六月十三日(金)午前 萩野谷建設株式会社
退院したばかりの父がようやく泣き止んだのを見て、萩野谷薫子はもう一度父に言った。
「人様のお金に手を出そうなんていけません。会社は私が何とかしますから、お父様はゆっくり休んでください」
「しかし」
「私、宇佐見さんの事務所で働き始めて社会というものを知りました。色々な方々とお会いしたり、雑誌を読んだりして、自分がいかに甘やかせれてきたかを痛感しました」
薫子の隣では、倉本と宇佐見が父娘のやり取りを見守っていた。
ふいに宇佐見が薫子の頭に手を置くと、父親が怒鳴った。
「き、貴様ッ!娘に何てことをっ」
「まあまあ、パパさん。あまり怒るとまた血管が詰まっちゃうよ?」
宇佐見はさらに薫子の肩を抱いた。今度は倉本が止める。
「先生、さすがにそれはちょっと」
「過保護だねえ。そんな育て方するから、薫子ちゃんは男を見る目を誤ってしまったんだよ?何度も泣かされて可哀想に。オレが助けなかったらもっと酷い目に遭っていたよ」
父親も倉本も固まった。大きく息を吐くと倉本が口を開いた。
「ど、どういうことでしょう。先生……【男】というのは」
「どうもこうもないね。世の中には背が低くて気味の悪い眼鏡をかけた非道な男がいるんだよ。まあ、誰とは言わないけどさ。でも、もう大丈夫。オレが薫子ちゃんの生きる道を軌道修正したからね。さ、薫子ちゃんも言いたいことを言うんだ」
宇佐見は薫子に向けてVサインをした。勇気をもらった薫子は、再び父親に向き直る。
「お父様。今すぐに私への仕送りは中断してください」
「そんなこと言ったら、お前」
「私なら平気です。あらゆる節約術を使えば、毎月一〇〇万の仕送りも必要ありません」
宇佐見と倉本が口を開けた。
「し、社長。そんな大金を送金していたのですか……」
「薫子ちゃん、働く必要なかったねえ」
「うるさいっ!大事な一人娘に苦労はかけたくないのだっ!」
薫子は静かに父親を制した。
「お父様、人間は苦労しなくては強くなれません。苦労せずに得た自信など、何の意味もないのです」
あのショートヘアの女性は、自ら働いて母親を助けようとしていた。
自分とは逆だ。
「頑張れば、何とかなります。昔の偉人もそうやって困難を克服したんですよ?」
「お嬢様、お気持ちはわかりますが現実は厳しいのです」
そんなのはわかっている――。
そう言おうとした時、宇佐見が声を上げて笑い出した。
「何だあ、よくわかってるじゃない。ねえ、薫子ちゃん」
「宇佐見さん」
「現実は厳しい。その通りだよ。今の状況から抜け出すのに一番簡単な方法があるよ」
父親も倉本も目を輝かせて宇佐見を見上げた。
「会社、潰しちゃえば良いんだよ」
二人の目から光が消えた。代わりに、父親の目には憎悪があふれ出す。
「さっきから黙って聞いていれば好き勝手抜かしおって。薫子の雇い主でなかったら」
「なかったら?警察に突き出す?どうぞどうぞ。それで萩野谷建設が復活するならお安いものだよ」
宇佐見は父親を見下ろした。
「萩野谷サン、綺麗ごと抜きに言うけど、会社を残したいなら経費削減と人員カット。要はリストラが最短で最良の道だよ」
これにはさすがに薫子も食いついた。
「宇佐見さん、酷いです。社員の皆さんは一生懸命に会社のために働いてくれているのに」
「でも、こういう状況を作ってしまったのは間違いなく君のパパさんだから。それとね、会社経営は慈善事業じゃないんだよ。情で仕事しようとするから失敗するんだ。いっそ潰して新会社を作った方が税金なんかも特例受けられるし、お特だと思うなあ。もっとこう、フレッシュな方法でいこうよ」
再び宇佐見は三人に向けてVサインをした。
リストラがフレッシュな方法だなんて。
薫子は少しずつ宇佐見から離れた。優しい人だと思っていたのに。
「宇佐見先生、貴重なご意見ありがとうございます」
倉本が頭を垂れた。
「ですが、社員を見捨てるような真似はできません。それは社長も同じだと思います」
「ふむふむ、なるほど」
困った人たちだねえ、宇佐見は笑った。
「そんなのはわかっていますっ」
薫子の叫びに、父も倉本も唖然として見つめてくる。
「確かに、お父様のやり方は間違っていたかもしれません。でも、会社と社員のことをどれだけ大事に思ってきたか、宇佐見さんがわかるはずないです。それを簡単に潰すとかリストラとか」
宇佐見は薄い茶色の目で薫子を見つめた。
「じゃあ、薫子ちゃんに何ができる?」
「それは」
「具体的に何を考えているっていうのさ?これまでパパさんに甘やかされて、社会の何たるかも知らなかった人が、会社を立て直す?オレじゃなくても笑っちゃうよ」
宇佐見はいつものように優しい笑みを浮かべているが、単に人の難事を楽しんでいるようにしか思えなかった。
「いや、人員カットはわしも考えていたのだ」
その言葉に、倉本が声を上げた。
「し、社長」
「弁護士のいうとおりだ。今までとおりの方法で、切り抜けられる時代ではなくなったんだよ。会社を残すためには仕方がない。どこの会社も社員が大事なのは当たり前だが、どこの会社でもリストラは実践していることだ。今なら希望退職者にそれなりの金が払えるだろうからな」
倉本が力なくイスに座り込んだ。
薫子は、必死に父親に食い下がった。
