六月十二日(木)昼過ぎ 水森総合病院

「いやいや、薫子も驚いただろう」

 午後の柔らかな日差しを受けながら、病床の父があくびをする。

 萩野谷薫子は鼻をすすった。

「驚いたなんてものじゃないです。私、心臓が止まるかと思いました」

「心配かけてすまんなあ。でも、もう大丈夫だ。明日には退院できるからな」

「大丈夫ではありませんよ、社長」

 薫子の隣に立っていた倉本が青白い顔で言った。

「前回の尿管結石とはワケが違います。今回は心筋梗塞の一歩手前ですよ。治療が功を奏して何とか一命は取り留めましたが」

 倉本の深いため息は何度目だろう。

 あの日、倉本が藤石の事務所にまで電話をかけてきたのは、父の異変を伝えるためだった。動転した薫子はもはや会話が出来る状態ではなかったため、代わりに藤石が倉本と連絡を取り合い、何とタクシーを呼んで病院まで送ってくれたと聞いた。実は当時のことを薫子自身はほとんど覚えていなかった。それだけショックだったのだ。


 藤石には迷惑をかけてばかりだ。もう、関わらない方が彼のためかもしれない。


「そういえば倉本、例の遺言書の件はどうなった。何かわかったか」

 それを受けて倉本は少し背筋を正した。

「今も確認中でございます」

「急いでくれよ。薫子が世話になっている弁護士に依頼すれば話は早いだろう。あっちの人間がしびれを切らして遺言執行したら、目も当てられない」

 なあ、と父は薫子に微笑んでみせた。

 薫子は倉本に視線を送った。そんな急で大事な話だとは思わなかった。のん気に返信を遅らせたのは他でもない薫子だったが、それならそうと言ってくれれば良かったのに。

「社長、お嬢様もお忙しい身ですから。弁護士も色々な依頼を抱えて面談の予約も取れなかったのです。詳細をお伝えしなかった私のミスです」

 それを聞いて、思わず薫子は下を向いてしまった。倉本はいつだって今みたいに自分を守ってくれた。


 ――子供だ、私は。


「倉本さん、ごめんなさい」

「お嬢様」

「いいの。お父様、倉本さんは悪くないです。私が今回のお話をちゃんと理解できていなかったのがいけないんです。お父様は、その相続財産を手に入れたいのですね」

 薫子は宇佐見が言っていた言葉を必死に思い返しながら、たどたどしく父に伝えた。

「その遺言書がきちんと形式どおりで有効なものであることが前提だそうですが、とにかく内容を見てみないことにはわからないと。ただ、相談はいつでも乗るからって」

 倉本が目を丸くした。

「お嬢様、弁護士に話を通して下さったんですか」

「ええ。ちゃんと倉本さんと打ち合わせすべきでした。私、自分のことでいっぱいになってしまっていて」

 藤石のことばかり考えていたから、こんなことになってしまったのだ。父はその遺産相続のことが気がかりで心労が祟ったに違いない。

 倉本が少し考え込むような顔つきで、父に言った。

「社長、今はご自分の身体を最優先になさってください。会社とその相続については私が責任持って行ないますから」

「そうはいかんよ。もう胸も痛くないんだ。次の商談もあるし、あっちが社長を出して来るのに、こっちが出て行かんでどうするよ。代理が事業部長などでは相手に舐められる」

 倉本は社員の総締めのようなことをしている。現場の業務に関しては父より詳しいという話だが、やはり父にも社長としてのプライドがあるのだろう。

 倉本が厳しい顔つきになった。

「しかし、社長はまだ全快したわけではございません。しばらくは療養していただかないと」

「どうせ老い先短いんだ。会社が持ち直してくれるならこんな心臓の一つや二つ」

 薫子は耳を疑った。父の肩に手を触れる。

「お父様、今何とおっしゃいました?会社が持ち直す?」

 父が苦い顔つきになった。倉本も目を伏せている。

「まさか、萩野谷建設の経営がよろしくないのですか?」

 父は薫子の頬に手をあてて言った。

「薫子、お前は何の心配もいらんよ。法律事務所の仕事を頑張っていれば良い」

「よくありませんっ!」

 薫子は倉本を見上げた。

「倉本さん、まさか、倒産なんて」

「お嬢様、考え過ぎです。社長がおっしゃるように心配なさいませんよう」

 しかし倉本は頭を垂れているだけで、薫子の顔を見ようとはしなかった。まさか、父が遺産相続に固執するのは、その一億で会社を立て直すつもりなのか。

 倉本が小さく息をつくと、薫子に言った。

「本当に、そこまで心配することはないのです。ただ、取引先の倒産が相次いで、その影響が出始めているのは事実です。この不景気、いつどこで何が起きてもおかしくありませんから、我々も備えているところなのですよ」

