第一八話 自然の体現者①

 女性は上質な生地でできた黒い五分丈のワンピースを着て、大きくウェーブした金髪を背中まで伸ばしている。物音を聞きつけたマリアンとフェイトンも談話室に降りて来た。マリアンは青白い顔に微笑みを取り繕って彼女を迎えた。

「カラー? 君にご足労いただいてしまうとは」

「ごめんなさいね。あんたの大好きなアルファルドじゃなくて」その優美な容姿からは想像できない程、カラーは素っ気ない態度で言い返した。

「いや、そうじゃないよ。本当に申し訳ないと思ってさ」

「そちらが例のご令孫? 私はカラーです、こんばんは」

 彼女がまじまじと見つめるので、フェイトンは訥々と言い返した。

「フェイトン・イエです。はじめまして」

「とにかく無事に着いてよかった。彼が以前話したペレウス、彼女がエレナさんだ」

「寒かったでしょう。何か飲み物を持ってきますね」

「すみません、ありがとうございます。ですがどうぞお構いなく……」

 カラーは遠慮がちに答えた。そして台所へ向かうエレナを見届けると、彼女は再び淡泊な英語で言った。

「多少準備があるから、あと二時間したら出発しましょう。順調にいけば、夜明けにはグラーツに、昼にはウィーンへ着くと思う」

ペレウスは咄嗟に尋ね返した。

「すみません、どこへ向かうのですか?」

「ウィーン。アルファルドは今街を出られない。だから私が迎えに来ました」

「夜間は越境検問所が閉まります。今から出国は無理です」

「当然知っています。それに検問所を通るつもりはありません」

 堂々と宣うカラーにマリアンは頭を抱えた。ペレウスは一瞬面食らったものの、エレナの耳に届かないよう声を低くして言い返した。

「フェイトン君は委員会のインターン生です。私には彼の身元を保護する義務も資格もある。密入国などさせません」

「貴方がどう思おうと、私は連れて行くしかありません。今この段階で、アテネ本部に私たちの居場所を知られるわけにはいかないもの」

「私もアテネ本部の人間ですが」

「存じています。だから取引しましょう。アルファルドは貴方に協力して欲しいそうです。その代わり彼は貴方の知りたい情報を提供できます」

「カラー、もっと順を追って話さないと」

 カラーは億劫と言わんばかりの表情を浮かべた。

「それに失礼ながら、あなた方の情報が正しいかどうか、私にどうやって確かめろと言うのですか?」

「じゃあ今試しに何か質問してみてください。それである程度判断できるはず」

「そう言われても……」

 フェイトンは遠慮がちに口を開いた。

「でしたら僕がお尋ねして差支えないでしょうか。祖父とリゲルさんについてです。マリアンさんは二人の死の原因を、改正条約を巡る対立だと言いましたが、僕にはそれが理解できません。だからここまでついてきたのです……」

 彼女は頷くと、鞄の中からファイルを取り出した。

「リゲルの死に関する記録です」

 ペレウスはカルテを手に取った。

「ギリシャ語だ。どうしてカラーさんがお持ちなのです?」

「リゲルがアテネ市立病院に入院していたのは知っているでしょう。これは彼女の死の直後、担当医が独断で残した検死解剖の記録です。彼はそれが露見して殺されてしまった。だから私はこの書類が廃棄される前に、彼を殺した者から奪取しました」

 ペレウスはカラーの滅茶苦茶な説明に戸惑いつつ記録に目を通し、添付された数枚の現場写真に思わず息を呑んだ。箇条書きされた記述はごく断片的で、文字自体も酷く震えている。


  上半身を中心に複数の凍傷が見える。また口腔、気道、肺、そして心臓の一部は

  炭化し、気道と肺の一部には焼け爛れた痕跡もある。まるで焼きごてを当てられ

  たかのような、境界のはっきりした痕跡だ。

  ―――俄かには信じがたいが、八月半ばというのに、発見当時彼女の病室には霜

  が降りていて、花瓶には氷が浮いていた。総合すると、彼女は死の直前、病室ご

  と凍える程の低い温度に晒されながら、呼吸器官の一部にだけ深刻な火傷を負っ

  たと考えられる。凍傷、火傷、窒息、それらによるショック状態の何れが直接の

  死因となったかは判別し難い……


 ペレウスはフェイトンの為に最低限の情報を訳した。

「内臓の火傷跡に凍った花瓶……? この医者は錯乱していたのでしょうか」

「いいえ。彼の見立ては正しい」

 カラーはおもむろにテーブルに置かれた花瓶に手を添えた。フェイトンとペレウスは揃ってその光景に絶句した。花瓶の水は忽ち凍り始め、しまいには活けてあった花までもが凍り付いてしまったのだ。

