六月十八日(水)夜 オルドビシャン・ピリオド
大河原珠美は渋谷のバーに来ていた。一人でぼんやりすると、すぐに記憶が巻き戻されてしまう。それを振り払うように努めるものの、費やした期間がそれを許さないようだ。
先週の金曜日、珠美は六本木のレストランで恋人を待っていた。
正樹の浮気現場を押さえてからずっと連絡も絶ち、あちらから謝ってくるものだと思っていたのに、いつまで待ってもメッセージの一つもよこさない。このままフェイドアウトを狙っているのかもしれないと思った珠美は、ついに話をつけるために仕事終わりに呼び出すことにしたのだった。
数日前、どういうわけか、横浜の実家で目が覚めた。
あの日は桜木町まで出張だった気がする。その帰りに一人でどこかの店に入ったのは覚えている。正樹とのことで悩み、無性に飲みたくなったのだ。
そして気づいたら実家にいた。また酔っ払って神田に帰れなくなったのだろう。翌朝、母親に小言を言われながら家を出たときに、階段からあの司法書士が上ってきたのだ。
――や、おはよう。酔いは覚めた?
――どうしたの?まだ怒ってるのかね。
――マジか。覚えてないの?
藤石の呆れ果てた顔に、珠美もさすがに只事ではないことを悟った。
「あー……」
思い出すたびに顔から火が吹きそうだった。まさか泥酔した自分を介抱してくれたなど、思いもしなかった。しかも、横浜駅から送り届けてくれたのは、あの怪しい黒服の男だと言うではないか。
タイツ一枚で外に出歩いたり、記憶を飛ばすほど酔っ払ったり、確実に頭のおかしい女だと思われたに違いない。ことの顛末を聞くや、土下座する勢いで藤石に謝った。それを軽く流し、小柄な男は優しい笑みを浮かべた。
――ま、がんばって。
それが珠美の背中を少し押した気がする。どうしようか迷ったけれど、今の中途半端な状況はよくない。正樹と直接話をしないことには先に進めないと考えた。
テーブルに人の気配が近づく。
一気に緊張感が高まり、珠美は背筋を正して相手を見つめた。
「ごめん、遅くなった」
いつも通りの挨拶。いつも通りの恋人がそこにはいた。
「あれ、何も頼んでないの?」
それでも、正樹の声の調子が少しだけ違う。妙にテンションが高いというか、取り繕っているというか。
珠美はことの次第によっては、何も食べずに帰るつもりだった。険悪なムードで食事ができるわけがない。そんな空気を感じ取ったのか、正樹は店員にスパークリングワインを二つだけ頼んだ。
正樹がネクタイを少しだけ緩めて言った。
「どうしたの、今日は」
「え?」
「突然、呼び出したりするからさ」
唖然とした。
珠美の中で何かが切れ掛かった。
「ねえ、それって本当にそう思ってる?」
「いや、あのさ。いつもはメッセで用向きを伝えてくれるじゃない。それに六本木なんて滅多に来ないし。いつもは渋谷でしょ?」
グラスが運ばれてきた。正樹は片手でそれを持ち上げ、こちらと乾杯をしようとしたが、珠美が応じないので、そのまま口をつけた。
「ごめん、悪かったよ」
突然、正樹が深い息をついた。その声色に珠美は少し寒気がした。
まるで、悪いと思っていない口調だった。
「でもさ、あんな街中で大声出すことないじゃん。おれビックリしたよ」
「ビックリしたのはこっちよ」
自分の声に棘があるのはわかっていた。何とか押さえつけなくては。
「あの女の人は何なの」
「……」
「乗り換える、ってこと?」
正樹はもう一度ワインを一口飲むと、珠美を正面から見つめた。
「こういう言い方はアレだけど、お前も何度も合コン行ってるらしいね」
「え?」
「美千代が言ってた。参加するたびに酔っ払って、他の男の世話になってるらしいじゃん。おれ、知らなかったよ」
美千代と言うのは、珠美の学生時代の友人だ。いつも合コンの幹事を引き受け、正樹との出会いの場を作った人物でもあった。その後、珠美と正樹が付き合うことになったのは知らせていなかったが、まさか正樹と美千代に接点が残っているとは思わなかった。