 倉本の目に偽りは感じられなかった。しかし、会社が順風満帆ではないことに、薫子はショックを隠せなかった。

 口をつぐんだ薫子に代わって、倉本が父に話しかけた。

「社長、朝から見舞い客の相手をしてお疲れでございましょう。今日は私たちもこれで失礼しますので、ゆっくりお休みください。商談まで日数もありますし、それまでに回復なさるでしょう」

 父はまだ何か言いたそうだったが、実際に少し疲れているようだ。眠ると言って布団に潜ってしまった。倉本は薫子を促し、病室を出た。


 外の駐車場まで来ると、父の優秀な部下は会社に電話を入れ、何やら指示をしている。

 薫子は父が倒れてから宇佐見の事務所には顔を出していない。あの優しい弁護士は父が落ち着くまで休んで良いと言ってくれた。今の自分はこんなにも周りから支えられている。それなのに、自分は何と無力なのだ。

「お嬢様、お願いがあるのですが」

 倉本が薫子のために車のドアを開けながら言った。

「お願いって?」

「宇佐見先生は、今日はいらっしゃるのでしょうか。やはりお忙しいですか?」

 咄嗟に薫子はスマートホンを取り出して宇佐見の事務所に電話をした。

 倉本は今から面談にいくつもりだ。ここは自分も力にならなくてはいけない。

 二回コールの後に宇佐見の陽気な声が聞こえてきた。こちらの用向きを伝えると、宇佐見は何やら笑いながら了承してくれた。

「大丈夫みたい。倉本さん、行きましょう」

 病院から事務所がある渋谷まではだいぶ離れていると思ったが、途中の渋滞もなく一時間くらいで到着した。

 事務所のドアを開けると、先に来客がいるようで、パーテーションから人の気配がした。すぐさま宇佐見がそこから顔を出した。

「やっほい、久しぶり。パパさんは大丈夫だった?」

 現れた長身の男に倉本は言葉を失いつつも、急いで名刺を差し出した。

「萩野谷建設株式会社の倉本と申します。今日はお忙しいところ申し訳ありません」

「今日はヒマだから平気よ。オレは宇佐見っていいまーす」

 そう言うと名刺を出して頭を下げた。対外的な場面の宇佐見を初めて見た。やはり仕事をする時は少し凛々しく思える。

「こちらへどうぞ」

 宇佐見が応接スペースに通した。

「え、でもお客様が」

 薫子がパーテーションを覗き込むと、眠そうな目がこちらを向いた。


 大きく胸が跳ね上がる。


「ふ」

「どうも」


 藤石はソファにもたれかかったまま、頭を下げた。宇佐見が紅茶セットを持ってくると、ニヤニヤ笑いながら薫子を見た。

「どう薫子ちゃん。嬉しい?」

「あの、宇佐見さん、いえ藤石さん、どうしてここに?」

 二人が腰をかけると、藤石がそばに置いてある封筒に目をやった。

「今日は破産の絡みで仕事を受注してね。その書類を取りに来ただけ」

 そのまま宇佐見を睨みつけた。

「本当は明日取りに来る予定だったんだが、このペテン弁護士が今日じゃなきゃ無理と言うからね」

「まあまあ、チビ書士もどうせ今月はヒマでしょう?みんなでお茶タイムしようよ」

 宇佐見は嬉しそうに倉本に紅茶を差し出した。

「あの、こちらは……」

 倉本が藤石の方を見ながら切り出すと、にわかに宇佐見が真剣な眼差しで答えた。

「ご紹介します。この小男は薫子さんを毒牙に」

「司法書士の藤石と申します。横浜で開業しております。薫子さんとは何の問題もありません」

 宇佐見に肘鉄を入れ、藤石が倉本に名刺を渡した。

