六月十四日(土)正午  沼目家

 藤石の事務所の電話番号はインターネットであっさり見つかった。

 沼目沙希は緊張しながらその番号へ電話をかけると、ほとんど呼び出す間もなく藤石の声が耳に届いた。突っかえながらどうにか名乗った沙希を、少し間を置いて藤石が認識してくれた。土曜日の午後からなら空いているらしく、都合の良い時間に会ってくれることになった。

 沙希はこんな家庭の騒動を話して大丈夫なのかと今さらになって不安になったが、それ以上に藤石に会えるのが嬉しかった。事務所に押しかけた時のお詫びもしなくてはいけない。それと、あの小柄な女性との関係も気になっていたのだ。


 土曜日、出かける準備をしていると、母親が部屋をのぞいた。

「あらら、おめかししてどちらへ?お嬢様」

 からかう顔が鏡越しに見えると、沙希はひどく焦った。確かに、普段は着ないワンピースを身にまとっていれば、沙希を知る人物なら皆がそう言うだろう。貯めたバイト代から少し捻出して、学校帰りに思い切って買ったのだ。

「変、かな」

 正直、不安だ。自信もない。店員が似合うと言ってもセールストークなら意味がない。

 母親が部屋に入ってきて、沙希の姿を上から下へ眺めた。

「バッチリよ。でも、こういう服を着るなら、もっと姿勢を良くしないとダメ」

 肩のあたりを掴まれ、後ろにグイッと引っ張られた。


 鏡には母娘が並んだ姿が映る。


「いつの間にか抜かされちゃったわね」

「そうかな?姿勢を伸ばしたからだよ」

 母が笑った。

「デート?」


 顔が一気に熱くなってきた。


「ち、違うよ。言ったじゃん。相談しに行くって」

 誕生日に、祖父の遺言書のことを聞き、沙希が相続人であることがわかった。それについて、司法書士の藤石に相談をすると言ったはずなのだが。

「司法書士?確か登記の専門家だったわね」

「白井さんの知り合いなんだよ」

 母親が不思議そうな顔をした。

「お前、土地家屋調査士の白井さんと会っていたっけ?」


 しまった。


 白井が家に来た時、直接は応対せずに逃げ出したのだった。沙希は苦しい言い訳をした。

「バイト先によく弁護士の人が来るの。その人の知り合いが白井さんだったんだよ」

「あ、そうなの」

「私のことを話したら、うちの家の測量をやったって聞いたから」

 あながち嘘ではないが、こんな専門家集団の知り合いがいるなど怪しむに決まっている。しかし、母親は妙に納得したような顔になって言った。

「でも、一人で結論出したらダメよ。その先生に話を聞くのは良いけど、ちゃんとお母さんにも相談してね」

 沙希は母親を見つめた。

「お母さんは、どうして欲しい?やっぱりお金は必要だよね」

「そりゃ」

 そう言いかけて、母親は少しうつむいた。

「でも、正直わからないわ。お金があったら助かるのは事実だけど、税金とかもかかるだろうし、何か額が額なだけに、怖い人たちに狙われたりしないかとか不安もあるわ」

 母親の言うことは最もだ。あまりに現実離れしている。それでも本当に手に入るなら、母も祖母も生活を楽にしてあげられる。これくらいしかメリットが浮かばなかった。

「それにしても、沙希はデートじゃなかったのね。早くボーイフレンド見つけなさいよ」

「大きなお世話だよ」

 笑い合いながら、お互いの身体をつつき合った。

「いいな、沙希。お母さんもオシャレしてどこかデート行きたいわ」

 すぐさま、沙希の脳裏には例の若い男の顔が浮かんだ。

 母親が部屋に落ちていたワンピースのタグを拾ってゴミ箱に入れる。

「ねえ、お母さんって再婚しないの?」

 母親の動作が一瞬止まった。振り向いた顔は困惑の色を浮かべている。

「あ、嘘。ゴメン、そうだよね。するわけないよね。お父さん泣いちゃうもんね」

 それにもう四十過ぎだもんね、そう付け加えたが、母親は妙に悲しげな目をした。


 いずれにしても傷つけてしまったか。


「いや、オシャレだとかデートだとか言うから珍しいなって思って。でも、オシャレくらいできるよ。うん」

 もう自分でも何を言っているかわからない。


 すると、母が笑い出した。


「……再婚ねえ。でも、アンタがお嫁にいかないうちに、お母さんがまたウエディングドレス着るの?ご近所に笑われるわよ」

 それもそうだ。母の切り返しに沙希は安心した。しかし、母親の顔は笑いながらも何か苦しそうに思えた。

「お母さん?」

「もし、お母さんが再婚したら、沙希はどうする?どう思う?」


