六月二日(月)正午 東急東横線

 渋谷に向かう急行電車に揺られながら、沼目沙希は昨日のことを思い出していた。


 ***

 六月一日、沙希はひそかに自身の二十歳の誕生日を祝った。


 人生ではかなり重要視される節目のはずが、一人リビングで過ごしているのは何とも切ない。もちろん、祝ってくれる人間が誰もいないわけではなく、それぞれ事情があることも承知しているのだが。


 沙希の家は母子家庭だった。五年前、父親が飲酒運転の車にはねられて死んでしまい、一瞬で大黒柱を失った。母親も共働きだったことと、父親が残してくれていた保険金や奨学金のおかげで沙希も短大に通うことが出来た。女も四年制大学に通う時代とはいえ、沙希は少しでも早く社会に出て母親を楽にさせたいと考えている。幸いにも通っている短大は就職率も良く、この不景気にも関わらず沙希は一社から内定をもらった。


 就職活動も一段落した。あとは卒業するまでしっかりと単位を取って――。


「卒業旅行、か」

 沙希はテレビに映し出されたスペインの町並みをボンヤリ眺めた。貯め続けたバイト代は友達との旅行に使おうと考えていたが、それが正しい使い道なのかわからなくなってきた。自分が短大に行けたのは、必死に働く母親と奨学金のおかげではないか。それに報いるのが先だろう。もちろん、報いるには全然足りないのだけれど。


 沙希が自室に戻ろうとした時、玄関のチャイムが鳴った。

 

 インターホンの画面に映し出されたのは、夕焼けを背にした真っ黒な影だった。長い前髪に黒いジャケット。頬のあたりは青白くやつれているように見える。


 ――怪しすぎる。


 もう一度、チャイムが家中に鳴り渡った時、仕方なくモニター越しの男と会話をした。


「はい」

「土地家屋調査士の白井と申します。ご依頼の測量と表題登記の件で参りました」

 何だか長たらしい自己紹介と用向きを言われた。ご依頼の、と言っていたが母親がこの男を呼びつけたのだろうか。

「あの、母は外出中なのですが。まだ帰ってきていません」

「そうなんですか」

 少し困惑した様子がモニターに映し出されたが、次の瞬間、白井と名乗った男が後ろを振り返った。その直後、

「すみませんっ」

 外から母親のやたら大きな声がした。

「電車が遅れちゃっていて。ずっと待っていらしたんですか?」

「いえ、今来たところです」

 母親がバッグから鍵を取り出す様子がモニターに映った。どうやら本当に母親はこの男に用事があるようだ。にわかに沙希は自分の格好が来客を迎えるのにふさわしくないものと気づき、すぐ横にある父親の書斎に慌てて逃げ込んだ。

「やだ、沙希ったら家にいるじゃない。どうして出てくれなかったのかしら」

 母親が娘を非難する声がしたが、それに対して白井は何も言わなかった。

「こらぁ、沙希っ?」

 二階に向かって叫ぶ母親の声に申し訳なくなった。まさか一階の父の書斎に隠れているなんて思わないだろう。

「先生、どうぞお上がりください。お茶をいれますから」

「お構いなく。すぐに帰りますので」

 白井の声は、よく聞けば低く穏やかで心に染み渡る優しさがあった。どうしてあんな誤解されそうな格好をしているのだ。その当人はリビングに上がるつもりはないらしく、その場からガサガサと紙がこすれる音が聞こえてきた。

「ご依頼いただいておりました測量が済みました。このまま土地の地積更正――広さを修正する手続きと新しく出来た車庫部分に関する登記申請を進めていく予定です。つきましてはこちらにご署名とご印鑑をいただければと」

 白井がそう言った。


 そうだ。

 以前から話には上っていたが、母親はこの家を売り払って駅近のマンションに引っ越したいと言っていた。沙希が就職や結婚を機に家を出ていくとなると、この広い家に母一人が残される。それはあまりに寂しいと何度も聞いてきた。父が残した家を手放そうとする母に対して沙希も初めこそ反対していたが、まだ四十過ぎの若い母にも長い人生が残されているのだからと結局は了承した。


