六月九日(月)夕方 横浜駅
薫子はマカロンの包みを片手に横浜駅に降り立った。コンコースを早足で抜けて、東口から表に出る。
居ても立ってもいられなかった。
今朝、宇佐見が藤石に電話をしたのだが、そのやり取りを聞いた時から、薫子の胸は締め付けられっぱなしだった。
――ヒロミ、法務局に行く用事ある?
――え?アサトが助っ人で法務局に行くって?
――何、お前ってば熱があるの?月曜早々に災難だねえ。まあ天罰だな。
――それでも仕事を休めないのが、オレたちの辛いとこだよねえ。
宇佐見が電話をしているそばで、薫子はもう決めていた。
お見舞いに行くしかない。これは、行かねばならない。
仕事を終えると、宇佐見は笑いながらこう言っていた。
「薫子ちゃん。無理はダメよ」
もう宇佐見には薫子の考えていることなどお見通しのようだった。もちろん、相手は病人なのだから接し方に気をつけるのは当たり前だ。薫子とて、そのくらいは承知している。だから、手土産を渡して様子を伺ったらすぐに帰るつもりでいた。
薫子は前と同じルートで藤石の事務所を目指した。この前来た時より、足取りに自信はあったが、今日の胸の高鳴りはまるで別物だった。
どうか、大事に至っていませんように――。
コンビニは塾通いの子供たちで溢れていた。建物を見上げると、藤石の事務所も明かりが灯っている。もう夜の七時近い。体調がすぐれないのに仕事をしているということだ。薫子は何度か深呼吸をすると、二階に続くガラスのドアを開けて足を踏み入れた。暗くて静かな階段をゆっくり上り、事務所の入り口と相対した。
もう一度、深呼吸をすると薫子は決心した。
チャイムを押す。すると、間髪いれずにドアが開いた。
「んきゃあ!」
薫子は思わず声を上げたが、出てきた主を見て声をつぐんだ。
「萩野谷さんまで。何なんだ今日は」
その顔は赤く染まり、眠そうな目も力がない。
「あ、あの」
「ウサから聞いた?参ったな」
藤石は舌打ちをした。
それを聞いて薫子は背中が冷たくなった。
間違いなくそれは不快に思われた証拠だから。
「ウサ?」
すると、すぐそばから声がした。
薫子は玄関をのぞきこむと、一人のショートカットの女性が立っていた。
まだ若い。それと綺麗な形の唇をしていた。
――どなた……かしら。
薫子の密かな詮索の横で、若い女性が藤石に向き直った。
「藤石さん、やっぱり宇佐見さんのお友達だったんだ」
「待ちなって。そもそも沼目さんの用向きは何なの?わざわざ事務所の場所も調べたのか?バイトはどうしたんだ」
そう言うと藤石は咳き込み始めた。
「だ、大丈夫ですかっ。藤石さんっ」
薫子が声を上げると、
「そちらは何の御用かね」
と眠そうな目を向けられた。
明らかに具合が、いや機嫌が悪そうな声だった。
それに臆することなく、ショートカットの女性が言った。
「私、今日はバイト休みなんです。それと白井さんから聞いたんですよ。体調が良くないっていうから、夕飯のおかずを少し用意してきました。これ、肉じゃが。藤石さんは一人暮らしですよね?大変だと思って」
沼目と呼ばれた女性が小さなランチバッグを藤石に見せた。
薫子は、脳内に電流が走った。
この人も――。
慌ててマカロンの紙袋を差し出す。
「私もお見舞いに来たんですっ。これは自由が丘で買ってきました。甘いものお好きだっていうから」
隣でショートカットの女性がこちらを見たような気がするが、薫子は目の前の男だけを見つめた。
藤石は力なく壁に寄りかかり、深い深いため息をつくと、
「帰って」
そう言った。
「えっ」
「藤石さん」
唖然とする二人の女に対して、眠そうな男はもう一度静かに声を発した。
「せっかくだけど食欲ゼロ。それにまだ仕事もある。どうかお引取りを」
薫子は宇佐見の言葉を思い出した。
無理はよくない。
引き下がるべきだと思ったとき、ショートカットの女性がなおも藤石に迫った。
「仕事の邪魔をしてしまったのは申し訳ないと思ってます。これもお腹が空いた時に食べてくれたら良いんですけど」
それにかぶせるように、藤石は深くため息をついた。
「ハッキリ言おうか」
藤石の声に険があった。薫子は完全に萎縮してしまった。
「お二人が俺を見舞ってくれる、その気持ちはありがたく受け取ろう。けど、事前に連絡もなく押しかけられるのは不快の極み。迷惑です」
迷惑です。
――『イヤです』。
薫子はいつかの記憶が鮮明に蘇ってきた。まったく同じ語気だった。
うなだれる薫子の横でショートカットの女性が小さく笑った。
「本当に白井さんの言うとおりだ」
藤石は眠そうな目をそちらに向けた。
「沼目さんは一体どういうことなのかね。食事会の話も俺の誤解だったということか?」
「誤解?」
「あの白黒男があなたとの関係を深めたいために、俺を利用するものだと思っていたよ。アイツは口下手だからね。でも、冷静に考えてみればシロップのタイプじゃないか」
「確かにそれは誤解です。むしろ私が白井さんを利用しちゃった感じです。本当、あの人には申し訳ないと思っています」
ふうんと藤石が呆れた声を出した。
「いくら若気の至りといっても積極的過ぎでしょう。店のシフォンケーキ食っただけで」
「だって会いたかったんです。もう一度だけ話がしたかったんです」
思わず薫子は女性を見つめた。何という自信に満ち溢れているのだ。
ところが、藤石はそれを受けて苦笑いをした。
「マジか。最近は女性の間ではこういう特攻が流行っているのかな。ねえ、萩野谷さん」
「え、ハイっ」
急に名前が呼ばれて薫子は反射的に返事をしてしまった。
ショートヘアの女性が薫子を見つめた。
「もしかして……宇佐見さんがチケットがどうこう言ってたのは……あなたですか」
怪訝な顔をされても困る。一体何を言いたいのだ。
ただ、ハッキリしたのは、このショートヘアの女性は薫子のライバルだということだ。
――負けない。
「わ、私も藤石さんに会いたかったんですっ。一緒にマカロン食べたかったんですもの」
「藤石さんはこんなに具合が悪いんですよ?普通は甘いものなんて食べられないでしょう。栄養が大事ですよ」
「こっちの方が日持ちしますっ。それに結婚もしていないのに、手料理なんておこがましいですっ」
「おこがましい?何ですか、その論理は!」
「夫となる人の家庭の味があなたにわかるのですかっ」
その時、藤石が叫んだ。
「だあーっ、もうっ!帰れっ!俺は頭が痛いんだよ!」
眠そうな目は凶悪なものになっていた。
「しつこくキャーキャー言っていいのは中学生までだ。年齢考えろよ。みっともない」
そう吐き捨てた。
薫子は棒切れのように立ち尽くす。なおもショートヘアの女性は抵抗を見せようとしたが、藤石の眼力に圧倒されたのか、おとなしく事務所の外に出た。
「ごめん、なさい」
その声が、さっきまでと違い、弱々しいものに変わる。
薫子自身も謝らなくてはいけないのに、なぜか声の代わりに涙が溢れてきた。
そして、すべてを拒絶するかのように勢いよくドアが閉められた。
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