第二〇話 暗く微かな光
他の三人は各々出発準備のために談話室を出たが、ペレウスは独り残って考え込んでいた。彼は一応ウィーン行に同意したものの、今なお予め用意されたとしか思えない展開に不信を募らせている。だが「提言」とズヴェスダ、要人の死と改正条約の企み、同類という存在、アルコル博士、それらを結ぶ結節点がアルファルドにあって、彼の招きを逃せば真相に至れない事は漠然と理解していた。
「フィデリオさん、いいかしら」
数冊のノートを持ったエレナが立っている。彼女は立ち上がろうとしたペレウスを制止し、向かい側のソファに腰かけた。彼ははっとした。完全に彼女の存在を忘れていたからだ。
「さっきの話ですが―――」
エレナは彼の言葉を遮った。
「みんな余りに真剣そうだったから、邪魔しない方が良いと思って隠れていたのよ。それに私は余り英語が得意じゃないと言ったでしょ。さっきの会話は殆ど聞き取っていないわ」
「……。すみません」
エレナはノートを差し出した。
「ズヴェスダさんの遺品。さっきペレウスさんが教えてくれた話のお礼よ。仕事や趣味関係が殆どだから、あまり参考にはならないだろうけど」
「拝見しても構わないのですか?」
「ええ。目に留まったページの写真を撮ると良いわ。その間に……、そうだわ、アルファルドとズヴェスダさんの関係について、私の思い出話でも聞いてくれるかしら」
ペレウスが黙って頷くと、エレナはぽつぽつと話し始めた。
「一九八二年から八七年の間、ズヴェスダさん、つまりオルフェ・ブラーエさんの下で、私は書簡の整理や取引先との連絡、彼が仕上げた翻訳の校正をしていたの。彼は多くの言語に熟達していたけれど、元来爪を隠す人だから、仕事も言語毎にばらばらの会社や個人と契約していて、秘書を雇うと決めたのもその辺の棲み分けが億劫になったからだった。実際彼が何か国語も堪能と知っていたのは、あの街ではコブリーツ親子と私くらいでしょう。でも彼が一体いくつの言語を操るのかは、私達にも分からずじまいだった」
ブラーエ宛の配達物は殆ど仕事関連だったが、一通だけ印象に残る送り主がいた。エレナは繊細な透かし彫りが施された白い封筒を差し出した。差出人欄には大きく「A」とだけ書かれている。
「一九八五年……ウィーンの消印だ。じゃあこのAがアルファルド?」
「そうよ」
「手紙の内容は?」
エレナはお道化て言い返した。
「私が人の手紙を覗き読む女に見えるかしら。でも残念、中身はただの挨拶文だった」
ペレウスは便箋を広げた。確かに相手の健康を気遣うごく形式的な文章が綴られている。
エレナは次に別の冊子を広げて見せた。取引先らしき連絡先が並ぶ中に、「アルファルド/イェリッツァ・ホテル裏、インテレシュタット地区、ウィーン」と記されている。ペレウスは奇妙な住所表記に首を傾げた。
「ブラーエさんの死後、私はこの町に戻って来たのだけど、彼が私の名義で預金を残してくれた事を知ったの。そのまま受け取るわけにいかないから、アルファルドさんが親戚か知人だと思い、その変な住所に駄目もとで手紙を出した。二週間くらいで返事が来たわ」
エレナは別の封筒を差し出した。中にはブラーエ宛の手紙と同じ典雅な字体で、預金はエレナが受け取るべきだが、遺品があるなら確認したい旨が簡潔に記されている。
「アルファルドさんは一九八七年の夏、このロッジで一週間ほど過ごした。マリアンもその時彼と知り合ったのよ」
「マリアンも?」
「ええ。これが当時の写真。私が彼と会ったのはそれきりだけど、あの子はウィーンを何度も訪ねたみたい」
写真はこの談話室で撮影されている。珍しい暗褐色の髪をしたアルファルドは、粗い解像度でも明白な程恐ろしく容貌の整った青年で、髪と同じ色をした冷ややかな双眸を真っ直ぐこちらに向けている。
「彼とマリアンは親しいのでしょうか」