いや、もしかしたら付き合っていることに気づかれていたのかもしれない。でも、こうして珠美の情報を正樹に流す真意がわからない。そもそも、男たちに世話になっているとはどういう意味だ。まるで心当たりがないことに珠美は言葉を失った。
――。
「確かに、おれがハッキリと将来を約束しないせいで、お前を不安にさせているのは悪いと思っているよ。でも、お前との将来を約束しても、おれの不安が消えないんだよ」
疲れる、そう聞こえた。
「本当にお前の人生におれは必要?もしそうなら、合コンに行く必要ないだろ?おれじゃなくてもいいってことじゃないの?」
「ち、ちょっと待ってよ」
「――あの人は、おれを必要としてくれたんだよ」
珠美は視線を落とした。正樹の顔が怖くて見られない。
ワインの中の気泡がじっと並んでいる。
「違う会社だけど、仕事で絡むことが増えたんだ。キビキビして優しくて。だいぶ年は離れているけど威張ることもない。でも、数年前に旦那さんを亡くしていたらしいんだ。それでも娘さんもいるし、強く生きていかなきゃいけないという信念がにじみ出ていたよ。そんな人がさ、おれに悩みを打ち明けてきたんだ。親戚絡みの問題らしくて、詳しくは聞いてないけど、何とかして力になりたいって思った」
正樹はワインを飲み干した。
「でも、あの人は話を聞いてくれただけで充分だと距離を置いてきた。気持ちはわかるよ。おれみたいな年下野郎が頼りになるわけないし、何より年頃のお嬢さんもいるしね。でも、もう、おれが止まらなかった」
しばらく沈黙した後、正樹はゆっくりと珠美に頭を下げた。
「嘘をついてゴメン。色々と悲しい思いもさせてゴメン」
珠美は、目元が熱くなるのを感じながら笑った。
「そっか。そうなんだ。じゃあ、もう終わりにしようか」
何を言っているのだろう。
「私、正樹と結婚できると思ってたよ。だから三年以上待った。けど、確かに不安で仕方なくて合コン行ったのは本当。結婚をしたがる男の人がどんな人か見たかったの」
正樹が顔を上げた。
「何かわかったのか?」
「わからないよ。ただ、みんな優しかった」
そして、あっという間に消えていった。
「私たち、付き合っていると勘違いしていただけで、随分前から互いを裏切っていたんだね。長い付き合いだから、ある程度のことなら許されると思って、隠し事が増えていったのかな」
正樹は下を向くと、小さくうなずいた。
――ああ、イヤだ。
珠美の頬に涙が伝った。慌てて拭うと、正樹が苦しそうに見つめてきた。
恋人と別れることが悲しいのか。積み重ねた年月が消え去ることが悲しいのか。
あんなに腹が立ったというのに、この関係を続けたいと思うあまり、正樹もあの女も許してしまいそうになる。
――『ま、がんばって』。
藤石の一言にはどんな意味が込められていたのか。もう一度、やり直すための、はなむけの言葉だったのだろうか。
「ま、正樹」
「別れよう、珠美」
見つめる先には、唇を引き結んだ恋人の顔。
そこに迷いは見えなかった。
「下手に言い訳すると、かえって悩ませると思う。おれはあの人が好きになった。相手の本心はともかく、支えになりたいと心から思った。申し訳ないけど、珠美に対しては持ったことがない感情なんだ。成就するとかしないとか、結婚とか関係なく、あの人の一番近くにいたいんだ」
珠美はもう何も言えなかった。自分の気持ちを見せることが苦手な正樹が、こんなにまで強い言葉をぶつけてきたことは今までなかった。
完全に心が離れていくのがわかった。
正樹は右手を差し出した。
「お前と過ごした時間は楽しかった。これは本当にそう思ってる。ありがとう」
その手を握り返したら、終わる。
すべてが終わる。
珠美はゆっくりと手を差し出した。
――最後くらい笑わなきゃダメだよね。
冷静な自分に混乱した。
「私も楽しかった。ありがとう」
そう言えて心から安堵する。
手を離した瞬間、ただの思い出の人になる。
珠美は自分から手を離した。
