六月十一日(水)夕方 白井土地家屋調査士事務所

 白井麻人の事務所は、世田谷の小さなビルの二階にある。決して広い事務所ではないが、一人で仕事をするには充分だった。

 何だかんだ五月は忙しかった。六月は毎年案件が落ち込んでくるが、今年はこの調子だと忙しくなるのだろうか。今日は溜まった事務作業に追われ、疲れが残りそうだったのでないので早々に帰宅することにした。ちっとも花を咲かせないサボテンに水をやり終えると、白井はパソコンの電源を落とした。


 フロアの電気を消したところでチャイムが鳴った。


 事務所の時計を確認すると、夕方五時半ちょうど。宅配も郵便配達もすでに来ているので、白井は首をかしげつつドアを開けた。

「こんばんは」

「……沼目さん?」

 そこに立っていたのは表題登記の依頼主、沙希の母親だった。

「すみません、先生。突然お邪魔してしまって」

 しかし、母親は事務所の中を確認すると、さらに恐縮して頭を下げた。

「もうお帰りになるところだったんですね。ごめんなさい、出直します」

「あ、いや。平気です」

 白井は再び電気をつけて、沙希の母親を中に招いた。

 茶の用意をしようとすると、

「すぐ帰りますから、本当にお構いなく」

 必死に遠慮されてしまったので、白井もそのまま席についた。

「先生に今日はお詫びを言いに来ました」

 突然、そう切り出された。

「はあ」

「自宅の売却が決まりました。週明けに契約です。ただ……先生にお願いしていた件を今からキャンセルできませんか?」

 白井は母親を見つめた。

「キャンセル、ですか」

「本当にすみません」

 語尾が小さくなるにつれ、母親の身体も小さくなっていくようだった。何度も頭を下げる目の前の女性に、白井はどう言ったら良いものか迷った。確かに案件が消えてしまうのは痛いのだが、そこまで謝罪されるほどでもない。事情が変わったのなら仕方ないし、実際まだ登記申請はしていないのだ。

「はあ、そういうことなら仕方ないですね……。確かに買主側の指定で士業も選ばれることありますし」

「あの、申し上げにくいのですが、自分でやってみようかと」

「え?」

 自分でも声が上ずったのがわかった。

「あの、登記申請をですか?」

「はい……知人にそのあたりに詳しい者がおりまして。少し勉強をしているようなのですが、本来、登記申請は当事者が自分で行なうものだと言っておりまして」

「はあ、確かに我々はあくまで代理人として仕事をするので、その考えは間違ってはいませんけど、沼目さんがおっしゃる知人の方は、登記関係の事務所で働いているのですか?それとも、不動産屋でしょうか」

「不動産のコンサルティングをしている人です。仕事先で知り合ったのですが」


 母親は白井にその知人とやらの名刺を差し出した。


 ――HRKリアルエステート 平岡正樹。


「確かに、不動産関係の人の中には登記に詳しい方もいるでしょう。こちらの方に実績があるならお任せしても大丈夫だと思いますけど」

 ここは当人のやりたいようにすれば良いと白井は判断した。測量だけは終わっているので、その分の費用請求は可能だし、下手に関わって先方とトラブルになるのは避けたかった。しかし、白井の仕事がキャンセルになるということは、藤石の仕事も同様だということだ。


 ――フジさん、怒るだろうな。


 母親はそれでも何度か白井に詫びた。だんだん気の毒に思えてきたので、話を切り上げることにした。

「早々に買い手が見つかって良かったですね。金額も納得できたということでしょうから、心配事がなくなったのは良かったです」

 母親が白井の顔を見つめた。

「白井先生は、おいくつなんですか」

 予想外の質問に自分の年齢を忘れかけた。

「はあ。二十九です」

「お若いのね」

「そうでしょうか」

 決してそうは思わないが、目の前の女性にそれを言うのははばかられた。妙に居心地が悪くなる。

「先生、奥様は?」

 立て続けに質問される。

「はあ。独身です」

「そう。昔と違って、今の三十前後の方は自由を謳歌してらっしゃるのね」

 うらやましいわ、そう聞こえた。しかし、その響きは羨望というよりも呆れたものに近かった。


 白井は沙希の母親を見つめた。

 

 他人からは、充実した人生だと映るものが、実際は違うことが多々あるだろう。例えば、目の前の女性は結婚も出産も経験しているが、数年前に夫を亡くしている。売却する予定の家も、元々は夫が建てたものを相続したものだ(登記簿謄本にも相続によって取得したと記載がある)一概に幸せの価値観を押し付けるのは良くない。

 白井の次の言葉は決まっていた。

「若さや自由が幸せに見えるのは、人生の選択肢が多いからでしょう。ただ、それの選び方に僕たちは自信がないんです。結局、選択肢は減る一方。それは、ある意味不幸です」

 母親は目を丸くした。そんなに驚かれるようなことを言っただろうか。しかし、親しくもない相手に主張する言葉ではなかったかもしれない。いずれにせよ、この目の前の女が何を抱えて、何に悩んでいるかなど白井には関係のない話だ。むしろ関わるべきではない。

「今日はお運びいただきありがとうございました。また何か測量や登記のことでお困りでしたらご相談ください。司法書士も弁護士も紹介できますので」

 沙希の母親が困ったように微笑んだ。

「ふふ、ごめんなさい。何だか先生は接しやすいというか、すごく安心してしまって、ついペラペラと余計なことまで話してしまいました。忘れてください」

「はあ」

 接しやすいというのは今までにない高評価だったが、今は複雑である。関わるべきではないとわかっているのに、偶然とはいえ母娘とも顔見知りになった手前、頼られてきたら無視するわけにもいかない。

 そんな思い悩む白井に、沙希の母親は、突然、意を決したように口を開いた。

「あの、先生は法律にお詳しいですよね?」

「はあ、モノによると思いますが」

 沙希の母親は、少しだけ辛そうな表情を浮かべた。


「遺言による認知――というのはご存知ですか……?」

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