あたしたちの理想です」
アントニスは用心深く言葉を選んだ。
「ただ現実問題として、その舞台を拒否する人々もいます。ロシアの声明や曄蔚文博士の事件は、彼らの一部の先鋭化を示しているのではないでしょうか。彼らの封じ込めには、やはりユリアさんの性質が不可欠です。なのでせめて改正条約が締結するまでは、アテネに残っていただいた方が良いと思いますが」
ユリアはまるで実験動物でも観察する様に、大きな緑眼で相手を凝視した。
「あたしは優先すべき事柄をきちんと理解しています。それに一つ訂正させてもらうと、貴方が仰るような人はいない。ザラストロも言ったでしょ、『それを享受できない者に、人間たる資格は無い』と。舞台への招待を拒否した者に、舞台に居る者と同じ価値を認める必要はありません」
「のぼるに相応しい舞台を創れば、自然と人は靡きます。我々委員会は誰が乗ろうと耐えられる強固な舞台を用意する。それはフィデリオ君も理解していますよ」モデラが言った。
「ならいいけど」
「恐れ入ります。それともし犯人について新情報が分かれば、私どもにもご教示いただきたいのですが」
「ええ」
モデラたちが退出すると、カトはユリアを諫めた。
「『人間の資格は無い』などと言ったら、彼らは警戒するに決まっている。露骨な表現は避けるべきだ。特に今みたいな大詰めにおいては」
ユリアはふんと鼻を鳴らした。
「それは欺瞞ってものよ。彼らは腐っても歴史研究者なのだから、人間による人間の峻別を理解している。曄蔚文もそう。彼は「提唱」において、過去に対する見方の共有こそが人々の平等と協調に寄与すると主張したけれど、そこに記された『人々』とは、決してヒト全般を指してはいないもの」
「改正条約はそういう峻別を取り除くための方策だと理解していたのだけど?」
「そうよ。ポエニの坊ちゃんは賢いわね」
その言い返しはカトの機嫌を損ねたようだった。だがユリアは気にも留めず、新鮮な空気を求めてバルコニーから日没のアテネ市街を見下ろした。
ユリアはその性質の特殊性から、他の同類とは比較にならない程多くの人を見て来た。だから彼女は人間の身体的・精神的脆弱さ、そして天命を他の同類よりも理解している。今迄何度も危険な綱渡りをしてきた老齢の曄蔚文が、近い将来穏やかならざる死を迎えるなど容易に想像できた。にも拘らず、一時的とはいえ調印式典を差し置いて北京行を優先する理由は、曄蔚文という知音への信愛に他ならない。
ユリアは柄にもなく空を見上げ、残照から淡く浮き上がり始める星々を眺めた。人間の生死と星辰とを結び付ける文化は多いが、あいにく彼女はそれらにガスと塵の塊以上の何をも見いだせない。やはり彼女の関心を誘うのは地上を行き交う人間たちだ。古代人の創造力が星々を結び物語を紡ぎ出したように、ユリアは彼らを感動や高揚という糸で繋ぎ合わせ、有名無名の歴史的事件に関与して来た。しかし人が夜空に触れられないのと同じく、彼女もまた人間を恰も自分のように理解できた事など一度も無い。
そんなユリアにとって、共有が互いを対等な存在として認識させ、正統という高揚が強固な統一感の醸成に繋がると考えた曄蔚文は、正しく彼女という存在を言葉で形取ってくれる知音だった。ユリアは曄蔚文が共有という理想を掲げつつ、それと表裏をなす峻別にも尋常ならざる思索を加え続けたと知っている。そんな彼の念頭には常に、ヒトが何を以て人間となるのか、人間であるとは何を意味するのかという疑問があり、その難題を歴史という切口で突き詰める事こそが、彼の生涯そのものだったと理解している。だからこそ彼が改正条約という結実を目前にして凶刃に倒れた事を、ユリアは彼の『同類』として心から寂しく思っている。
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