六月二日(月)昼過ぎ 堀河銀行前
雨が降り出した。
今朝の『東京は晴れ』という天気予報を信じた街中の人々が道を駆け抜けていく。
薫子は堀河銀行の前に佇んでいたが、強まる雨脚に三軒隣のコンビニで傘を買うことにした。銀行の中に避難すれば良いのだが、さっきからすでに五回は出入りしている。これ以上、用も無く中に入ることは躊躇われた。今もクレジットカードの営業に声をかけられて逃げてきたのだ。
あれから一時間半、もう昼過ぎだ。電車で乗り合わせてから今のこの瞬間まで、薫子の頭の中は完全にあの男に支配されているが、徐々に、不安も膨らみつつあった。
銀行で何をしているのだろう。
もしかして、気づかないうちに裏口から抜けて、とっくに立ち去った後だとしたら――。
透明のビニール傘をさして道を戻る途中、タクシーが薫子の横を追い抜き、ゆっくりと銀行の前で止まった。
そのタイミングに合わせて待ち焦がれた人影が躍り出た。
薫子の身体中に電流が走る。
「ま、ま、待ってくださぁい!」
薫子は水溜りを跳ね上げながら、タクシーに向かって一直線に駆けて行く。
「お願い、待ってっ!」
その悲痛な声が届いたのか、乗り込もうとしていた男が動きを止めてこちらを見た。
眠そうな目が、フレーム越しに薫子の姿を映し出していく。
息ができない。声が出ない。
「あ、う」
やだ、どうしよう。どうしよう。どうしよう、声が出ない。
私を見つめている――。
「ああ、急いでるんですか?良いですよ」
男はそう言うと、薫子の横をすり抜け、そのままコンビニの方へ走って行った。
「えっ」
ちょうどコンビニの前にもタクシーが横付けされ、男がそれに乗り込むのが見えた。
嘘、うそ。
待って――。
運転手が薫子に声をかけた。
「お嬢さん、乗るの?乗らな」
「あのタクシーを追いかけて!」
「は?」
「後ろのタクシーです!あぁ、もう違います!今、横を追い抜いて行ったタクシーですっ。お願い、あの人を追いかけて!早くっ」
取り乱す薫子に唖然としつつも、運転手は後方目視をしてゆっくりと発車させた。
バッグを抱きしめて、薫子は破裂しそうな心臓の鼓動をおさえつける。
声をかけてくれた、それだけで満足かと思ったのに、実際はどうだ。心は高鳴り、こんなにもあの人を求めている。
今日は人生最良の日だ。あんなに素敵な男性とめぐり合えたのだ。顔立ちも、身長も、服装も、髪型も全部愛おしい。これは、運命だ。偶然出会えたことも、再び見つけることができたのも。
けれど――。
「どうすれば良いのかしら」
「まったくねえ、こんな雨になるなんて聞いてないよね」
運転手が外を眺めて言った。外は完全に大雨だ。ワイパーの速度が上がると、クリアになった視界に二つ前を行くタクシーが見えた。薫子は見失わないように、前のめりになって濡れたフロントガラスを見つめる。何度か交差点を曲がっていくと、次第に車の量も減り、渋滞も解消されていった。そして、しばらく道なりに進むと、男を乗せたタクシーは小さなビルの前に止まった。運悪く直前の信号につかまった薫子は、やきもきしながらも雨が伝う窓から外の様子を見る。
意中の人物はタクシーから降りると、そのままビルの中へ入って行った。
「ここで良いですっ。すみません、降ろしてくださいっ」
薫子は震える手で精算を済ませると、車を飛び出した。急いで男の後を追う。奥のエレベーターがちょうど閉まるのが見えた。慌てて駆け寄り、それが四階で止まったことを確認する。薫子は緊張しながら再び一階に戻ってきたエレベーターに乗り込み、慎重に四の番号ボタンを押した。密室空間の中で、薫子は濡れた前髪と呼吸を整える。四階のフロアに着くと、すぐ目の前にドアが現れた。
そこには、『宇佐見法律事務所』と書かれていた。
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