「どうだか。アルファルドさんについて尋ねても、あの子は必ずはぐらかすの。何か良くない事に巻き込まれていなければいいけど」
「アルファルドさんは遺品を確認した時に何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も。何も言わなかったわ」
ペレウスは改めて二人の顔を見比べた。実のところ、彼は怪しげな麗人よりも、隣に映る十五歳当時の友人の容顔に驚かされた。黄味を帯びた肌と生気に欠ける瞳からは、現在の享楽的放蕩さの片鱗も窺えないが、その口元だけが微かに吊り上がっている。
そんな表情を、自分は以前にも見た事がある。学生時代に古代ギリシャ考古学を専攻したペレウスは、それがミュンヘン・グリュプトテーク美術館所蔵の所謂「死にかけの戦士」像と気づいたが、友の譬喩としては余りに不謹慎なので、すぐさまその発想を拭い去った。
「マリアンはアルファルドさんに懐いている。そして彼とズヴェスダさんは確かに以前からの知人同士よ。でも『三十年近く一緒に過ごした』と言う割に、二人はあまり親しくなかった気がする。……私の話は好きに受け取って貰って構わない。どんな叙述であれ、内容と意図を吟味するのは受け取り手ですものね」
ペレウスが頷くと、エレナは微笑んで談話室から去って行った。ペレウスは写真を撮りながら、頭の中で今に至る経緯をもう一度整理し、アルファルドから必要な情報を聴き出す方法や、彼らと同行しつつ他の情報源を探す方法について考えを巡らせた。
一時間後、四人は再度談話室に集合し、カラーが運転して来た大型車に乗り込んだ。見送りに出たエレナは、天空からぼとぼと落ちる冷たいものが、紛れもなく雪であると気づいた。恐らくこれが同類カラーの「寒冷」の性質なのだろう。だが彼女の同行者たちはその超常現象に逐一驚く余裕も無いらしい。
車が闇に消えるのを見届けると、エレナは静かになった談話室に戻り、一番薄いノートを手に取った。それはズヴェスダの天体観測記録だ。彼は筆名に選ぶほど星々を愛していて、晩年自由な歩行が困難になり、視力が著しく低下してからも、「竜の橋」近くの自宅から夜空を眺めては、心に留まった事柄をノートに書き連ねていた。最後のページには「一九八七年一月」と項目が立てられ、おおぐま座とこぐま座に関する記録の下に、懐かしい細く端正な字で次のように記されている。
あの暗く微かな光を望むと、嘗て私のために心を砕いた方の姿が浮かぶ。
エレナは最初にこの文言を見た時以来、何となく「心を砕いた方」への考察を用心深く避けていた。なのに今またこのページを開いたのは、先程の会話を耳にして、これが彼の養父アルコル博士を指している可能性に思い至ったからだ。ペレウスは黙々とこの文章もカメラに収めていたが、彼はどう思っただろうか。
否、ペレウスは所詮研究者だ。彼の関心はあくまで「提言」にあって、ズヴェスダ本人では無い。だから彼は凡庸ならざる洞察力で「思い出」の謎に迫ったが、生前ズヴェスダが秘書にこれらの品々の廃棄を依頼し、彼女がそれに背き続けている事までは察知しなかった。エレナを素朴な嫉妬心で動揺させたこの文章もまた、彼からすれば論証に直接関係ない零細な一資料に過ぎないのだろう。
すると久々に他人と「思い出」を共有した嬉しさも、急に馬鹿馬鹿しく感じられた。思えばズヴェスダに関する事柄において、エレナは常に必死で愚かだった。だがどんなに愚行と自蔑を積み重ねたところで、それらが彼女の寂しさを和らげた事など一度もない。エレナは一度大きく嘆息して後片付けに取り掛かったが、その時暖炉の上に優美な透かし彫りの封筒が立て掛けられているのに気付いた。
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