 胸がつっかえそうになる。


「それは」

 それは、もう再婚したいと言っているようなものではないのか。しばらく考えてみたが、答えが出ない。今度は父の顔ばかりが浮かんでは消える。

「お母さんがしたいなら、良いんじゃないの。お母さんの人生だしね」

「沙希」

「でも、その人は私のお父さんじゃないから。それに、再婚するなら、やっぱり私が結婚するまで待って欲しい。私、一人になっちゃうよ」

 沙希はうなだれたまま、部屋を出た。後ろから母親が何か呼び止める素振りを見せたが気づかないふりをした。


 これでも精一杯の答えだった。


 もう自分も子供ではないし、仕事も決まって自立する準備は整った。母親とてまだ四十代で、人生の再設計だって可能だろう。けれども、母親にはもう少しだけ母親として接して欲しかった。女になる母親を見たくないだけかもしれない。それを受け入れられるには、まだまだ時間がかかりそうだった。

 この数日間は、家のことで振り回されっぱなしだ。先週まではただ学校とバイトの繰り返しだったのに。二十歳になった途端に、庇護の檻から放り出された気分だ。


 家を出て、しばらく歩いていくと路上駐車をしている車が目に入った。

 中から現れた男に思わず足が止まる。


 ――この人。


 バイト先の近くで、母親と歩いていた例の若い男だった。

「あ、あの。沼目さんの……お嬢さんですよね」

 こんにちは、男――平岡が深々と頭を下げた。たいそう困惑した表情を浮かべている。

「平岡さん、でしたっけ。こんにちは」

 明らかに険のある声色だった。慌てて沙希は笑ってみせた。

「私の家に御用ですか。母なら家にいますよ」

「こちらこそ呼び止めてすみません。今日はご自宅の売却手続きで使う書類に印鑑をもらいに来たんです」

 沙希の表情を読み取ったのか、平岡はさらに言葉を付け加えた。

「私、不動産売買のコンサルタントをしておりまして、今回は沼目さんのお宅のご売却と、その後のマンションのご購入までお手伝いしているんですよ。それで、打ち合わせなどでお会いすることが多くてですね」

 苦しそうに平岡が笑った。

「あの、変な誤解とかされていないか心配だったものですから、ついお嬢さんに声をかけてしまいました。申し訳ありません」


 誤解――。

 そう言ったのか。


「私にはよくわからないですけど、家のことをよろしくお願いします。すみません、急いでますので」

 平岡が笑顔で挨拶するのを受け、沙希は足早に立ち去った。



 電車に揺られながら、母の言葉と平岡の言葉を交互に思い出した。単に一緒にいるところを見ただけで、あの二人を恋仲と決め付ける方がおかしかったのだ。母が再婚を口にしたところで、相手が平岡とは限らない。現に、あの若い男は誤解だと言っていたのだから。


 ずっとそんなことを考えていたら、あやうく横浜を通過してしまうところだった。慌てて席を立ち、閉まりかけるドアから飛び出した。

 いつかと同じ風景や人混みを見るたびに、沙希の心臓が高鳴っていく。


 ――この前は肉じゃがを持っていったっけ。


 今思えば何て大胆なことをしたものだろう。あの小柄な女性が言うように、相手の好みも何もわかりもしないで、しかも手作り料理などどうかしていた。今日は駅ビルに入っている和菓子屋から三色団子を買って行くことに決めた。沙希の祖母も好きで、よく一緒に食べたことがある。


 ――お祖母ちゃんは、遺言のことをどう思ってるのかな。

 ――お祖父ちゃんも悩んだのかな。


 死に際して、ようやく沙希の父親を自分の子供だと認めた祖父。

 その息子に先立たれ、愛した男に先立たれてなお、一人で生きる祖母。

 それが幸せだったのだろうか。

 母親はそれを見てきて、再婚を考えたりしたのだろうか。


 どんよりとした梅雨の空気が沙希の肺に侵入してくる。

 その時、落とした視線の先に人の気配を感じた。


「いらっしゃい」

 コンビニの袋を提げた藤石が立っていた。

 沙希は慌ててあたりを見渡した。いつの間にか事務所の前まで来ていたようだ。

「えーと、コーラ飲める?」

「は、はい」

「それなら良かった。カロリーゼロだから心配しないで。まあ、充分細いか」

 そう言って笑うと、藤石は事務所に向かう外階段を上っていった。沙希も早足で後を追う。


 ヤバイ。

 笑ってくれた。

 ヤバイやばい。どうしよう、嬉しい。

 さっきまでの心の曇天に光が差した気分だった。

 

