六月十日(火)夕刻 ふじいし司法書士事務所

 

 薫子が待つホームに折り返しの急行電車が到着すると、多くの乗客が蜂の子のように溢れ出し、風景が一気に様変わりする。一つの方向に向かう人々は、ただ忙しない。地鳴りのようなものは足音だろうか。母親に引っ張り上げられるように、小さい女の子が懸命に歩いているのが見えた。

 

 宇佐見の事務所で働きだしてから、薫子は社会と繋がれた。まず、何より大事なのは周囲と合わせることなのだと学んだ。エスカレータは左に立つ。電車から降りる人のために、ドア付近の乗客は一度外に出る。コンビニのレジは一列に並んで開いたカウンターから順々に精算を済ます――。きっと、今まで自分が気づかないところで失敗を繰り返し、周囲に迷惑をかけてきたのだろう。小さい子供なら親が注意してくれる。でも、ただ小さいだけの薫子には誰も何も言わない。何も言わず、心の中で舌打ちをしているのだ。


 けれども、あの藤石は面と向かって薫子を非難する。舌打ちもする。嫌われているはずなのに、会ってくれるという。


 ――実際、どう思われているのだろう。


 今までは自分の気持ちのみをぶつけてしまった。順番が大事だと教わったから、仲良くなるところから始めようと思ったのに、それも上手くいかなかった。藤石からハッキリ迷惑だと言われなければ、昨日の自分の行動が愚かだと気づけなかっただろう。薫子は、初めて藤石の真意が知りたくなった。


 次第に傾く太陽が車内にオレンジの光を差し込んできた。薫子の小さい影が細く長く、隣に座っている老人の影と重なってゆく。


 この影が、藤石のものになる時があるのだろうか。


 暗闇が一瞬で薫子の影を消し去る。横浜駅の地下ホームに到着したようだ。

 駅前を抜けて、まだ明るい東口の通りを歩いていく。今日に限ってドーナツ屋のワゴンが見当たらないことも、薫子を不安にさせた。事務所に直行する前に、下のコンビニに向かう。店内に藤石の姿がないことに思わず安堵した。時計を確認し、来訪時間になるまでの残り一分で心の準備をした。


 その時、薫子のスマートホンが鳴った。相手は倉本からだった。こんな時にタイミングが悪すぎる。確かに伯父の相続の件について、返信が遅れてしまったのは薫子に非があるので、ないがしろにはできない。けれども、話自体は宇佐見がいなくてはどうしようもない。しかも、今は藤石との約束がある。

 そうこうしている内に電話が鳴り止んだ。いや、充電が切れてしまったようだ。倉本にはあとで謝ることにして、薫子は藤石の事務所に急いだ。


 チャイムを押すと、ゆっくりとドアが開き、眠そうな目をした司法書士が顔を出した。

「いらっしゃい」

 藤石はいつもと変わらない声色でそう言った。いや、そのように振舞っているだけかもしれない。それに、ひどく疲れた表情をしていた。きっと、その一因は薫子にもある。

「あの、本当に申し訳ありませんでした。お身体の具合が悪いのに騒ぎ立てして、私」

「そのことはもういいよ。体調も良くなってきたし」

 どうぞ、藤石は薫子を中に入れた。考えてみれば事務所の中に入るのは初めてだった。

 広々としたカウンターフロアの横にある小さな応接室に通された。その隣の部屋はデスクとパソコン、本棚が見える。

 藤石はキッチンから緑茶を持って来ると、薫子の向かいに座った。

「あの、お忙しかったですか」

「今日はね。でも、明日からしばらくは落ち着くかな」

 薫子は湯飲みに目を落とした。藤石の顔が正面から見ることができない。


 深いため息が聞こえた。


「目が真っ赤。泣き過ぎだろ」

 咄嗟に顔を上げると、茶をすする藤石と目が合った。

「あの、ごめんなさい」

「何が?」

「いえ」

 謝れば良いというわけではないはずだ。何度も謝罪すると、かえって相手が負担に感じるかもしれない。それに、藤石は昨日のことはもう許してくれたと言っていた。これからは自分の行動で反省の色を示せば良いのだ。

「藤石、さん」

「はい」

 薫子は背筋を伸ばした。

「私、会社の設立を考えています。それで、色々とお話を聞きたくて今日は来たんです」

 藤石は片方の眉を釣り上げた。

「へえ、それは急だな」

 口元に笑みが浮かんだ。

 薫子がそれに気づくや、

「また宇佐見に何か言われたの?」

 そう返された。

 藤石は眠そうな目で天井を見つめると、ゆっくりとソファにもたれかかった。

「ウサは面白がっているだけだよ?真に受けると痛い目に遭うぞ?」

「う、宇佐見さんは優しい方です。確かに、藤石さんがおっしゃるとおり会社の登記のことは宇佐見さんから聞きました。でも、私が本気にしたら、冗談だよって止めてくれました。会社経営なんて無理だって。だから、今私がこうして藤石さんにお願いしているのは私の意志なんです」

 藤石が体勢を戻して、テーブルの上で手を組むと薫子を見据えた。

「なるほど。それでは何の会社を作ろうとなさっているんですか?」

「え?」

「どういう事業を始めようとしているのか。プランがないのに会社など作れませんよ?」

 それはそうだ。説明を聞きに来たと言っても、具体的な例を示さなくては藤石とて答えの出しようがない。薫子は商業登記をお願いすることだけに執着して、その過程を考えることをすっかり置き去りにしていた。