「これは……」

 フェイトンが花弁に触れようとしたので、ペレウスは慌ててその手を引っ込めさせた。

「心配しなくても、別に凍ったりしません」

「一体どうやったのですか?」

 そう問うペレウスに、カラーは淡々と説明し始めた。

「花瓶が凍ったのは、私が人間ではないからです。私は『寒冷』を体現した存在で、周囲の温度を下げられる。世界には自然の諸現象を体現した存在がいて、そういう『自然の体現者』の中には、私のように人間の姿を真似る者がいます。彼らはヒトの容を取り、ヒトに類するという意味で、『同類』と自称しています」

「人間じゃないですって? もし揶揄っているのなら―――」

「カラーの話は本当だよ」マリアンが遮った。

「この記録者は同類の存在を知らないから、奇怪な現象を説明できなかった。でも私にはその時の状況が想像できます。リゲルは私と同じ『寒冷』の性質を持つ同類です。彼女は同類によって内臓を焼かれ、咄嗟に自分の性質を使ったけれど、彼女が絶命する方が早かった。それが病室に降りた霜の正体です」

「つまり彼女を殺害した同類が委員会の関係者だと」

「ええ。アテネ本部と共に改正条約を進める同類の中に、『岩漿』の性質を持つ者がいるから」

「岩漿?」

「マグマの事だよ」マリアンは小声でフェイトンに補足した。

「『岩漿』たちの首領としてアテネ本部と協力関係にあるのがユリアという同類です。ユリアは人心の高揚、つまり『感動』を操ると言われる同類で、その性質を改正条約締結に利用しています」

「人心を操るのですか?」ペレウスが尋ねた。

「心を操れるわけじゃありません。感動を齎す事で、結果的にそうなる場合はあるかもしれないけど」

「正直理解が追いつきません。ファンタジーじゃあるまいし」

「理解しなくて構いません。今更求めてもいませんし。私とリゲルは五百年前に誕生し、アルファルドは少なくとも二千年以上生きているけど、その間に正体を明かした人間なんて数える程しかいません。だけどペリカンが何故ペリカンとして存在するのか、棕櫚が何故棕櫚として存在するのか、いくら好奇心旺盛なフィデリオさんでも、逐一考えたりしないでしょう。それと同じ。私たちもまた世界を構成する一要素と看做してください」

 フェイトンははっとして尋ねた。

「リゲルさんの死因が同類によるのなら、祖父の刺殺という報道が嘘の可能性もあるのでは?」

カラーは頷いた。

「もし犯人が同類なら、確実に隠匿されるでしょう。ただ私にも北京の詳しい状況は分かりません」

「そのユリアとかいう同類は、どうして改正条約締結に協力するのですか?」

「アルファルドはアルコルと関係があると考えています」

「それは動機になりえません。アルコル博士の「提言」は委員会とは直接関係ないのですから」

 そう抗議するペレウスに、カラーはまるで子供を諭すように問いかけた。

。アルコルも同類で、アルファルドにとっては無二の親友でした。改正条約を巡る全容を知りたいのなら、人間だけでなく同類の視点も理解しなくては」

 リゲルだけでなく、アルコル博士も同類なのか? ペレウスは愈々訳が分からなくなってきた。そんな彼をよそにカラーは畳みかけるように尋ねる。

「貴方も「思い出」を調べる中で疑問に思ったのでは? 委員会が最近になって「提言」の実在を積極的に否定し始めた事や、そもそも二十世紀前半に活動した歴史学者兼文筆家の割に、アルコル博士の痕跡が少なすぎる事について」

「まあ。ですが前者は学界の傾向でもありますし、後者は博士の戦死と戦禍によって散逸したからです」

「それは人間的な見方に過ぎません。同類の視点で言えば、アルコルの痕跡は、それを排除したい者と独占したい者の間で、今も争奪戦が続いているのです。前者がユリア、後者がアルファルド。委員会が俄かに「提言」の実在を否定し始めたのも、多かれ少なかれユリアの意向を反映しているはず。尤もこの争奪戦はあくまで同類間の抗争ですから、その存在を知らない人間には、単に死者が時間の経過に従いその痕跡を消して行くだけに見える。ただ一人、アルコルの息子を除いては」

「博士の息子についてご存じなのですか?」ペレウスが尋ねた。

「彼はミュンヘンでアルコルに養育された孤児でした。亡父の私財や著作が意図的に消されている事に気付いた彼は、極めて恵まれた言語能力を駆使して、アルファルドとユリアの目を掻い潜り、敬愛する養父の痕跡をひっそりと残したのです。彼の微かな記述の破片は、今でも欧州各地に点在しています。「アルコル博士の思い出」もその一つ」


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