 倉本は少し動揺しながらも、宇佐見に向き直った。

「あの、宇佐見先生……聞いているかもしれませんが」

「遺言執行の件でしょ?うんうん」

 藤石がテーブルに広げられた書類をまとめて鞄にしまった。

「何だ、ちゃんとしたクライアントなのか。じゃあ、俺は帰るぞ」

 立ち上がった藤石に、思わず薫子は声をかけた。

「藤石さん、あの、あの」

「お父さんの容体が安定したなら良かったです。あまり心配かけないように」

「その節は本当にありがとうございました。でも、帰ってしまうんですか?藤石さんのご意見も聞かせていただきたいんです」

「いやいや、下手に大人数で引っかき回すと遺産分割がまとまりませんよ。不動産登記の手続きが必要になったら連絡ください」

 その時、宇佐見が長い足を大きく回転させ、藤石に足払いをかけた。

 派手に床に転んだ藤石が憎々しい声を出す。

「……何をしやがる、このヘボ弁護士」

「アサトがね、時々こちらの会社の仕事をしているらしいよ。昨日、電話で話してたら、応接室を間違えられて大変だったとか何とか言ってたから」

 すると、倉本が驚きつつも安堵したような顔をした。

「宇佐見先生、まさか白井先生ともお知り合いなんですか?先日はうちの新人が白井先生に失礼したようでして。けど、あの方は本当に懇切丁寧で、社内でも人気なんです。いや、今度、弊社の分譲地の登記もお願いしようと思っていたんですよ」

 そこへ再び藤石はソファに戻ると、姿勢を正して倉本に向き直った。

「さ、お話しを伺いましょう。こう見えて、遺産相続と分譲戸建の登記は大得意でして」

 藤石の横で、こっそり宇佐見がVサインをしてみせた。倉本は、宇佐見と藤石を交互に見つめながら、たどたどしく切り出した。

「実は……先日、萩野谷の血の繋がらない兄、博康が他界しました。博康翁は結婚をしておらず、子供もいませんでした」

「ふむ」

「しかし、遺言を書き残していました。公正証書遺言とかいうものです」

「ほう。役人のお墨付きなら、遺言としては有効でしょうね」

「そこに、ある男性を自分の子供だと認知する、という一文が書いてありました。さらに遺言執行者とかいうのを、その子供の母親に指定しました」

 藤石は手帳を取り出すと勢いよく線を引き始めた。


 ――家系図だ。


「それで続きはどうなりました?」

 書きながら藤石が言った。

「は、はい。ところが、認知された子供は五年前にすでに他界していました。こんな時はどうなってしまうのでしょうか」

 藤石は手帳を倉本に見せてきた。

「亡くなっていたお子さん、認知された人ですけど、その方にはお子さんはいるんでしょうかね」

「はい、いると聞きました。その遺言執行者の孫娘にあたるらしいですけど」

「なるほど。それなら、相続の権利はそのお孫さんにいきます」

 倉本は手帳を恐る恐る指差した。

「あの、こちら血の繋がらない兄妹たちはどうなりますか」

「無関係です。相続の権利はありません」

「む、む無関係?」

 思わず声を裏返した倉本は、慌てて咳払いをすると藤石に詰め寄った。

「無関係というのは、血が繋がっていないからですかね」

「いや、基本的に相続の権利は上から下に落ちていくものです。もし子供がいないなら親に権利が渡ります。親がいないときは兄弟姉妹にいきます。ここで初めて権利を得るんですよ。ただ、今回は遺言で認知された男性にお子さんがいるため、この人が単独の相続人です」

