六月四日(水)夕方 オルドビシャン・ピリオド
沼目沙希は、店の前の通りでチラシを配りながら往来の人々を見つめた。ニューオープンだというのに店内は満席に近い。やはり都心の『話題性』とやらはすごいらしい。
オルドビシャン・ピリオドは一昨年に新宿で一号店がオープンし、沙希自身も短大入学と同時にそこでアルバイトを始めたが、最近になって渋谷にも新しい店舗が出来た。最初は応援要員の予定だったが、学校からも近いため、そのまま沙希は渋谷のオープンスタッフとして働き始めた。この店の人気は、都心には珍しいゆったりとしたフロア、そしてカフェとバータイムとで雰囲気がガラリと変わるところだ。特に渋谷店は結婚式の二次会などにも利用できるようになっている。コーヒー一杯が七百円以上する店なので、若者の町に構えていながら、昼間の客層もビジネスマンや裕福そうな高齢者などが多い。
――七百円のコーヒーなんて、とても無理。
沙希は笑いそうになった。ファーストフード店やコンビニの安いコーヒーで自分は充分満足だ。そもそも味の違いがわからない。まだ子供だからだろうか。
配布チラシには百円の割引券がついているが、これで新しい客層が見込めるかどうか甚だ疑問だった。しかし、店の収益は上々だというのだから何かしらの効果はあるのだろう。たかがチラシ配りだが、手を抜くわけにはいかない。
別のスタッフからチラシを受け取ったと思われる女子大生が二人、沙希の前を歩いて行った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
そう声をかけると、女子大生の一人が沙希に近づいてきた。目元にはしっかりと付けまつ毛を並べ、ネイルにも余念がない今時の女の子だ。
「バータイムは何時からですかあ」
「夜のメニューは夕方六時からですが、店内の照明が落ちるバータイムは夜八時です」
「ふうん、でも高そう」
「怖い人とか来たりしない?」
女子大生が少し怪訝な表情を浮かべる。
思いもよらない追及に沙希は慌てた。
「少しお値段は張りますが、チャージ料はいただいておりません。カウンターのお席ではイケメンのバーテンダーがお相手しますし、ダーツもビリヤードもございます。スタッフをゲームの対戦相手として指名することも可能です。実は夜の時間の方が若い人が多くいらっしゃいます。でも大騒ぎするような雰囲気ではなく、静かに飲みたい方にもピッタリです」
「そうなんだ?ねえねえ、ここ良いかもよ」
沙希は丁寧にお辞儀をして、女子大生たちを見送った。ここ渋谷では、彼女たちが情報発信になっていると昔から言われてきているが、微妙な動向の変化を感じ取れる大人が何人いるだろう。意外にも堅実な女の子が多かったりするのだ。自分にはわかる。
一緒にチラシを配っていた女性スタッフが沙希のところへ駆け寄って来た。
「ごめん、沼目さん。中からヘルプ来ちゃった。一人で頑張れる?」
「大丈夫です」
腕時計を見ると、ちょうど午後四時半になろうとしていた。こんな中途半端な時間でも混雑したりするから、まったく客足が読めない。
その時、女性スタッフが沙希にそっとささやいた。
「あたしね、さっきからあそこにいる男の人が気になってるんだけどさ」
「え?」
女性店員が指をさす先にはビジネススーツを着た小柄な男が店の看板やメニューを眺めている。沙希も女性店員にささやいた。
「何か迷ってるのかな……声をかければ入ってくれるんじゃないでしょうか」
「チラ見したんだけど、すごくカッコいい人なんだよ。眼鏡は少しアレだけどね。沼目さん頑張って呼び込みしてよ」
彼女の舞い上がり具合に沙希も気になった。言われるまま、店の前に立つ男に近づいていく。
すぐそばまで来て驚いた。
――背丈が一緒だ。
「あの、いらっしゃいませ。今ならお席も空いております。よろしければ」
振り返った男を見てさらに沙希は目を丸くした。
なるほど、イケメンだ。