 藤石が呆れた顔をしてみせた。

 何でも良いから話を進めなくては。

「父と」

「はい?」

「父と同じような、建設関係の会社を作りたいんです」

 美麗な男が大きく口を開けた。

「嘘でしょ?」

「う、嘘じゃありませんっ」

「例えば、子会社を作るとか、そういうこと?」

「え、えっと、あの、はいっ。そうです」

「それは、お父さんに言われた?会社の経営を助けるためだとか」

 藤石の声がしだいに真剣味を帯びてきた。父に言われたわけではないが、そう答えた方が良いのだろうか。

「あの、父は関係あるのですか」

「関係あるかどうかは俺が決めることじゃないけど、建設業をやりたいなら、無理に会社を作らなくても、あなたが跡目を継げば良いんじゃないのか?一人娘でしょう?」

 後を継げば建設会社の社長にそのまま就任できると言っているのだろうか。


 でも、それだと――。


「会社を作らないと藤石さんのお仕事にならないんじゃないですか?」

「俺の仕事?」

 薫子は思わず口を覆ってしまった。藤石は一瞬だけ目を見開いたが、次第にいつもの眠そうな顔に戻った。

 何度か小さくうなずくと、静かにこう言った。


「薫子さん」


 その響きに身体中の血が沸騰したようになる。

 今、名前を――。


「何で俺なの?」

「え?」

「その好きだという気持ちとか自信は、どこから湧いてくるの?」

 藤石は頬杖をついて、薫子を見つめてくる。その眼差しに息が苦しくなってきた。

「俺さ、何度も泣かしてるよ?酷いことも言ったぞ?正直、恋愛も結婚も関心がない。そう言ってるのに、どうして諦めない?」

「諦めるって……」

「もう三十二でしょ?こんなところで足踏みするより、他の男を見つけた方が良いと思うのは、余計なお世話だろうかね」


 足踏み――。


「そうしてでも、私は藤石さんに想いを届けたいんですっ」

「届いてはいる、けど?」

「いつか、あなたに似合う女性になって、あなたのそばにいたいんです。将来は二人で幸せに笑って暮らしたい、それだけなんです。結婚に関心がないなら、関心を持たれるまで私も待ちますっ」

 しばらくの沈黙の後、藤石が大きく息を吐いた。そして、オレンジ色の眼鏡を外して薫子を正面から見つめた。

「結婚は、究極的には別れる覚悟をすることだよ」

「え?」

「離婚や別居だけじゃない。死別もそうだ。どんな形であれ、愛した相手を失う覚悟をしなくてはいけない。もちろん、大半の人間はそんなこと考えてはいないだろうけど、俺にとってはそれくらい難易度が高い問題なんだよ。前にも言ったでしょう?互いの人生を背負うというのは、そういうことでもあるんだ」

 薫子はうつむいた。藤石の口から出た言葉があまりにも重たかった。


 結婚の先にあるのは、別れだなんて――。


「わ、私はあなたを好きになった時から、あなたを失う覚悟もしています!」

 また涙がこぼれそうになる。

「嫌われたくないんです!いつだってとても怖いんですっ!でも、それでも……あなたが好きで……今も、すごく幸せで……。ずっと、一緒にいたいんです……」

 薫子はバッグからハンカチを取り出して顔を覆った。もう泣いているところを見せたくない。迷惑をかけたくない。ため息をつかれたくない。


 ちょうどその時、隣室の電話が鳴った。


 藤石はゆっくり立ち上がると、薫子の頭を優しく触れた。驚いて顔を上げたが、すでに藤石の姿はなく、隣から電話のやり取りが聞こえてきた。

 薫子はそっと頭に触れると、顔から汗が噴出した。


 信じられない――。


「何だ、ウサかよ。お前、今度覚えておけよ。え?ああ、はいはい」

 藤石が戻ってきたらどんな顔をすれば良いのだろう。そんなことばかり考えていると、眠そうな顔が応接のドアからのぞいた。

「萩野谷さん」

「は、はははいっ」

「あなた、携帯の電源落ちてるの?」

 慌てて、携帯電話を取り出す。そういえば、ここに来る前に充電が切れてしまった。倉本の電話にも出られなかったのだ。

 藤石が電話の子機を差し出した。

「電話ですよ。どこかの害獣弁護士から」

 受話器から妙に真剣な宇佐見の声で、とにかく家に電話をするように言われた。どうやら倉本が宇佐見の事務所にまで連絡を入れたらしい。薫子は藤石に頼んでそのまま電話を使わせてもらった。

 一体、何をそんなに慌てているのだろう。

「もしもし?」 

 すると、お嬢様っと悲鳴に近い倉本の声が聞こえた。


 その後に続く単語の応酬に、薫子の思考がしだいについていけなくなった。

 

 言っているのだろう。


 あなたは遺言とか相続とかの話がしたかったはずでしょう?


「どうかした?」

 床に座り込んだ薫子に藤石が声をかけた。


 その膝にすがりつきながら、薫子は大粒の涙を流した。


「父が、倒れました」

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