六月二日(月)昼過ぎ 宇佐見法律事務所
中から声が聞こえてきた。どうやら、ドアのすぐ近くに人がいるようだ。
「はい」
「ん」
「月内で何とかしてね」
男性の声が二つ。
もっとよく聞き取ろうと顔を近づけた瞬間に、勢いよくドアが開いた。
「んきゃっ」
薫子の悲鳴のせいか、一旦ドアが戻っていった。そして、再びゆっくり開くと、中からあの端正な顔がのぞいた。
「あれ?」
それがわずかに怪訝なものに変わったが、薫子の頭はひたすら真っ白になっていく。
――どうしよう、どうしたら良いの?
「まあ、いいか。ウサ、お前のお客さんじゃないのか?」
藤石に呼ばれて出てきたのは、天井に頭がつくほど背が高い外国人だった。
「あらあら、いらっしゃーい。初めまして」
いや、よく見れば日本人だ。髭を生やしているせいで勘違いしてしまった。
でも、今はそれどころじゃない。
「そんじゃ」
藤石は再び薫子の横をすり抜けて歩き出すとエレベーターの中に消えた。
「えっ」
違う、違うの。
「ま、ままま待ってくださあいっ!」
薫子は階段を全速力で駆け下りた。買ったばかりのヒールはすでに泥だらけだ。靴擦れまで起こしている。
でも、こんなものが何だというのだ。
甲高い音を立てながら一階までたどり着くと、出入り口の前で男がタクシーに手を挙げていた。
「行かないで!」
薫子は勢い余って自動ドアに頭を打ちつけた。その轟音に男が驚いて振り向く。
「やっぱり俺か。さっきの人ですよね?何だろ。落し物でもしたかな」
何か言わなきゃ。
でも何て言えば良いの?
どうしよう。
「あの、えっと」
「ふむ、落し物はしてないな。何の用でしょうか?」
眠そうな目が薫子を見つめた。
その瞳が。その唇が。
「あの、あの、あの、わたし」
「はい?」
――笑った。
薫子は完全に我を失った。
「私と、結婚してくださいっ!」
振り絞った声が自分の頭の中で残響になった。目の前の男は、微動だにしない。表情一つ崩さない。まるで一枚の絵画になってしまったようだ。
次第に感覚を取り戻した自分の耳に入ってきたのは、バケツをひっくり返したような雨音だった。さらに、自動ドアが繰り返し開く音、タクシーが止まる音。
それでも、薫子の目は美しい絵画に釘付けのままだった。
ふいに、背後から声がする。
「あ、いたいた。お嬢さん、傘をお忘れですよぉ」
ほぼ同時に、薫子の魔法が解けた。
「あれ、何してんの?ヒロミってば、まだいたの?」
自動ドアから出てきたのは、四階で会った外国人のような男だった。
ヒロミ、と薫子は心で復唱してみた。
――下の……お名前?
