六月十二日(木)夜 沼目家
沼目沙希は、吉祥寺からわざわざ誕生祝を持って家にやって来た祖母を迎え入れた。
母も早めに仕事から帰って来るらしい。十一日遅れの誕生会のために。
――大げさなんだよな。
二十歳になった実感などない。大人になったと言われても正直困る。しかし、家族が自分のために色々としてくれることが、恥ずかしいながらも少しだけ嬉しかった。
そのうち、恋人が出来たら自分の誕生日を祝ってくれるのだろうか。彼の車でドライブをして、レストランでディナーをした後、夜景を見ながらお酒を飲んでいると、そっとプレゼントを渡される。
恋人役の顔を藤石に置き換えてみて、一人で赤面した。
――何をバカなことを。
あんなに怒らせてしまったのだ。もう、会えないに決まっている。
「あとは、お寿司をとってあるからね。あ、沙希ちゃんはピザの方が良かったかしら?」
「何でも良いよ。それより無理しないでね」
キッチンで揚げ物をしている祖母を手伝いながら、沙希はその身を気遣った。もう七十半ばだというのに、祖母は足腰もしっかりしており、年齢よりは若く思える。しかし、それはそのように振舞っているのだと最近になって気づいた。父が死んで五年が経つが、祖母の悲しみが癒えることはないだろう。それでも、嫁である沙希の母親を励ましながら、常に見守ってきてくれた。
早く働き始めて、祖母をゆっくりと休ませてあげたい。あらためてそう思った。
「少しお茶でもいれようかね」
一通り料理の支度を終えると、沙希と祖母はテーブルで向かい合って座った。
「これ新茶よ。少しお抹茶が入っているの」
少し濁りのある茶から良い香りがする。
湯飲みを手に取ると祖母が笑った。
「ふふ、沙希ちゃんの手はお母さんにそっくりだね」
「手?」
自分の右手を見つめる。
「そうかな」
「もうお姉さんの手だね。二十歳になっちゃったんだねえ。早いねえ」
お姉さんという響きにも何だか抵抗があった。今日を境にそんなに変化があるものなのだろうか。他の友人たちは二十歳になることがショックだと言っていたが、その理由もよくわからない。
「本当に、何も変わらないんだけどな」
沙希が茶をすすっていると、玄関から人の気配がした。母親が帰宅したようだ。
先日、バイト先に若い男と一緒に現れた母親とどう向き合うか悩んでいた。しかし、拍子抜けするほど母はいつもどおりの母だった。
――仕事ではプライベートの話はしない主義だったのよ。
――あの男の人は同じ職場じゃないし、身内のことは黙っていただけ。
――二十歳になる娘がいるとは思えないって驚かれたわ。母さんもまだ大丈夫ね。
そんなことを言っていた。沙希もそのおかげで妙なわだかまりが消えてしまったのだ。
帰宅した母は少し疲れた様子だった。無理矢理に仕事を切り上げてきたのだろうか。
「おかえり」
「ただいま」
キッチンの様子を見ると、今度は祖母に向かって言った。
「お義母さん、すみません。遠いところから来てもらったのに、ご飯の支度まで」
「良いのよ。あなたもお仕事大変だったでしょう?このくらい平気よ」
母親が自室で着替えている間、沙希は料理をテーブルに運んだ。いつもと違う食卓に沙希はようやく胸が弾んできた。お祝いしてくれることより、三人でテーブルを囲むことが沙希にとっては嬉しいことだった。
母が冷蔵庫から小さな赤いボトルを出して来た。
「アイスワイン」
三つのグラスに綺麗な赤色のワインが注がれた。
「一応ね。大人の仲間入りだから」
「すごい。いつ用意してたの?」
母親はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「本当はお母さんが一人で飲んじゃおうかと思ってたんだけどね」
笑い合いながら、三つのグラスが音を立てた。
「二十歳のお誕生日おめでとう」
「沙希ちゃん、おめでとう」
こんな主役を張ったのは何年ぶりだろう。沙希は照れ笑いをしつつ、二人に頭を下げた。
「ありがと」
初めて口にしたワインは意外に甘みがあって飲みやすかった。
「やばいな。ハマっちゃうかも」
「はいはい、無理しない」
母親がウーロン茶のグラスをよこしながら言った。
「もう目元が赤いわ。沙希もお父さんに似て、あまりお酒は強くないかもね」
「お父さん、お酒飲めなかったっけ?」
「飲めるけど、すぐに真っ赤になって寝ちゃう人だったわ」
そういえば、そんな記憶が残っている。酔い潰れて眠ってしまった父親に遊んでくれと駄々をこねたことがあった。
「二十歳になったよ」
祖母が和室の方に目を向けて言った。
そこには、父の仏壇がある。
少し静かな空気が流れた。悲しみのピークは過ぎたものの、思い出にするにはまだ早い。