「お父様、使っていない別荘がいくつもあります。手付かずの敷地だってあります。乗っていない自動車も何台もあるじゃないですか。全部、担保に入れれば新たに融資を受けられると思います。いいえ、むしろ人に貸したり売ったりすればお金に変えられますっ!会社や社員が大事だというなら、そういう無駄な資産をなくさなくてはっ」
薫子の熱弁に父も倉本も圧倒された。
すると、頭に大きな手が優しく置かれた。
「ふふ、薫子ちゃんは世間には疎いけど、基本的に頭は賢いよね。飲み込みも早いし」
見上げる薫子の耳元に宇佐見は口を寄せてきた。
「ごめんね」
――。
宇佐見は父親に向き直ると、やや声を低めて言った。
「ねえ、パパさん。オレの経験上、資産があるうちは会社は平気よ。売掛金回収だとかのんびりやっているなら、勝負に出たら良いのに。どうせ、建設業なんてどこも厳しいのは一緒なんだしさ。同じことやって共倒れするのってバカバカしくない?」
「何だと?」
「例えば、会社分割して業績が良い部門だけの子会社を作るとかね。その社長を薫子ちゃんがやったら面白いと思うよ?」
倉本がこめかみを押さえながら言った。
「宇佐見先生、面白いだけで話をされては困ります。だいたい、お嬢様は会社経営どころか社会の仕組みもわかっていないのですから」
宇佐見は倉本を無視して、ニヤニヤ笑いながら薫子に向き直った。
「薫子ちゃん、不動産関連の社長になると素敵なことが起こるよ?」
「素敵なこと?」
「愛しい藤石先生と仲良くなれる」
「えっ」
「呼び出せば急いで会いに来てくれるよ」
「えぇっ」
眩暈がした。
「宇佐見先生っ!くだらないこと言わないで下さいっ」
倉本が宇佐見に食いかかった。父親は首を静かに振り、呆れたようにため息をついた。
「何が仲良く、だ。薫子には相応しい結婚相手を探してやるのだ。たかが司法書士など、呼び出して急いで来るなど当たり前、書類確認するだけで金儲けするような輩、使い倒せばいいんだ」
――。
「お父様」
知らないうちに、頬を涙が伝った。
「撤回してください」
「え?」
「撤回してよっ!藤石さんのこと、あなたに何がわかるのっ!」
宇佐見が目を丸くして見下ろしてきた。倉本は棒立ちのまま動かない。
薫子の目頭が火のように熱くなる。
「たった一人で事務所を切り盛りして、病気にかかっても夜中まで働いて、一度でもミスをすれば仕事を全部失うかもしれない中で、あの人は、仕事と関係ない私たちの話を丁寧に聞いてくださったわ!何かあれば周りの人間ばかりあてにして、病気にかかっても必ず誰かが助けてくれて、お金に困ったらリストラしようなんて考えのお父様に、あの人のことわかるわけないっ」
呆然とする父の前で、薫子は声を上げて泣いた。
周りばかりあてにしているのは自分だって同じだ。あの人と肩を並べるまでいかなくても、せめて背中を追うことを許されるくらいの人間になりたい。
薫子の頭に宇佐見が大きな手を載せた。
「いやいや、驚いた。これは本物だね。あのチビ書士にはもったいないかもなあ」
涙をこぼしながら見上げれば、薄い茶色の目が優しく笑っていた。
「宇佐見さん、私には何のとりえもないです。あの人の力になれないのに、気持ちばかり押し付けてきました。藤石さんのために、何もできないダメな女です」
「アイツは難易度高いって言ったでしょ?それにまだ出会ったばかり、いくらでも挽回すればいいんだよ。でもね、アイツをここまで諦めないのは薫子ちゃんが初めてよ。きっと上手くいくさ。よしよし、もう泣かないの」
それでも涙が溢れて仕方ない。薫子は顔を覆って座り込んだ。
「社長」
倉本が静かな声で言った。
「私のような一社員の分際で言うべきか悩みましたが、世代交代の話は先延ばしでも、当面の運営については真剣に考えれらたらどうでしょうか。早期退職の希望者を募るなら、それなりに準備を進めねば」
「いや」
父の声が震えている。薫子は顔を上げた。
「娘よ、父が悪かったな」
「そんな……。私も言い過ぎました。お父様は退院したばかりなのに、ごめんなさい」
病を抱え、年老いた父に声を上げるなど最低だ。薫子はますます消沈した。
「薫子、お前は何がしたい。将来の夢があるのか?」
「夢……」
言いよどんでいると、父は立ち上がり、そっと薫子を抱きしめた。
「お前さえよければ、だが」
腕に力がこもる。
「この会社、いずれ任せてみてもいいか?」
「お、お父様?」
「社長、本気ですか?」
父親は静かにうなずいた。そして、部屋をゆっくりと見渡す。
「わしも親父から譲り受けた際、好き勝手に会社を動かした。もとより、嫌いな父親の吠え面が見たくて意地になっていただけなのだ。しかし、娘はこの父のことを、会社を想って泣いてくれる。そんな娘が、わしより劣るわけがないのだ」
社長、と倉本が声をかける。それを右手で制して父は続けた。
「倉本、娘は賢い子だ。何とか盛り立ててやってくれないか。もちろん、今すぐとは言わぬ。わしはもう、この子が泣くところを見たくない」
その時、宇佐見がポケットから何かを取り出した。
印鑑――弁護士の職印だ。
「宇佐見さん?」
「薫子ちゃんが前向きに跡取りを考えるなら、オレが法務顧問になってあげるよ。報酬は……そうねえ、時々一緒に紅茶を飲んでくれたらいいや」
そして、宇佐見は父親と倉本に向き直ると、印鑑を押す真似をしてみせた。
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