藤石は、外国人のような男に一瞥すると、薫子の方を見つめた。その眼差しに吸い込まれそうになる。
薫子が一歩だけ足を進めた時、
「イヤです」
そう聞こえた。
「え?」
「すみませんね。俺、仕事中なので」
男は薫子から視線を外すと、待たせているタクシーに向かって小走りに去って行った。
薫子の右耳には、タクシーのエンジン音がやたら大きく聞こえてきた。
イヤです。
イヤです。
何の譲歩も妥協もない完全否定な言葉。
それを、今、あの人に言われた。
「う、うぅぅ」
獣のような声が口から漏れ出した。
こんな、こんな。
目の前がぼやけ出した。滝の中にでもいるのか。
「うゎあああぁっ」
身体中から水が溢れ出したかのようだった。もう、このまま萎んでいくんだ。干からびて、ペチャンコになってしまうんだ。だって、もう力が入らない。
薫子は自身を支えることを諦めた。しかし、膝が地面につくところで、身体が引き上げられた。
「あーあー、可哀想に。よしよし」
見上げれば、さっきの外国人みたいな男が薫子の腕を掴んでいた。優しい笑みを浮かべ、薫子の頭を軽く叩いた。
「女の子を泣かすなんて、アイツにはきっと天罰がくだるよ。それよりさ、お急ぎじゃないならオレの事務所でお茶でもどう?ちょっと身体も冷えてるみたいだし」
薫子は、彫りの深い男の顔を見上げた。最初は背が高過ぎて怖いと思ったが、その笑顔と口調でいくらか安心することができた。確かに、もう日本橋や銀座に行く気分ではない。帰っても一人ぼっちだ。
「あ、別に何もしないから安心して。お嬢さんがオッケーなら良いけど、さすがに高校生を連れ込むのもねぇ」
男が困った顔をしたので、薫子も困った顔をしてみせた。
「私、三十二歳です」
「うぇぇえええっ?」
ことさらに驚かれたが無理もない。薫子は身長が一四五センチ、顔も幼く、子供に間違えられることも多い。
男が笑い出した。
「これは失礼しました。立派なレディだったのね。うんうん、でも前髪が真っ直ぐで市松人形みたいに可愛いよ。オレは宇佐見って言うけど、あなたのお名前は?」
すでに男は薫子の背中に手を回して、ビルの中に連れて行こうとしている。
「は、萩野谷薫子です」
「おお、なかなか古風だね。薫子ちゃん。良いね。でもオレより年上か」
「えぇっ?」
今度は薫子が驚いた。このイタリア人みたいな男が年下なんて信じられない。
「そうそう、必要以上に年長に思われちゃうのよ。このお髭がいけないのかね」
そう言って、異国顔の男――宇佐見は自分の髭をエイエイと引っ張った。
「そんなことしたら、痛いですよ。驚いてしまってごめんなさい」
「ん?」
宇佐見はエレベーターホールの前で薫子を振り向いた。
「面白い人だねえ。薫子ちゃん、ふふ、気に入った」
「そんな、こ、困ります」
宇佐見は声を上げて笑った。薫子は下を向いた。やはり、引き返すべきだったか。
「アイツとは、どこで会ったの?」
エレベーターの奥へ進みながら宇佐見が言った。その言葉に薫子は一瞬立ち止まる。
また、記憶が。
「ああ、もう泣かないで。ホラホラ、おいでよ」
薫子は子供のように手を繋がれて、再び四階のフロアに戻ってきた。広い事務所の中に入ると、積み上げられた書籍や資料が目に入る。大きな机にはノートパソコンと缶ビールがあった。宇佐見はパーテーションの奥のソファに薫子を座らせた。
「薫子ちゃんはコーヒーと紅茶、どちらがお好き?」
「あ、こ、紅茶を」
小さな声で答えると、異国顔の男は薫子の頭をなでてキッチンに向かった。
完全に子供扱いされている。しかし、不思議とイヤな気持ちにはならなかった。あの風貌のせいだろう。薫子も宇佐見を年長者のように接する方が気持ちが楽だった。
なでられた頭をさすってみた。けれど、優しくされると余計に辛い。きっと、一生忘れることはないだろう。
――イヤです。
涙がこぼれてくる。午前中までの自分が、バカみたいに思えてきた。