アイドルグループのセンターでも通用するだろう。
これなら身長の低さも問題ない。
――オレンジのストライプの眼鏡はどうかと思うけれど。
男は片手を上げてこちらの申し出を断る素振りをしてみせた。
「ああ、いや。大丈夫です」
そして、男は沙希の背後に目を向けると、急に会釈をした。
「こんにちは。盛況ですね」
「や、お待たせしました先生」
沙希が振り向くと四十代くらいの男が歩いてきた。少し頭部が寂しいことになっている。
「先生どうですか、ご馳走しますよ」
「いえいえ、どんなものかと見に来ただけですから」
見知らぬ二人の間に挟まれて、沙希は何となく気まずくなってしまった。ゆっくりと引き下がると、店の中から店長が駆け足で出てきた。
「社長……ッ」
その単語に沙希は思わず飛び上がった。四十代くらいの男に向かって店長が頭を下げると、社長と呼ばれた男が笑った。
「ご苦労さま。どうかな店の方は」
「はい、オープンから順調に売り上げを伸ばしています」
社長は沙希の方を向くと、名札に目を落とした。
「君はアルバイトさんかな。えっと、沼目さんもご苦労様」
「は、はいッ」
生まれて初めて社長と呼ばれる人間を目にしたせいか変に緊張した。そこへ、ちょうど店からテイクアウトの紙袋を持った男性客が出てきた。
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
条件反射で沙希が接客対応をすると、社長も店長も頭を下げたので男性客は少し驚いた顔をした。
「なかなかセンス良いですね。あの袋」
黙っていた小柄な男がつぶやいた。
「あのロゴでしょ?先生のおかげですよ」
「いやいや、俺は何も」
「またまた、そんな」
社長と小柄な男を交互に見ていた店長が口を開いた。
「えーと、お客様は……」
「ああ、初めまして。司法書士の藤石と申します。横浜で開業しております」
そう自己紹介した男が名刺を店長に渡すと、社長が言った。
「こちらの藤石先生は、うちの会社設立の当時からお世話になっている方でね。それより前から共通の趣味で仲良くなったんだが」
そう言いながら社長が笑うと、藤石と名乗った男も楽しそうな顔をする。
「あれは、いつでしたっけね。三年くらい前ですかね」
「大恐竜博の時だから、そうかな」
「あの時は激論しましたよね」
「ふむ、今でも私はディノニクスが最強だと思うんだが」
沙希は藤石の顔を見つめた。新入社員のような若々しい風貌だが、社長と同等に話をしている風からしてもそれなりの年齢なのだろう。
――今……司法書士、と言わなかったか。
先日、家にやって来た黒尽くめの土地家屋調査士の話を思い出した。その中で司法書士の説明があった気がする。こんなにも身近なところで出会う職業なのか。
社長のスマホ電話が鳴った。
「はい。うん。え?本当に?わあ、それは参ったな」
苦笑いしながら社長が電話を切ると藤石に頭を下げた。
「すみません、先生。戻らなきゃ行けなくなっちゃったよ」
「気になさらないで下さい。また今度ゆっくり時間作りましょう」
急ぎ足で去っていく社長を見送ると、店長も藤石に頭を下げて店に戻った。
そのタイミングで立ち去ろうとする藤石に、思わず沙希は声をかけてしまった。
「司法書士、なんですか」
振り向いた男は眠そうな目を沙希に向けた。
「そうですよ」
「すごいですね。社長から先生とか言われて……」
「すごくはないです。ただの書類屋です」
「あの、土地家屋調査士と一緒にお仕事……されてるんですか」
眠そうな目が一瞬だけ怪訝なものに変わったが、すぐに戻った。
「ずいぶん詳しいね。もしかして今年の受験生?」
「え?」
「違うのかな。まあいいや」
その笑った顔に沙希は一瞬だけ胸が苦しくなった。
「あ、あの。設立がどうとか何とか言ってましたけど、それもお仕事なんですか?」
自分は何を言っているのだ。話の脈絡がメチャクチャではないか。しかし藤石は気にすることなく話をしてくれた。