***
そうだ、そんな感じだった。
あれから、何日経つだろう。毎日のように泣いていた。ただ職場と家を往復するだけの日々。両親に言うこともできず、ただ今は自分の心に蓋をするだけの日々。
珠美は気晴らしとお詫びも兼ねて、あの司法書士を食事に誘ったが、断られてしまった。確かにそれだけ多大な迷惑をかけたのは自覚している。一緒に飲んだら危険だと思われても仕方ない。
それでも、藤石は珠美の気持ちを汲んで、【この場】を用意してくれたのだろう。
「いらっしゃいませ」
「ご予約のお客様です」
「いらっしゃいませ」
次々と店員が声を発して頭を垂れる。その間を黒い影がゆっくり近づいてきた。
長い前髪、黒いスーツ、黒いシャツ。
――。
いや、もう一人。
身長が二メートル近くある外国人もついてきている。
そして、そっちの方が先に珠美の隣に座った。
「やっほい、こんばんは。オレ宇佐見」
――誰だ。
黒尽くめの白井がテーブルの直前で立ち止まった。前髪で表情こそ読み取れないが、ただ口が大きく開いていくのだけはわかった。その口が震えた声を発した。
「あ、あなたは」
「え?」
「どうしてここに?」
話がおかしい。珠美は、藤石に言われてここに来たのだ。
「藤石先生が飲みの席を用意してくれるって言ったんです。白井さんが一緒に飲んでくれるっていうから」
突然、白井が床に座り込んだ。
「ど、どうしました?」
「……また……こういうことを……」
押し殺した低い声でそう聞こえた。何か連絡ミスでもあったのだろうか。
「あれれ?アサトってばどうしたの?その床の上をリザーブしたわけじゃないでしょうに。ホラホラ乾杯しようよ」
「え?ちょっと待ってくれ。ウサさんは何しに来たの?もしかして」
「チビ書士が珍しく酒代を出してくれたんだよ。何か良いことでもあったのかねえ」
宇佐見と名乗った長身の男は、どうやら日本人のようだ。最初こそ驚いたが、この軽妙な感じは嫌いではなかった。
「宇佐見、さんですか。藤石先生のお知り合いなんですか?」
「まあね。でも、オレの方が素敵だし、百億倍は優しいよ」
真顔で言うので思わず笑ってしまった。すると、宇佐見も笑った。
「うんうん、今日は楽しもう。アサトもいい加減に観念しなってば」
白井はゆっくり立ち上がると、透き通るような白い首を横に振った。
「いや、僕は別の用事がある。それ終わったらすぐに帰るから」
そして、誰かを探すように店内を見渡した。
――何か怒っているのかな。
珠美は運ばれてきたジン・フィズのグラスを手に取りながら白井を見つめた。
その白井に向かって若い女の子が近づいてくるのが見えた。店のスタッフのようだ。
「こんばんは、白井さん。わざわざすみません」
「いいえ、あの人が勝手なお願いをしたようですね。こちらこそ、お手数かけました」
白井が女性スタッフに丁寧に頭を下げる。
「それで、フジさんの書類はどこですか?」
白井の問いかけに女性スタッフが首を傾げた。
「え……書類?」
「代わりに渡して欲しいと頼まれたものです。何かの書類だと思うんですけど」
女の子は首をかしげながらバックルームに戻ると、透明のビニール袋を持ってきた。
「こちらです。藤石さんは、渡せば全部わかるとおっしゃっていました」
その中身に、珠美は思わず立ち上がった。
「私のハンカチ!」
白井が勢いよくこちらを振り返り、しばらくして再び座り込んだ。
若い女性スタッフがチラチラとこちらを見つめながら白井に声をかける。
「あ、あの白井さん?大丈夫ですか?私も藤石さんに渡すように言われただけで、詳しくは聞いてないんですが」
すると、珠美の背後から覆いかぶさるように宇佐見が顔を寄せてきた。
「ははん、さてはアサトはまたチビ書士に嵌められたんだな?学習能力ないねえ」
「ウサさん、後は頼む」
白井が立ち去ろうとするのを女性スタッフが止めた。
「ま、待ってください。私、白井さんにもちゃんと謝りたくて」
その必死な表情に、なぜか珠美は胸が締め付けられ、思わず声を発した。