「あらあらあら、また泣き出しちゃった。紅茶でも飲んで落ち着こうよ」
ティーセットを持って宇佐見が応接に戻ってきた。薫子はハンカチで涙を拭うと、宇佐見に頭を下げた。
「ご迷惑かけてすみません」
「全然。こっちからお誘いしたんだよ。ハイどうぞ」
薫子は差し出されたカップを手に取り、口をつけた。
「美味しい」
「それは良かった」
宇佐見がいれてくれた紅茶はアールグレイのようだ。冷えた身体に温みが戻ってきた。
「薫子ちゃんは三十二歳だったね。じゃあ、あのチビ助と同じか。アレは確か早生まれだから、薫子ちゃんより学年では一つ上だね」
薫子は宇佐見を見つめた。
「あ、あの」
「何があったか知らないけどさ、やめておきなよ。アイツは日本史上まれにみる酷い人間だから」
宇佐見は自分を慰めてくれているのだろう。
けれど――。
「あの人を悪く言わないでください」
薫子はカップをテーブルに置いた。また涙がこぼれそうになる。
「私に魅力がないからいけないんです。あんなに素敵な人、私なんか相手にするわけないです」
宇佐見は、何度か瞬きをすると、深く息をついた。
「相当入れ込んでるねえ。アイツとどこで知り合ったの?職場?」
「見かけたんです。電車の中で」
「ほ?」
宇佐見が首をかしげた。
「ひょっとして、それだけ?」
「それだけじゃありませんっ。ファミリーレストランでお仕事ぶりを拝見しました。それに銀行の前で待っていたらもう一度お会いできたんです。そしてタクシーでここまで追いかけて、それで」
「ちょっと待って。今日初めて会ったの?何度も電車の中で見かけたとかじゃなくて?」
うなずく薫子を見て、宇佐見はソファにもたれかかった。
「こりゃ驚いた。ひとめぼれ?しかもかなり重度の」
ひとめぼれ。
電車の中で見た男の横顔を思い出す。薫子は顔が猛烈に熱くなるのを感じた。
「でも、倒れそうになるくらい悲しい目に遭っちゃったんでしょう?」
また心が沈んできた。雨音と共に、あの言葉がよみがえってくる。
「フラれちゃったんです」
「うーん、まあそんなとこだろうとは思っていたけど、初対面なのに、ずいぶん張り切っちゃったんだねえ。アイツも驚いたことだろう」
「そんな風には見えませんでした。一言、イヤだと」
薫子が鼻をすすると、宇佐見が慌てて慰めた。
「何にしてもショックだったろうね。良いじゃんねえ、お友達からスタートしたってさ」
「お友達?」
「そう言ったんでしょ?それともお付き合いしたいって言ったの?」
「いえ、結婚してください、と」
宇佐見が盛大に紅茶を吹き出した。むせ返りながら、薫子を見つめた。
「そ、それは無理だよ薫子ちゃん。何事も順番ってあるでしょう?」
「順番って何ですか?」
「えーと、あのさ」
宇佐見は困ったような笑みを浮かべた。
「薫子ちゃんは今まで男性とお付き合いとか……恋人はいたことあるの?」
「いません」
「好きになった人とかは?」
「あの方が初めてです」
薫子は真っ直ぐに宇佐見を見つめた。それを薄茶色の瞳が見つめ返してきた。
「ねえ、ご両親は何をしてらっしゃるの?」
「父が建設会社を経営しています」
「なかなかのお嬢様なのかな」
「でも、この春から自立を目指して一人暮らしを始めたんです。武蔵小杉です」
「それはそれで良い場所じゃないの。なるほど、ちょっとだけ俗世間に疎いのね」
宇佐見は何かに納得しながら紅茶のおかわりを注いだ。
「これは、ヒロミにも言い分はあるかもなあ。とはいえ女の子を泣かすとは許せん」
「宇佐見さん、あの人は」
薫子が身を乗り出すと、つまらなそうに男が答えた。
「あの小さいのは藤石宏海っていう司法書士だよ。横浜で事務所を開いているよ」
「確かにレストランでも司法書士とおっしゃっていました。ご立派なお仕事されているんですね」
同い年だというのに自分とはまるで違う。しっかり自立をして社会のために働いている。
「あの、ところで宇佐見さんとはどういうご関係なんです?」
