第一七話 ヤヌス・コブリーツとズヴェスダ

 エレナは長考してから小さく嘆息した。

「申し訳ないけど、特に思い当たる事柄は無いわね。一九八二年から八七年まで、私は三日とおかずズヴェスダさんと顔を合わせていたから、少なくとも彼が遠出した事は無いし、私の知る限りキリーロフらしき人物が彼を尋ねた事もない。だから彼が『話を聴いた』なら、それは対談ではなく書簡のやり取りだったと思う。でも私が遺品の整理をした時、そういう手紙も含め、「思い出」執筆に関連する品物は見当たらなかったわ」

「そうですか……」

 落胆するペレウスに、でも、とエレナは続けた。

「助言ではないけれど、少し見方を変えてみたらどうかしら」

「というと?」

「執筆者の意図に対する貴方の考えは尤もだわ。でも「思い出」に限って言えば、掲載者の意図も重要だと思うの。つまりヤヌス・コブリーツさんの意図よ。あの親子から聞いたことあるかしら? 「思い出」に対する読者の反応について」

 ペレウスが首を横に振ると、エレナは納得したように言った。

「やっぱりね。率直に言えば、反応は殆ど無かったの。一番の理由は、結局アルコル博士に対してそれ程関心が払われなかったから。一方で、ズヴェスダさんを知る人は皆、彼が軽率に出鱈目を書く性格じゃないとも知っていた。だから彼が記事の発表後割合直ぐに亡くなったのも影響して、漠然と彼こそがキリーロフ本人ではないかという噂が立ったの」

「そうだったのですか、知りませんでした」

「でしょうね。ヤヌスさんは自分の雑誌が憶測を広めた事に強い不満を抱いていたもの。元より彼は死者への言説に対し、それこそ病的に神経質な人だし」

 ペレウスは俄かに気まずい思いをした。

「そうですか……。じゃあ私が色々調べ回った事も、少なからず彼の気分を害してしまったに違いありません」

 エレナは首を振った。

「それは杞憂でしょう。マリアンの話では、貴方はかなり気に入られているみたいだし。ヤヌスさんが忌避するのは、過ぎ去った人物や事柄が素気無く忘れ去られ、無遠慮に言い散らされる事よ。だから彼は『リュブリャニツァ』を主宰していた。そういう理不尽に抵抗するためにね」

 エレナは更に続けた。

「分かる事に根拠を示し、分からない事はそう明記する、それが『リュブリャニツァ』の掲載規則だった。丁度貴方たち委員会の『総論』でいうところの、明確事項と不明確事項の分類みたいなものかしら」

「なるほど……。ですがそれなら猶更、ヤヌスさんが「思い出」の掲載を認めた理由が分かりません。それこそキリーロフとのやり取りを目にしたとかでない限り、「思い出」の正当性は確認できないはず」

「そうよね。確かに「思い出」の掲載は例外的だった。あの記事を巡り二人の間でどんな会話があったかは誰にも分からない。でもあのヤヌスさんが掲載を認めたのなら、記事の信憑性不足を補って余りある理由があったはず。そしてそれは恐らく、敢えてキリーロフを訳者であるかのように記述した理由や、息子の記述を排した意図、延いては「思い出」の全体的な執筆経緯を読み解く契機になる気がする」

 エレナの助言は理に適っている。だがペレウスは浮かない顔をした。

「エレナさんのお話は尤もだと思います。コブリーツさんが重要人物という考えに異論はありません。ですが私は……、自分の好奇心の為に彼本人を詮索するのはかなり気が引けます」

「あらどうして?」

「……。コブリーツさんは、見ず知らずの私がリュブリャナで自由に調査できるよう、大変親身にしてくださいました。ですが一方で、彼は何かを用心深く隠しているようでした。想像するに「思い出」は彼の個人的問題と不可分なのだと思います。トラウマというか、掘り返されたくない問題です。だから出来ればそれに触れないようにしたい。尤も所詮は彼の不興を買いたくないだけかもしれませんが」

 エレナは一瞬何か言い返そうと、諦めて聡明な瞳を眉弓が作る影に隠した。

「じゃあ仕方ないわね。だけど少し申し訳ないわ。貴方がそんな風に思うのは、ヤヌスさんが私の存在を隠したのも一因でしょうから」

「まさか。エレナさんの気持ちもコブリーツさんの判断もごく当然です。親しい方との死別は誰にとっても辛いものですから」ペレウスは慎重に言葉を選んだ。

「ふふ、こんなよく知らないおばさんを気遣ってくれるなんて優しいのね」

「いや、決してそんな風には……」

「ヤヌスさんも思い遣りのある人よ。彼は死別の苦しみは時間だけが和らげてくれると言った。それは彼の経験則でもある。だけど延々と囚われ続ける人もいるわ。キリーロフじゃないけれど、これもある種の執着なのかも。自分が存在して構わないと思わせてくれる相手への、際限ない執心なのでしょうね」

 エレナは何処か名残惜しく、その割に吐き捨てるように言った。ペレウスは彼女がアルコルやオステルマンに関する知識を持っていた理由を漸く理解した。エレナも自分なりに調べていたのだ。恐らくはその多くが徒労に帰しただろうが、彼女が謎めいた雇い主について知ろうとしたのは、決して彼に疑惑や不信を抱いているからでは無い。

 ペレウスが黙っているので、エレナは顔を上げて照れ笑いを浮かべた。

「少し白けちゃったわね。時間を取らせて申し訳なかったわ。結局私と話しても、貴方には特別収穫にならなかったみたいだし」

「まさか、そんな事はありません。寧ろ折角助言していただいたのに、私が―――」

「大丈夫、貴方の気持ちはよく分かったから。それに私は結構楽しかったわ。まだズヴェスダさんに関心を寄せてくれる人がいると知れたのだもの。人畜無害な人ほど忘れられ易いからね……」

そう微笑むエレナの背後で、タイヤが砂利を踏む音が聞こえた。二人が揃って玄関へ向かうと、丁度一人の若い女性が車から降りた所だった。

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