沙希は立ち上がると、仏壇から父の遺影を持ってきてテーブルに置いた。
「お父さん、私は酒豪になるからね」
ワインのグラスを写真フレームの縁にぶつける。
祖母が笑った。母親も呆れたように笑い出した。
――良かった。
湿っぽい誕生会にはしたくなかった。
食事が進む中で、母親が沙希にプレゼントを渡してきた。
「ありがとう。何だろ」
「何かしらね」
特にラッピングもされていない小さな箱だった。開けてみるとそこには大粒のパールの指輪があった。
「えっ」
「お父さんからもらった婚約指輪」
沙希は母親の顔を見つめた。
「そんな、これはマズいでしょ?大事なものでしょ?」
「だからこそ沙希にあげるの。大切にしてね。それに、パールだから色々なところで使えるから便利よ」
母親は笑った。
「二十歳になったらプレゼントしようって、あんたが生まれた時から決めていたんだから、成就させてよ」
母親の深い想いに、思わず目元が潤んできそうになった。
――。
ほぼ同時に、父親との思い出を手放そうとする母親に、わずかな寂しさも生まれる。
顔を上げると、母親と祖母が何やら顔を見合わせていた。
「それで、どうだったのかしら」
「やっぱり、この子になるみたい」
何の話だろう。
いぶかしんでいると、母親が口を開いた。
「沙希。ちょっと、大事な話をするわね」
「うん。何、どうしたの?」
すると、祖母が母親に微笑みかけた。
「あなたが負担に感じることはないわ。私が説明するから」
「でも」
「これは、私の問題でもあるの」
母親は悲しそうな顔をすると、下を向いた。さっきまでの明るい空気が失われていくのがわかった。
祖母が小さく微笑んだ。
「沙希ちゃん」
「うん」
「沙希ちゃんは、死んだお父さんのお父さん、お祖父ちゃんを知ってるかしら」
「直接は知らないよ。でも、それは」
微笑みながら祖母がうなずいた。
――確か、祖母は祖父の愛人か何かだったと父が言っていた。
「沙希ちゃんが二十歳になったから、ちゃんとお話するね」
祖母がそう言うと、一通の封書を持ってきた。
広げられると、綺麗な文字で綴られた文章が現れた。
「遺言書って書いてあるね」
「そうよ。沙希ちゃんのお祖父ちゃんはね、ついこの前まで生きていたの」
単語の意味を理解するのに時間がかかった。
「へ、え」
この切り替えし方で良いかわからない。
祖母は話を進めた。
「お祖母ちゃんはね、お祖父ちゃんと結婚してなかったの。でも、沙希ちゃんのお父さんが生まれて、沙希ちゃんのお母さんと巡り合って、沙希ちゃんが生まれて、ずっと幸せだったのよ」
「うん」
「でもね、お祖父ちゃんも……誰とも結婚しなかった。身体も弱くて、ずっと一人だったの」
話がよく見えない。
「何で?だいたい、お祖母ちゃんと結婚しなかったのは……」
「お祖父ちゃんのお家は、すごくお金持ちでね。お祖母ちゃんの身分じゃ釣り合わなかったのよ。どうしても昔の話だからね。家柄とかそういう問題があったのよ」
つまり、祖父が生涯結婚していない以上、愛人とか妾とかいう話ではなかったのか。
母親は黙ったままグラスを傾けている。沙希も祖母を見つめるしかなかった。
「お祖父ちゃんね、亡くなる前にこの遺言書を残していてくれたの。ここには、沼目和敏……沙希ちゃんのお父さんを息子だと認めるって書いてあるの」
「お父さんがお祖父ちゃんの子供なのは当たり前でしょ?」
「少し難しいお話なんだけど、結婚をしていない男性と女性から生まれた子供は、認知という手続きを取らないと、お父さんが誰それだって国に認めてもらえないのよ」
つまり、祖父は死ぬ間際に父を自分の子供だと認めたかった。それで遺言書を残した。
理屈はわかるが、どうも腑に落ちない。
「もう二人とも死んじゃってるし、アレなんだけど。何か今さらって感じしない?あ、でもお祖母ちゃんは嬉しかったのか」
ごめん、と謝ると祖母は微笑んでくれた。
「沙希ちゃんの気持ちは最もだと思うわ。でもね、お祖父ちゃんは理由があってこういう遺言書を残してくれたのよ」
「理由?」
「お祖父ちゃんの家はお金持ちだって言ったでしょう。それで結婚もしていないし、沙希ちゃんのお父さん以外の子供もいなかったの。死んだ後に財産をどうするか決める必要があったのよ」
「……」
「この認知という手続きを取ることで、お祖父ちゃんの遺産はお父さんに受け継がれることになるの」
「え、でも?」
父親は――。
「そう、お父さんの方が先に死んじゃったわよね。そうすると、その遺産相続の権利が」
「沙希、お前に回ってくるの」
黙っていた母が苦しそうに言った。
どうしてそうなってしまうのだ?