「白井さん、私もあなたに謝りたかったんです。あの晩、横浜駅から送ってくれたと聞きました。みっともない姿を何度も見せてしまって、本当にごめんなさい。今日は、その……色々あったから一緒に……飲みませんか?」
白井は二人の女に挟まれ、たいそう苦しそうに口を歪めた。
すると、宇佐見が馴れ馴れしく女性スタッフの肩を抱いた。
「何なに?沙希ちゃん、何があったの?そちらのお嬢さんもアサトと知り合い?」
どう説明したら良いか迷っていると、女性スタッフが宇佐見の腕から逃れて言った。
「私は藤石さんから頼まれただけです。その……ハンカチを白井さんに渡してくれと」
そして、珠美を正面から見つめてきた。
「あなたの持ち物だったんですね。無事に返せて良かったです」
何て礼儀正しい子だろう。つい、珠美も頭を下げてしまった。沙希という名の女の子は、白井と珠美を交互に見ると、急に、
「う、宇佐見さん。ビリヤードしましょう」
と言った。
「おほ?もちろん受けて立つよ。デートを巡る熱い攻防は最終決戦までもつれ込んでるからね」
宇佐見は意気揚々とビリヤード台の方へ歩いていった。沙希はこちらに会釈をすると、宇佐見の後を追った。
珠美は恐る恐る白井に声をかけた。
「あ、あの白井さん」
「はい」
「怒ってます?」
「いや、疲れただけです」
白井は深いため息をついた。
「せっかくですから、少しだけでもご一緒しませんか?あの、もう悪酔いしませんから」
「はあ」
白井は観念したようにテーブルについた。スタッフに何やら小声でオーダーすると、珠美に向き直った。
「大河原さん、でしたよね」
低い声は少しだけ尋問の色を帯びている。
「フジさんと何を話したんです?」
珠美は慌てて弁解した。
「あの、まさかこんなことになるとは知らなかったんです。藤石さんの事務所にハンカチを忘れたことを思い出して、それを確認する電話をした時に、私からお食事に誘ったんですけど、断られてしまって。そうしたら、白井さんに声をかけてくれるというから」
珠美が話せば話すほど、白井はうなだれていった。どうやら本当に何も聞かされていないようだ。
珠美は、少し姿勢を正して白井に向き直った。
「白井さん、先日は本当にお世話になりました」
「はあ、いえ。僕は何も」
「あの後、彼とは別れたんです。フラれちゃいました」
白井がわずかに顔を上げる。
「そう、ですか」
「はい、その報告とお詫びも兼ねてワイワイやれたら気も晴れるかな、なんて勝手に思っていて。でも、ご迷惑でしたよね。お忙しいのにすみませんでした」
白井は視線をビリヤード台の方に向けてつぶやいた。
「それで、ウサさんがいるのか」
「え?」
「あの大きい人は僕の高校時代からの友人で、弁護士なんです」
「はっ?」
珠美は思わずビリヤード台の方を振り向いた。沙希とゲームに興じる宇佐見が、こちらに気づいて投げキッスをしてきた。
「ご覧の通り、ああいう人なのでフジさんが自分の代わりに遣わしたのだと思います。彼は女性の扱いが本当に上手なので」
白井は運ばれてきたグラスを手に取った。
「僕なんかより、彼と話した方が気が紛れますよ」
「そんなことないです。私、話を聞いて欲しいだけかもしれないですから」
まるでフォローになっていないが、白井をこのまま帰すのは気が引けた。それに、白井の声を聞いていると不思議と心が落ち着くのは事実だった。
白井はグラスを傾け、時々ビリヤード台の方に視線を向けてはゲームの行方を見守っている。どうやら沙希の方がリードをしているようだ。
――あの子は何歳くらいだろう。
まだ学生なら二十歳前後といったところか。純粋に恋愛を楽しんでいれば良かった時期が自分にもあったことを思い出した。
その記憶を辿るうち、自然と言葉がこぼれ始めた。
「正樹……彼とは三年付き合ったんです」
「はあ」
「楽しかったな。海外旅行にも行ったんですよ。そうしたら、空港のストライキに巻き込まれて大変な目に遭ったんです」