「どうだろうね。どうも大学の先輩だった気がするけど、何か教わったとか感銘を受けたとか、ありがたい記憶はないねえ。今は、オレが手を出すまでもない面倒な案件を回して、適当に業務提携しているだけかな」
「あの人の好きなものって何ですか?」
「お待ちよ、薫子ちゃん」
宇佐見が笑い出した。
「なるほどなるほど、諦めてないってわけね。運命は偉大だなあ」
確かに、あれだけハッキリと拒絶されたにも関わらず、薫子の心は藤石に完全に支配されていた。
もう一度、会いたい。会って、謝らなくては。
「順番を守らなかった私が悪いんですよね」
「そうだねえ。まあ、アイツも気にしてないと思うけど」
「本当ですか?」
「背は小さいけど大人だからね。少なくとも怒っちゃいないだろう」
よかった、薫子は胸に手をあててつぶやいた。
「それでも恋人にするには難ありだよアイツは。泣かされた女の子は数百人に上るという噂もある。さすがのオレも慰めきれない数だね」
「やっぱり、心を奪われる女性が大勢いるんですね」
宇佐見は、違う違うと笑いながら自分のカップに口をつけた。
雨の音が弱まってきたようだ。
「ところで、薫子ちゃんはお仕事は何をしてるの?」
「明日から見つけるんです」
「え?だって一人暮らししてるんでしょ?」
「しばらくは実家から援助が出るんです。でも、それに甘えちゃいけないって思うから」
へえ、と宇佐美は感嘆の声を上げた。
「何というか、筋金入りのお嬢様なんだな。面白い。気に入った!」
「ありがとうございます」
「ねえねえ、ウチで働いてみない?アルバイトでも良いよ」
「え?」
「きっと、その様子じゃ薫子ちゃんは仕事自体したことないでしょ?パソコン使える?どこの会社も即戦力を必要としているし、その年齢だと未経験就職は難しいと思うなあ。だからさ、しばらくここで修行しなよ」
薫子は応接を見渡し、宇佐見の顔を見つめた。
「あの、ここって何ですか?」
「法律事務所だよ。オレ弁護士」
「そうだったんですか?」
信じられないが、本当なのだろう。
弁護士と司法書士。
「お仕事を提携しているっておっしゃいましたよね?それならまた藤石さんに」
「あらら?やっぱりそっちに関心が向いてしまうのね」
宇佐見についていれば、藤石とまた会えるかもしれない。薫子は、宇佐見の誘いを受けることに決めたのだった。
***
窓を拭きながら、薫子は昨日の出来事を思い出しては深い深いため息をつく。
午前九時半。初夏の日差しが差し込む部屋には、薫子が生けた花の香りが漂っている。
事務所のドアが開いた。
「おっはよ。うん、良い香りだね。バラの花かな」
「おはようございます」
「さっそくお仕事してくれているのね。偉い偉い」
宇佐見はイスに鞄を置くと、薫子を手招きした。
「ハイ、これあげる」
差し出されたのは、何かのチケットだった。
受け取って見てみると、そこには『オルドビシャン・ピリオド渋谷店オープン記念会員様特別優待券』と書かれていた。
「オ、オルド?」
「オルドビシャン・ピリオドっていう最近できたカフェなんだけど、知らない?オレの行きつけでね、そこで働くお尻の可愛い女の子にもらったチケットだよ。昼間はカフェ、夜はバーに変わるお洒落なお店なんだ。会員になるとダーツやビリヤードもできて、割引もあるよ。このチケットを使ってお友達紹介するとオレにもポイントがつくから一石二鳥。ただ、期限は今週の金曜までだけど」
ありがたく思いながらも、薫子は迷った。残念ながら薫子は飲酒をしない。ダーツもビリヤードも経験がない。何より渋谷の街は少し怖い。
「せっかくですけど」
宇佐見に返そうと思ったが、ある思いが頭をよぎった。
――おしゃれな、お店。
「い、いえ。あのお願いがあるんです」
「ん?なになに」
「ふ、藤石さんの事務所の住所を教えて下さいっ」
すごいねぇと宇佐見は笑い出した。
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