「あのさ、よくわからないんだけど」
「確かに難しいわよね。でも、沙希ちゃん、これは法律でそう決まっているらしいのよ」
「法律?」
「お祖母ちゃんもお母さんも色々と調べたり聞いたりしたけど、やっぱり、お祖父ちゃんの遺産は沙希ちゃんに相続されるみたいなのよ」
あまりに突然の展開に、沙希は必死に頭を働かせる。
「お祖母ちゃん、相続相続って言うけど、遺産はどれくらいなの?どこかの土地とか?」
祖母は無言で封書の文面に指をなぞらせた。
「はあっ?」
そこに書かれている数字に沙希は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「預貯金九五三〇万って、嘘でしょう?お祖父ちゃんゼロの数を間違えちゃったんじゃないの?それに、絵画とか骨董品とかも入れたら一億超えちゃわない?」
しかし、祖母は押し黙ったまま下を向くと、
「ごめんね、沙希ちゃん」
申し訳なさそうに言った。謝られることに、沙希は戸惑った。
「沙希が今回のことを受け入れてくれれば、お祖父ちゃんの遺産はお前の物になるのよ」
母親は沙希に向かって言った。
「それだけのお金があれば、沙希もこれから苦労することもないと思うわ」
その言葉に沙希は心がかき乱された。
「待ってよ。こんな大金、私が手に負えるわけないじゃん。そんな他人事みたいに」
「でも、実際に、お前が決めなくてはいけないことなのよ」
気のせいだろうか、母親が遠く感じる。
沙希は繋ぎとめるように母を見つめた。
「ね、ねえ。もし私が遺言のとおりに相続したら、お母さんもそのお金で新しいマンション買えるよね?この家も売らなくて済むなら、将来は私が住んでも構わないのかな。ほら、せっかくお父さんが建てたのに、もったいないじゃん」
「今はそんな話をしているんじゃないでしょう」
「私にとっては大事なことよ」
「この家はお母さんのもの。お祖父さんの遺産はあなたのもの。心配しなくても、お母さんは自分のことは自分で何とかするから」
母親は安心させるように笑ってみせたが、沙希の心は晴れなかった。
どうしても距離が埋まらない――。
母と一緒に現れた男の顔がちらつく。
祖母が静かに口を開いた。
「沙希ちゃん、本来ならお父さんが受け入れなきゃいけないことを、あなたにさせようとするのだから難しいことはよくわかってるわ。これから話し合っていきましょう」
例えば数十万円程度なら沙希も考えられたかもしれない。しかし、一億なんて大金など、現実離れも甚だしい。
「お祖母ちゃん、私がいらないって言ったらどうなるの」
「沙希」
母親を無視して、沙希は祖母と遺言書を交互に見つめた。
祖母が目を伏せる。
「……お祖父ちゃんの兄弟に相続されていくわ」
「その人たちと話し合う必要はないの?」
途端に祖母が悲しい顔つきになった。
「その必要はないのよ。遺言書には兄弟のことなど書かれていないもの」
「でも、親戚の人たちだって一億円の遺産があるのは知っているんでしょ?私一人で決めたら良くないと思うんだけど」
祖母と母親が顔を見合わせた。
「沙希ちゃんは本当に良い子だね」
――良い子。
「でも、実際どうしたら良いのかしら。やっぱり専門家が間に入った方が安心かしら」
「そうですね。その萩野谷さんたちも弁護士を立てるって言ったんでしょう?」
沙希の頭の中にはあの眠そうな男の顔しか浮かんでこなかった。
「私、自分でちょっと相談してくる」
「何を言ってるのよ」
「大丈夫、専門の人だと思うから」
祖母と母親がまだ何か言ってきたが、沙希の耳には入らなかった。
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