 書斎の外では母親がスリッパを引きずる音がする。その署名捺印とやらをするために、リビングに向かったのだろう。

「お待たせしました、先生」

 程なく母は戻り、また紙が擦れるような音がした。

「はい、こちらで結構です。ありがとうございます」

「先生、今さらで申し訳ないんですけど、登記とか登記簿とかよくわかりません。結局、表題登記というのは、どういうものなのでしょう」


 しばらく間を置いて、白井が切り出した。


「登記簿というのは、日本中の不動産の情報が書かれた台帳とでも思ってください。国の機関、法務局にあります。今はコンピューターでデータ管理されていますが、登記簿は個人情報ではないので謄本……写しを請求すれば誰でも見ることができます」

「なるほど、台帳ですか。それには何が書かれているんです?」

「はあ。例えばこちらの家ですが、どこにありますか」

「え、横浜市です」

「何階建てですか」

「二階建てです」

「鉄筋コンクリートで出来てます?」

「まさか、木造ですよ」

「お店屋さんでしょうかね」

「ご覧の通り……普通の家です。住んでるだけの……」

「今、質問したようなことが書かれています。表題登記は、不動産の広さとか種類などの外観を登記簿に反映させる手続きだと思ってください。沼目さんがもしも地下室を作ったら『地下室を作りました』という旨の手続きをします」

 母も何とか話についていっているようだ。時折、相槌が聞こえる。

「先生、家を売るのに、その広さや構造が登記簿と一致しているか確認することが大事だと、知り合いに聞きましたけど、やはりそういうものなのですか」

「そうですね。登記簿というものは、国が管理しているくらいですから、もっとも信頼される情報ではあります。それをもとに契約書を作ったりしますので……ただ、登記簿は登記申請をしないと変更が加えられません。実際、沼目さんのお宅は新しく作った車庫の部分が登記簿に載っていなかったので、今回はその追加手続きをします。他の例としては、登記簿では畑なのに、実際の現場は駐車場になっていたりなど、資産価値にも影響するので、後々のトラブルを避けるためにも、しっかりやっておいた方が良いのです」


 何だかややこしい。沙希はそっと座り込み、耳を注意深く傾けた。


「それと、この家を売る手続きを、決済……というんでしたっけ。それにも先生がいらっしゃるんですか」

「いえ、売買に伴う決済の立会いと、所有権の移転の登記は、司法書士の仕事です」

「何がどう違うのかわかりません」

「はあ。例えばこちらの家ですが、誰のものでしょうか」

「私です、けど」

「この土地と建物を担保に、銀行からお金を借りていますか?」

「いいえ。夫はすべて返済しました」

「ご主人……のものだったんですね」

「はい。私が相続しましたから」

「司法書士は、そういった不動産にまつわる内情を扱うのが仕事だと思ってください。表題登記に対して、権利登記と専門用語ではいいます。なので決済は、持ち主が変わったりお金が動いたりと内情に関わるものなので、司法書士の仕事です」

 さらに白井は、それぞれ独占業務となっており、司法書士が土地家屋調査士の仕事をすることは法律で禁じられているため、時々タッグを組んで仕事をするとも言った。

「今回の表題登記が完了した後は、私の知り合いの司法書士を紹介することもできます。売却が決定した時に連絡を下されば手配しますので」

「その司法書士の先生はどんな方ですか?白井先生と同じくらいお若いの?」

「そう、ですね。とりあえず、仕事に関しては問題ありませんので」

 白井はどこか含むような言い方をしたが、母親は特に気にせず続けた。

「あの、売却が決まってから白井先生の方の……えっと表題登記?車庫についての手続きもお願いするカタチでも大丈夫ですか?もしも家が売れなかったら、その、下準備もあまり意味がないというか」