「そうですよ。簡単に言うとね、会社を作ったらそれを国の機関に登録しなきゃいけないわけです。それを商業登記というんだけど、専門的な知識や手続きが必要でね。俺みたいな司法書士が代理人として社長の代わりにやってあげるんです」
その説明は理解できたが、あの土地家屋調査士は不動産のことを話していなかったか。
「あの、登記簿の権利部の手続きとかもやられるんですよね。あの、決済とか」
「おいおい、専門用語ばかりじゃないか。本当に司法書士の受験生じゃないの?」
藤石は笑いながらも、不動産の登記も仕事だと教えてくれた。
「書士の業務に詳しい人間なんて、そこらの不動産業者でもいないぞ。お嬢さん、もしかしてご両親が家でも買った?それとも売ったのかな」
沙希は心を見透かされたのかと思い、大いに焦った。しかし、母親と自宅の事情を話すわけにもいかず、何とか話をはぐらかした。
「えっと、ウチの社長と仲良しなんですね」
「恐竜博でお会いしてね。お互い、周りに共通の趣味の人間がいないせいで意気投合してしまったんだよ。そうしたら飲食系の会社を作る話を持ち出されて、色々と手続きをしてきたわけです」
「何か、ロゴがどうとかおっしゃっていましたけど」
沙希の問いかけに藤石が少し嬉しそうな顔をした。だんだん高校生くらいに見えてきた。
「店の名前『カフェ&バー・オルドビシャン・ピリオド』だけど、由来は知ってる?」
「いえ、知らないです」
「オルドビシャン・ピリオドというのは、日本語でオルドビス紀という意味になるんだ。今から五億年くらい前の時代だね」
「五億年前?」
「恐竜よりずっと昔だよ。海の中でたくさんの生物が繁栄した時代。オウムガイって知ってるかな。巻貝から足が飛び出したようなヤツ。ちょうどそのくらいに誕生しているんだけど、この店のロゴマークもそのオウムガイがモデルになっている」
看板にもある店のロゴマークは、確かに見方によれば生き物に見えなくもない。
「最初、恐竜好きの社長は『ジュラシックカフェ』という名前にしようと思っていたらしいけど、俺が編み出した今の名前の方がカッコ良いということになった」
「へえ、すごいですね」
「でも、オルドビス紀は四千万年くらいしか続かなかったんだよなあ。生物も大量絶滅しちゃうし、プチ氷河期も来ちゃうし、知ってるヤツからすれば縁起悪い名前かもな。ま、繁盛しているなら良いか」
聞き捨てならないことを藤石は笑顔で言ってのけた。
――変わった人。
「社長が聞いたら怒られませんか」
「あなたがナイショにしておけば良いだけのこと。ね、アルバイトさん」
顔をのぞきこまれて、一気に顔が熱くなった。相手は完全に子ども扱いだというのに。
「あ、あの、コーヒーいかがですか?」
沙希は思わず藤石の袖を引っ張ってしまった。
「何、口止め料?やるねえ」
「ち、違いますっ」
「わかった、わかった。じゃあ一杯いただくよ」
藤石が店に入っていく。本当に口止め料だと勘違いされたのだろうか?
「あの、藤石さん、私そんなつもりじゃ」
何度か瞬きをすると、藤石が吹き出して笑った。
「えーと、沼目さんだっけ?あなた真面目だね。俺は真面目で良い子は好きだよ」
――好き?
店長が出てきて藤石をテーブルに案内した。
「あ、先生!お立ち寄りありがとうございます」
「へえ、この店はシフォンケーキもあるんですか。あ、チーズケーキもある」
藤石が店長と話をしている最中も、沙希は藤石の言葉を反芻していた。自分が真面目だなんて思ったこともない。
何だろう。どうしよう。
もっと、話をしていたい。
「沼目さん」
後ろから同い年のバイト仲間に呼ばれた。
「休憩時間だよ。交代しよう」
「あ……」
いつのまにか夕方五時を回っている。沙希はバックルームに向かいながら、もう二度とあの司法書士と会えない気がした。
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