 ボールペンが家系図をたどり、孫娘のところに丸をつける。藤石はその一ページを破ると、倉本に手渡した。

 薫子の視線が眠そうな目とぶつかった。そのまま藤石は宇佐見を横目で見る。それを受けて宇佐見は薫子の顔をのぞき込んだ。

「ごめんね薫子ちゃん。オレがもっと真剣に話を聞いてあげれば良かったね。何だか揉めそうな展開だよ」

「そうなんですか」

 倉本が何か言いたそうな顔をしたが、宇佐見に委ねるように下を向いた。

 薫子は倉本を見つめた。

「こちらのお孫さんという方は、どちらにお住まいなのかしら」

 慌てて倉本が鞄から白い紙を取り出すと、宇佐見が大きな身体を乗り出した。

「そりゃ何かな」

「先方が持っていた公正証書遺言のコピーです。頼んだらコピーをくれたので」

「へえ。なかなか友好的じゃないか」

 藤石がオレンジの眼鏡を拭きながら言った。

 テーブルに広げられた遺言書のコピーを宇佐見がゆっくり目を通してゆく。すると、いきなり大きな右手で藤石の背中を思いっきり叩いた。

「いってぇ!」

「ヒロミ」

 宇佐見が紙の余白を指差している。それに目を落とした藤石の顔が険しくなった。

 明らかに二人の様子がおかしい。倉本もそれに感づいたようだ。

「あ、あの……」

 いぶかしむ倉本に藤石が鋭い目を向けた。

「倉本さん、この余白のメモはあなたが書きました?」

「え?はい、そうです。遺言執行者の方から何とか聞き出したんです。親切なおばあさんでして」

 薫子には状況が読めない。身を乗り出して、その余白のメモを読んでみた。


 ――沼目和敏 妻と娘あり。


 それだけしか書かれていなかった。

 藤石が自分の手帳を慌てて捲り出した。

「あった」

 徐々に顔が歪んでいく。

「俺、シロップの表題登記の後の権利登記をやらせてもらう約束だったんだ。それが昨日になって突然キャンセルになったとメールが来た。どっかのコンサルタントが自力で登記できるなど吹き込んだらしくて、俺は失敗すれば良いとそいつを呪っていたんだが……その渦中の家がこれと同じ住所の沼目家だ。俺もシロップもそこの娘と顔を合わせている」

 藤石が遺言書を指差した。そこには認知された沼目和敏の住所が記載されている。

「まさか、お知り合いなんですか?」

 倉本がひっくり返った声を出した。

 宇佐見が深いため息をついた。

「萩野谷建設さん」

「は、はい」

「萩野谷博康さんが亡くなったのはいつ?」

「えっと、確か五月の二十九日だった気がします。六月の最初の日に通夜を執り行ったんです」

「沙希ちゃんは六月一日が二十歳の誕生日だったな。ヒロミ、代襲相続だよ」

 宇佐見の表情はあまりにも悲しげだった。藤石は沈痛な面持ちで薫子を見た。


「今回の件、相続人は沼目沙希ただ一人。あなたのライバルですよ」


 ライバル――。

 薫子の脳裏にあの若いショートカットの女性が浮かんだ。


「う、嘘っ!あの人が沼目沙希さんなのですかっ?」

 驚いた倉本が薫子を振り向いた。

「どういうことですかお嬢様っ!その方と面識があるので、す、かッ」

 ゴホゴホと途中でむせ返った倉本は冷め切った紅茶を飲み干した。


 その後、長い沈黙が続いた。


 薫子には母親がいなかったが、父のおかげで何一つ不自由しなかった。けれど父親がいない沙希は、渋谷のカフェでアルバイトをしていると聞いた。それはきっと家計を助けるためなのだろう。

 そもそも、宇佐見と藤石の話の通りなら、伯父の遺産は彼女のものではないか。父や倉本がとやかく言うことでない。


「伯父の遺産は彼女のものです」


 一斉に視線が薫子に注がれた。


「お嬢様。確かに法律ではそうですが、ここは話し合いの場を持って、遺産分割にした方が、関係が良好になるかと思いませんか?一億円というのも、骨董品や有価証券などを含めての額ですから。その、管理とか手続きとか色々」

 藤石も宇佐見も黙り込んでいる。倉本はそんな二人に加勢を求めた。

「先生方も、何とか言って下さい。到底、社長が納得するとは思えません」

 藤石が眠そうな顔で静かに言った。

「倉本さん。遺産分割も何も沼目沙希さんという相続人がいる時点で、萩野谷家は一切の発言権はありません。話し合いをするにしても、遺言執行者が指定されている以上、主導権があるのは沼目の家ですよ」

「薫子ちゃんの家と沙希ちゃんの家……。これは裁判になったら、オレ的に利益相反になるのかなあ」

 宇佐見が倉本に笑って言った。

「というわけで、違う弁護士紹介するね」

「そんなっ!」

「倉本さん」

 薫子は立ち上がった。

「まだ萩野谷建設が倒産すると決まったわけじゃない。そう言ったでしょう?」

「言いました。ですが」

「人のお金を当てにするなんて、どうかしています。まずはそういった体質から変える必要があると思いませんか?私も含め、周りに甘えるからこうなってしまったんです」

 沙希は、薫子が見向きもしてこなかった社会経験をあの若さで積んでいる。それが彼女の自信となって、あんなに輝いているのだ。

「藤石さん」

「はい?」

「私、会社を作るのはやめます。宇佐見さん」

「へ?」

「しばらく休職させてください。倉本さんと一緒に実家の手伝いをすることにします」

 藤石と宇佐見が顔を見合わせ、ゆっくりと薫子を見上げた。


 ――私しかできないことがあるはず。


「父は、私が説得してみせます」

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