 ――何て調子が良いんだ、私は。


 ドアが開けられ、中に通される。前回はここで門前払いだった。

「あの、先日は大変失礼しました」

 沙希は中に入るや、藤石に頭を下げた。

「まあ、まだ若いしな。徐々に社会ルールを身につけたら良いよ」

 藤石はキッチンからグラスを持ってくると、小さな応接に沙希を案内した。その時、沙希はソファの下に何か落ちているのを見つけた。

「藤石さん、落し物」

 それは女性物のハンドタオルだった。

 しわくちゃで、ところどころに黒い染みのようなものがあった。

「あ」

 藤石が頭を押さえながら手を出した。沙希がハンドタオルを渡すと、しげしげと見つめ横に置いた。

「事務員さんの物ですか?」

「ん?いや、ここは俺が一人でやってるからね」

「じゃあお客さんが忘れていったんでしょうか」

 そうだねえと困ったように笑った。


 ――まさか、恋人とか。


 しかし、そんなことを聞く勇気があるわけない。気になりながらも、沙希は持ってきた手土産をテーブルに置いた。

「そこで買ったんですけど、よければどうぞ。祖母が好きな和菓子屋さんのものです」

「おお、これはご丁寧に。ありがとう」

 目の前の男が嬉しそうに笑うのを見て、沙希はホッとした。

 しかし、その藤石の嬉しそうな顔が一転、悲しげなものになった。

「沙希さん。今回の用向き、俺が当てようか」

「え?」

「お祖母さんから、遺言書の話を聞いたんでしょう?」


 言葉を失ってしまった。

 何で知っているのだ。


「ふ、藤石さん?」

「実はね、別のルートからも相談を受けたんだよ。正式に相談を受けたのは宇佐見だけどね、アイツは相手方が沙希さんの家だと知って、たいそう困っていたよ」

 そういえば、祖母と母親が話していた。


 ――その萩野谷さんたちも弁護士を立てるって言ったんでしょう?


「あの、じゃあ。えっと、萩野谷さんという方から宇佐見さんは」

 藤石が片方の眉を釣り上げた。

「萩野谷の名前まで聞いたか。となると、お祖母さんは全部お話したのかな。お祖父さんと……遺言の経緯を」

「はい」

 藤石はソファに寄りかかって天井を見つめた。

「強いな、君のお祖母さんは」

 ため息をつきながら、コーラのグラスを手に取った。

「正直、俺がどうこう言える立場ではないんだけど。ただ……まあ、知識を与えることはできるよ」

 藤石は一旦応接を出ると、紙と電卓を持って戻ってきた。

「その骨董品だの絵画だのが実際にどれくらいの価値になるかわからないし、正確な計算や税金対策は税理士に任せるとして、だいたい一億円という金があなたの手元に転がり込むとすると」

 藤石は棚から何やら冊子を取り出した。税金の本みたいだ。電卓が軽い音を立てる。

「相続税でいくらか吸い取られても、約八千万から九千万円相当の資産は、あなたのものだ」

 実感が湧かない。

「バイトの自給が千二百円で、月に六万から七万円くらい稼いでいるから……えっと、何倍かな」

 藤石が声を上げて笑い出した。

「だいたい一〇〇〇倍ちょっとかな?そうだなあ、君が今のペースでバイトして、あと百年くらい続けると稼げる額かな」

「ひ、百年っ?」

 何というスケールの大きさだろう。

「俺はどれくらい働けば良いんだろうな……ゲッ……知らなきゃ良かった」

 藤石は電卓をテーブルの隅に追いやってため息をついた。

「あの、司法書士って儲からないんですか」

「何て恐ろしい質問だ。まあ、中には余裕で稼いでいる書士はいるだろうよ。けど、俺は生きていくのに困ってないから、これでいいのっ!」

 ふてくされた様子がおかしくて沙希は笑ってしまった。そんな沙希を見つめ、藤石は口を開いた。

「最終的にどうするかはあなたが決めて良いことだけど、まあ、家族と話し合って考えな。遺言執行者は沙希さんのお祖母さんみたいだしね。これで、あなたの相談事は解決したかね?まだ何か聞きたいことある?」

 そう言われて、沙希は下を向いてしまった。確かに税金については知っていて損はないと思ったし、実際に相続を受け入れるかどうかは家族と話し合うべきだとわかっていた。正直、沙希自身はそんな大金が欲しいわけではない。そもそも実感がわかない。普通の人なら、働かずに済むとか考えるのだろうか。

