六月十日(火) 夕方  渋谷駅

 泣きすぎて頭が痛い。しかし、あの人はもっと辛かったに違いないのだ。駅のホームで、萩野谷薫子は昨日から今朝のことを思い返していた。


 藤石の事務所での出来事を話し終えるや、宇佐見が思いっきり机を叩いたので、薫子は文字通り飛び上がった。

「あのチビ書士めっ!沙希ちゃんのお尻を密かに狙っていやがったのか!」


 宇佐見によると、藤石の事務所で会ったショートヘアの女性は沼目沙希といい、渋谷のカフェで働いているアルバイトらしい。薫子が藤石に郵送したカフェのサービス券も、この沙希が宇佐見に渡したものだと、後になってわかった。


 そんな繋がりがあったなんて。


 あの時のやりとりを思い返すたびに、薫子は自分の幼稚さを恥じた。いくらライバルでも初対面の人に対する態度ではなかった。よりによって藤石まで怒らせてしまったのだ。せっかく関係が良好になりそうだったのに、また振り出しに戻ってしまったではないか。


 ため息ばかりする薫子に宇佐見が顔を寄せてきた。

「薫子ちゃん、沙希ちゃんはミクロ野郎に惚れているのかい?間違いないの?」

「はっきりと口にしたわけじゃないですけど、わざわざ横浜まで会いに行くんですから、私と同じ気持ちに違いありません。それに、お若くて綺麗な人だったし、きっと藤石さんはああいう明朗快活な女性がお好きなんだわぁああああぁ……」


 涙が溢れる。ここ数日、泣いてばかりだ。


 宇佐見は腕を組み、不機嫌そうな顔をしている。いつもなら自分を慰めてくれるのだが、沙希のことが気になるのだろう。

「あの、宇佐見さん。沙希さんは、貴方の恋人なんですか」

「いずれそうなる予定だったんだ。ま、他に好きなヤツが出来たとか、嫌われたとかなら諦めるのがオレのモットーだけど、相手がチビ書士なら話は別。あんなのに引っかかるくらいなら霊感商法で一千万円損する方がマシだよ」

 見たことがないくらい、宇佐美の表情は真剣だった。法廷でもこんな顔はしないのではないか。薫子は弁護士の眼差しに緊張した。これ以上、この話を続けると職場の雰囲気が悪くなりそうだった。まだ書類の整理もしなくてはいけないし、薫子は頭を切り替えることにした。しかし、宇佐見は何やら考え込んでいるようで、デスクに足を乗せてうなだれている。

 ――まさか、藤石さんを亡き者に?


 薫子は震え上がった。仲が良いのは業務上だけで、実際は隙あらば互いに陥れようとしているのだろうか。宇佐見の思考を止めるため、薫子はなりふり構わずを話しかけた。

「う、宇佐見さん。私も法律の勉強した方が良いのでしょうか」

「ん?必要ないよ。オレの言うこと聞いてくれるだけで満点」

「実は家の方から法律について質問が来てまして、まるでよくわからないから返信してないんですけど、こういうの、宇佐見さんにお願いすれば教えてくれるんでしょうか」

 宇佐見は顔だけ薫子に向けると、優しく微笑んだ。

「もちろん」

 その答えに薫子は安心した。バッグからスマートホンを取り出すと、メッセージフォルダを開いた。父の部下である倉本から珍しくメールが届いていたのだ。倉本は薫子の学生時代に送り迎えなどをしてくれた信頼できる人物だが、ここしばらく音沙汰がなかったので驚いた。そして、その用向きはさらに薫子を驚かせた。


 何と先日亡くなった伯父には隠し子がいて、その子供に財産を相続させるという遺言書が見つかったのだ。父はその相続を反対しており、しかもその隠し子とやらはすでに死亡しているらしい。


 それで、法的な手続きや相談について、宇佐見に掛け合ってくれないかと薫子に連絡をとってきたのだ。詳細は直接弁護士と話すということで、その相続財産がどれくらいで、その関係者がどこで何をしているかについては書かれていなかった。


 メッセージの内容を宇佐見に見せると、薄い茶色の瞳が困ったように薫子を見つめた。

「これはこれは、大変だね」

「はい。どうして父がそんな財産に執着しているのかわかりません。もう充分持っていると思うんですけど」

 さらに宇佐見は眉を八の字にしてみせた。

「薫子ちゃんの感覚とは違うんだろうねえ。だって額が額だもの。一億って、普通はあり得ないのよ?」

 薫子はメールの画面をスクロールさせながら、倉本と父の顔を浮かべた。そんな親族間の争いをするような人ではなかったのに、どうしたというのだ。それに、伯父はどうして隠し子のことを黙っていたのだろう。