「はあ、なるほど。それなら、ひとまず表題登記の手続きは保留にしておきましょう。契約が決まったらすぐに申請できる準備はしておきますので」

「ありがとうございます。ふふ、思えば、先生の事務所を仕事帰りに見つけて、私が急に押しかけたんでしたよね」

「はあ、そうでしたね」

「それなのに丁寧に対応していただき感謝しています」

 玄関から人が動く気配が伝わってきた。どうやら帰るらしい。

「白井先生」

 母親が白井を呼び止めた。

「何でしょうか」

「この家は、高く売れるのでしょうか」


 しばらく沈黙が続いた。

 程なくして、低く静かな声が届いた。


「私からは何とも言えません。築年数が経過していますし、出来るだけ良いお値段で売れるように、仲介業者に頼むしかないでしょう」

「それは不動産屋さんのことですか」

「ええ。ただこのあたりは立地も良いですから、ある程度は期待して大丈夫ではないでしょうか」

 母親と白井の会話はまだ続いていたが、沙希は少しガッカリした。具体的な金額は想像つかないが、家というものは、どんなものでも高く売れると思っていたのだ。


 ――せっかくお父さんが建てたのに。


「それでは失礼します」

 玄関のドアが静かに閉まり、白井が帰っていった。母親が洗面所に行ったことを確認すると、沙希はゆっくりと父の書斎から出て、リビングのソファに座った。テーブルには出しっぱなしの印鑑が転がっている。それを手にとって眺めていると、母親が戻ってきて声を上げた。

「ビックリしたっ!いつからいたのよ」

「今」

 沙希は印鑑をケースに入れてテーブルに置いた。その所作を見て、母親が思い出したように言った。

「お客さんだったのよ。この家を売るための前段階としてね、色々とチェックしてくれる土地家屋調査士の先生が来ていたの」

「うん、聞いてた」

 母親は呆れたような顔をしてため息をついた。

「だったら挨拶しに来たら良いじゃないの。もう二十歳になんだから、そういうところはしっかりしなさいって言ってるでしょう」

「だって怪しい」

 その言葉に母親も吹き出した。

「こら、人を見た目で判断しないの。お母さんも最初は驚いたけど、すごく丁寧で親切な方よ」

「それより、家を売ったお金でマンション買うんだよね?足りるの?」

 沙希は思いのほか自分の声に棘があることに驚いた。慌てて言葉を足す。

「ごめん。何となく、お母さんが無理している気がしたんだ。もしかしたら、CMでやってるような湾岸エリアのセレブなマンションが欲しいとか考えてるのかなって」

 すると、母親は沙希の隣に腰をかけて小さく頭を小突いてきた。

「あんたが心配することじゃないの。大丈夫、自分の身の丈くらいわきまえているわ」

「ねえ、本当はお金に困っているとかじゃないよね?」

「平気平気。お父さんのローンは全部支払い終わっているから」

「私も一緒に新しいマンション探すよ。見に行くときは声かけてね」

「本当に心配性なんだから。大丈夫よ」

 母親はそこで話を打ち切ると、思い出したように時計を見つめた。

「ごめんね、沙希。せっかくの二十歳の誕生日、お祖母ちゃんも一緒にお誕生会したかったけど、お祖母ちゃんの大切な人が急に亡くなって、今日はお通夜に行かなきゃいけないらしいの」

「その話なら聞いたよ。今朝、お祖母ちゃんから電話もらった」

「今日はどうしようか。何か食べに行く?」

「気にしなくていいよ。三人が揃った時にしようよ」

 沙希のそれは本心だった。誕生日の当日であるかなど問題ではない。家族との時間が何より大切なのだ。母は沙希の申し出を了解すると、夕飯の準備にとりかかった。


 ***

 昨日、結局それ以上は家の売却について語られることなく、いつもと同じように世間話をしながら母親と夕食を共にした。わだかまりは残っていたが、沙希自身も今は触れてはいけないと感じたのだ。


 ――子ども扱いしたり、大人扱いしたり。都合良いんだから。


 それが愛情なのだと頭では理解してきたつもりだが、頼りにされていないことに寂しさを覚えた。


 二十歳。大人になった私は、母のために何か出来るだろうか。


 急行電車が終点の渋谷に到着した。今日も授業に出て、夕方からはバイトという変わらない日常。見上げた渋谷の空からは小さな雨粒が降り出し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る