「それは、また」
「言葉が通じなくて二人で苦労して。でも不思議と喧嘩にはならなかったんです。その時に、この人とならどんな困難も上手く乗り越えられるって思っちゃったんですよ」
あの時の正樹は本当に優しくて、楽しい思い出しかない。
「私が結婚なんか言い出さなければ今もやっていけたのかな。もう遅いですけど」
「はあ」
白井の相槌が義務的なものに感じたので、慌てて珠美は話を切り上げようとすると、
「今も関係が続いていたら、毎晩、大河原さんは泣きながら悪酔いしていたでしょうね」
白井がつぶやいた。
「え?」
「そして、お相手は……今もそのことを知らないままなんでしょう」
低く静かな声が胸の奥に染み込んでくる。
視界が滲む。
「し、白井さん」
「はい」
「悔しいよ。こんなのって、私……わた…し…」
声が引っくり返る。息が乱れる。
「もっと喧嘩して言いたいこと言えばよかった。最後まで綺麗な関係の二人でいたいなんて、バカみたいだよ。浮気相手は年増なのに、私より数倍も良い女で、見たことないような顔でアイツはその女を褒めやがったんだよ。私の目の前で」
熱く、赤くなった頬を涙が伝う。自虐的な笑いまで込み上げてきた。
「難しいなあ。結婚ってどうすればできるんだろう。相手にプレッシャーかけないように、気持ち抑えていたら、ただの都合の良い女になってたんだもんなあ。おまけに会ってもくれないなんてさ、セフレ以下じゃん」
醜い言葉が次々と喉からあふれ出しそうになった時、落とした視線の先にグレーのハンカチが見えた。
「関係を大事にしたいと思ったあなたの選択肢、相手にとっては不正解だったんです」
白井の声に涙が零れ落ちる。それは汚れた心を洗い流してくれるようだった。
「次からは、向き合って答え合わせをしてくれるような男性を探したら良いです。結婚は、勘でするものではないと思いますから」
白井の顔は相変わらず何の感情も乗せていないが、苦しそうな声をしていた。
「悲しませるつもりはなかったんですけど、本当にすみません」
「い、いいえ」
珠美は白井のハンカチで涙を拭った。
「私こそごめんなさい。白井さんに言ったところで意味ないのに。私ったら、会うたびに白井さんを困らせてばかりで、どうしようもないですよね。だから捨てられるんだな」
気を張ってみせたが、声がどうしても震えてしまう。これ以上、泣き顔を見られまいと、珠美は白井のハンカチのロゴマークをひたすら見つめた。
「確かに、大河原さんは困った人だと思いますけど、ちゃんと拾う者もいますから」
「え?」
つい、顔を上げてしまった。
少し首をかしげて、白井が珠美を見ている。
「言い方は悪いですけど、実際に僕は横浜駅で泥酔したあなたを拾いました。そして、フジさんも階段の踊り場で倒れこんでいた僕たちを拾ってくれましたから」
――。
「白井さん、あの……それは、そうなんですけど……」
「ええ。たった今、僕も己の発言がこの場にふさわしくないと思いました。すみません」
白井は小さくため息をついた。
何だろう、この人。
「もしかして、私を慰めようとしてくれました?」
「いいえ。深く考えずに出た言葉です。不快にさせたら申し訳ないです。忘れて下さい」
その声には、本当に謝罪の心がこもっていた。さらに白井が頭を下げたのを見て、珠美は吹き出してしまった。
「白井さんって、不思議な人ですね」
「はあ、不本意ですがよく言われます」
白井の長い前髪の間から、切れ長の黒い瞳がのぞいた。
まるで静かな湖面のような――。
「でも、あなたが笑ってくれて良かった」
わずかに、白井の顔に笑みが浮かぶ。珠美の目元や頬に帯びていた熱が、少し違ったものに変化した。一瞬で元通りになった白井の顔を見つめ続けていると、男が口を開けた。
「どうかしましたか?」
「あの、どうして前髪を切らないんですか?その、何というか……もったいないです」
「はあ」
それ以上は語らず、白井はグラスを手に取った。何も話したくないようだ。