「そりゃ、薫子ちゃん。隠し子なんだから喋ったら意味ないでしょうに」

 大笑いする宇佐見だったが、薫子の神妙な顔つきにため息をついた。

「なるほど遺言による認知か。粋だねえ。その遺言書がどういう形式かによるけど、ちゃんと遺言書として認められるものかどうかだね。詳細を聞かないとわからないなあ」


 何か大変なトラブルが起きているのは間違いなかった。父の親戚筋をまったく知らないわけではないが、馴染みがない。自分も巻き込まれるのだろうか。


 宇佐見は薫子の頭を軽く叩いた。

「そんな顔しないの。とりあえず話は聞くよ。そう伝えてあげて」

 薫子は宇佐見に礼を言うと、倉本宛てに事務所の電話番号と面談のセッティングについて返信した。

「相続トラブルか。まあ、よくあるよ」

「そうなんですか?」

「あるある。基本的に話し合いで解決させるけどねえ。裁判なんか滅多にやるもんじゃないよ……って、オレが言うと怒られちゃうか」

 宇佐見の笑った顔を見て、少し気持ちが落ち着いた。


 不思議な人だ。


「それより、オレにとっては沙希ちゃんの貞操の方が心配だ。チビ書士め」

 話が戻ってしまったが、薫子の中にもあの若い女性への対抗心が再燃してきた。負けるつもりはない。


 何とかして愛しい人の信頼を取り戻さなくては――。


「宇佐見さん。私、やっぱり藤石さんが好きです。大好きなんです」

「知ってるよ」

「どうしたら、あの人の喜ぶ顔がもう一度見られるでしょうか」

 見舞いに持参したマカロンも結局一人で食べた。もう甘いものも通用しないだろう。

「喜ぶ顔ねえ、手っ取り早いのは仕事の依頼だろうね」

「仕事?」

「あのミクロは司法書士の仕事に誇りを持っているからね。仕事大好きなんだよ。ご依頼のためなら、どこでもスッ飛んでいくよ」

 確かに、具合が悪いのに仕事をしていた。そんな時に、自分は何て愚かしいことを。

「わかりました。お仕事ですね。お仕事。お仕事」

「あ、そうだ」

 宇佐見が薫子の肩に手を置いた。

「薫子ちゃんが頑張ってチビ書士の気を引けば良いのよ。そしたら、沙希ちゃんもアイツを諦めて、オレの胸に飛び込んでくるに違いない」

 宇佐見が長い両腕を広げて笑った。

「いっそのこと、薫子ちゃんが会社でも作るとか」

「え?」

「会社を設立した時は法務局に申請するんだよ。商業登記は司法書士のお仕事だ」


 会社を作る――。

 そんなこと考えたこともなかった。


「まあ、無理かなあ。薫子ちゃんが会社経営なんて幼稚園児が火星でおママごとするようなものだしなあ」

「やります」

「へ?」

 宇佐見は腰をかがめて、薫子の顔をのぞきこんだ。

「やります、って?」

「会社作ります。藤石さんに登記してもらいますっ!」

 今度は大きな手の平が頭に乗せられた。

「ごめんね薫子ちゃん。まさか本気になるとは思わなかった。オレが適当なことを言ってしまったよ。それは無理。忘れてちょうだい」

「私、真剣です。会社の社長がどんなものか、父を見ていますから大体わかります」

「いやいや。あのね、そういうわかり方は良くないよ」

 困ったように笑うと、宇佐見はノートパソコンを操作し始めた。

「チビ書士の攻略方法はまた考えてあげるよ。とりあえず、仕事を始めようか」

「え、でも……」

「あ、電話だ」


 ――そうだ。


 さらに、会社の設立の話を聞こうとした時に宇佐見のスマートホンが鳴って、そのままうやむやになってしまったのだ。宇佐見は外出してしまい、一人で事務仕事をこなしていると、そのまま定時になってしまった。


 宇佐見に退社する旨の置手紙を残し、事務所に鍵をかけてビルの外に出た。夕方の五時過ぎでは、まだ昼間のように明るい。それでも、どこかに立ち寄って買い物をする気力もない。疲れているわけでもないのに、ため息ばかり出てしまう。


 頭に浮かぶのはいつもの顔。


 ――やっぱり、謝りたい。


 藤石と出会ってから何度頭を下げたことだろう。自分の愚かさに嫌気がさしてくる。少しでも成長したところをアピールしなくてどうするのだ。


 薫子は渋谷駅に着くと、改札の前で藤石の事務所に電話をした。


 コール一回で、藤石の声が耳に届いた。


 胸の高鳴りを抑えるように、ゆっくりと薫子が名乗ると、しばらく沈黙した後に藤石が挨拶をしてくれた。薫子は昨日の非礼を詫び、可能であるならこれから直接謝りに行きたい旨を伝えた。百パーセント断られると思ったが、藤石は訪問を了承してくれた。

 

 それだけで、薫子の頬には涙が伝った。

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