 藤石は立ち上がると、今度は緑茶を用意して戻ってきた。沙希が持って来た三色団子を広げると、

「食べても良い?」

 と聞いてきた。さっきから藤石の動作にいちいち胸が苦しくなる。そんな沙希を気にもせず、団子を口に入れながら藤石が言った。

「聞き流してくれて構わないけど、若いうちは必死に働いて金を稼ぐことの大変さやありがたさを学んだ方が良いとは思うね」

「え?」

「金は人生を豊かにする反面、人生をブッ壊すものでもある。きっと、沙希さんは心のどこかでそれがわかっているから悩むんだよ。だから君なら大丈夫だ。自信を持ちなさい」

 その言葉に沙希は胸の中が温かくなるのを感じた。そして、どこか吹っ切れたような気もした。


 ――やっぱりお母さんにマンションを買ってあげれば良いんだ。

 ――新しくて綺麗なマンションなら、私だって住みたいと思えるかもしれないし。

 ――何より大金の使い道には丁度良いんじゃない?

 ――それなのに。

「何で、お母さんはわざわざ家を売って新築マンションが欲しいんだろう。せっかくお金が入るのに……」

「なるほど、ねえ」

 藤石が突然つぶやいた。

「え?」

「あなた、さっきから独り言にしては声デカ過ぎでしょう」

 慌てて口を覆う。知らない間に声に出ていたのか。

 沙希の身体中から熱が放射される。

「す、すみませんっ!」

「何で?」

「だって、こんな話、藤石さんには全然関係ないのに」

「大ありだよ」

 沙希は茶をすする美麗な男を穴が空くほど見つめた。

「俺の仕事、一件なくなったんだからな」

 藤石はソファにもたれかかった。

「沙希さんの家、色白で前髪が長くてヒョロヒョロの男が行ったでしょ?測量か何かで」

「はい。白井さんには色々お世話に」

 沙希は、あらためて藤石に頭を下げた。

「ごめんなさい。あの、藤石さんが病気なのにお邪魔したこと、白井さんは何も悪くないですから。怒らないであげてください」

 藤石は気にするなというように片手で沙希を制すと、続けて話をした。

「白井が仕事を片付けた後、その後の売却の手続きや登記は俺がやる予定だったんだ」

「えっ?」

「業務提携ってヤツね。けど、沙希さんのお母さんがどこかのコンサルタントと相談して、登記は自力でやるとか言ったそうだね。結果、白井の仕事はキャンセルになり、俺の貴重な仕事も消えてしまったわけ」

 思わず沙希は身を乗り出した。

「お母さん、そんなこと言ったのですか?」

「あの白黒ヒョロ男にね。だからアイツも沼目家の仕事から手を引いたはずだよ」

 コンサルタントというのは平岡のことだろう。それほどまで信頼を寄せているということなのか?

「それにしても、急な話だよなあ。まあ、よくあることだが」

「そうなんですか?」

「インターネットが普及しているせいで、登記のマニュアルも得られるからね。まあ、やりたきゃ勝手にどうぞって感じだよ」

 そう言っている藤石の顔には不満の色が現れていた。なぜか、ひどく申し訳なくなった。

「しかし、君のお母さんは家を売って新築物件を買うつもりなのか」

「一人は寂しいから小さいマンションを買うと言っていました。都心に出やすくて便利だって、色々とチラシを見ていたから」

 藤石はため息をついた。

「なるほどねえ。新築マンションだったら司法書士も指定の奴がいるから、俺に仕事は来ないわな。しかし、どうも引っかかるなあ」

「何がですか?」

「表題登記は白黒ヒョロ男が途中まで進めたんだから、やってもらったら良かったのに。あっちの手続きの方が面倒だと思うけどな。まあ、もう別にいいや」


 ちょうど電話が鳴った。


 藤石が応接を出て陽気な声で応対するのが聞こえてきた。

 沙希がコーラのグラスに口をつけると、藤石が電話の子機を持ったまま戻ってきた。

「はい?ああ、そうですね。ハンカチ落とされていましたよ。さっき見つかったので洗濯はしてませんけど」

 思わず向かいのソファに置かれていたハンカチに目を向けた。電話の相手はその持ち主のようだ。

「え?それはまた唐突だな。気を遣わなくていいですよ。ついでに言うと俺は下戸なんで、お相手できませんし。いや、そういうわけではなく、本当に酒は飲めないんですよ」


 ――何の話だ?


 それよりも、お酒を飲めないことが沙希にとっては新鮮だった。また違う一面を知ってしまい、嬉しくなった。

 藤石がソファに置いてあったハンカチを拾い上げる。その時、沙希と目が合うと、笑みを浮かべてくれた。また胸がいっぱいになる。

「わかったわかった。それなら適任の者を用意するよ。ええ、お勧めの店も俺が押さえておきましょう。渋谷にあるんだけどね」


 藤石はそう言いながら税金計算を書いた紙の隅に、何やら走り書きをした。

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