ちょうどその時、ビリヤード台の方から歓声が上がった。沙希が周りの客とハイタッチをしているのが見えた。台のそばで座り込む大男をどこかのサラリーマンが慰めている。周囲からは笑いが起きていた。ゲームを終えた宇佐見がこちらのテーブルに戻ってくると、
「次こそは勝ってみせるよっ!こうなったら事務所にビリヤード台を置いて練習しよう」
と、高らかに宣言しながら珠美のそばに座った。
「どう、お嬢さんも楽しんでいる?このお化け男は意外に良い奴なんだよ。ちなみにミクロ書士はね、異次元レベルで最悪だから」
宇佐見がオーダーを入れると、沙希がドリンクとナッツを運んできた。
すぐに戻ろうとした沙希を捕まえ、宇佐見は沙希の口にナッツを一つ放り込んだ。
「わ、何するんですか」
「少し休憩しなよ。オレの膝でよければ貸すからさ」
「いいですっ」
すると、白井が宇佐見の腕を掴んで、沙希を解放してやった。
「ウサさん、あまりハシャぐと通報されるから」
ふてくされた宇佐見は、再び珠美の方へ向いた。
「こんな可愛らしい女の子を泣かせるなんて、オレが裁判官だったら十秒で実刑判決出して、五秒で刑執行だね。ホラホラ、マスカラがついちゃってる」
宇佐見は珠美の目尻に優しく触れた。確かに、宇佐見の方が女性慣れしているのがわかる。しかし、珠美は白井の心遣いの方が癒された気がした。
「そんなわけで、アサトくんに実刑だ。判決、被告を『チビ書士と同じ変な眼鏡を毎日かけるの刑』に処す」
「ちょっと待って」
白井が狼狽した。珠美自身も別に泣かされたわけではないので、慌てて宇佐見を止める。
「あの、宇佐見さん。白井さんは私の失恋話を聞いてくれただけで、勝手に私が泣いたんです。だから、その」
「何だ、そうだったのね。それでお嬢さんをフッた男ってどんな奴なの?これから成敗しにいくからさ。写真とかあるなら見せて」
「は?」
宇佐見はテーブルに置いてあった珠美のスマホを手にした。
「ち、ちょっと人のスマホを勝手に触らないでよ」
「見せてってお願いしたよ?」
「許可はしてないでしょっ!」
それでも宇佐見が諦めようとしないので、珠美は最近の写真をピックアップして画面に映し出す。前回の旅行先で二人で撮ったものだ。
宇佐見も白井も、沙希までも端末の画面を覗き込んだ。
「えっ?」
一番意外な人物が声を上げた。
「あれ、沙希ちゃんってばどうしたの?」
宇佐見の問いかけにも答えず、沙希は画像を見つめている。
「いや、別人かな。でも……似ている」
「似ている?」
慌てて沙希が珠美に頭を下げた。
「うちの売却のことでお世話になっている人に似てると思っただけです。すみません」
沙希がスマホを珠美に返そうとすると、それを横から白井が奪って画面に顔を近づけた。
「白井さん?」
「……沼目さんのご自宅の売却はどこかの不動産コンサルタントが手続きをすると、あなたのお母さんから話があったんですけど」
「そうです。この前……書類の準備とかでうちにも来ました」
沙希が少しうつむきながら答えた。
「僕は、沼目さんのお母さんからその業者の名刺を見せてもらったんですけど、確か……何とかエステートの平岡という人物の名刺でした。その人がご自宅に現れたんですか?」
「会社名は知りませんけど、そんな名前……でした」
――平岡?
「平岡……正樹はこの人です、けど」
珠美が口にするや、白井も沙希も一斉にこっちを向いた。しかし、こちらはまるで事情が飲み込めない。スマートホンをバッグにしまいながら二人に言った。
「確かに、彼は不動産関係の仕事をしていましたよ。こういう偶然ってあるんですね」
白井が口元に手をあてながら、珠美に言った。
「こちらの彼が、別の女性と……?」
「そうです。悔しいけど、綺麗な熟女だったわ」
すると、突然沙希が背を向けてフロアを立ち去ってしまった。
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