六月九日(月)夜 横浜駅

 白井は快特電車に揺られながら睡魔と闘っていた。


 ――今日は……疲れたな。


 腕時計を見れば、もう夜の七時半になろうとしている。


 発熱した藤石から助っ人を頼まれたのが昨夜のちょうど今頃だった。白井は了承し、今朝一番で藤石の事務所を訪ねてスケジュールを確認し、役場と法務局に向かったのだ。滞りなく業務を終えて藤石に連絡をすると、たいそう辛そうな声で礼が述べられた。その合間にも、時々咳き込んだりする。月曜日からあの状態、一週間やっていけるのか心配になる。しかし、あの小柄な司法書士は顧客の前では平然と取り繕ってみせるのだろう。

 白井は藤石の手伝いを終えると、そのまま自身の仕事をこなし、夕方には同期会の集まりに参加した。最低限の付き合いを果たしたところで、二次会は辞退し、帰途についたのだ。


 乗り換えのため横浜駅で降りた白井は、コンコースを歩きながらスマートホンを手に取った。

 沼目沙希からメールだ。その内容に、思わず声が出そうになった。


 ――ふじいし事務所まで行った?


 そして、最悪なことに自分との関わりも話し、なおかつ怒らせてしまったらしい。あの司法書士からは何の連絡も入っていないことが逆に怖い。もしかしたら、白井が彼女に見舞うようアドバイスしたなどと思われていないだろうか?


 ――やっぱり引き受けるんじゃなかった。


 白井は重い足取りで乗り換え電車の方へ向かうと、一人の女性が階段でうずくまっているのを見つけた。足を広げ、片方のヒールは脱げかかっている。腕は弛緩しており、髪はボサボサだ。


 一目で関わり合いを避けたくなる風体だ。


 通勤客の何人かは心配そうな目を向けたが、誰も話しかける者はいない。ちょうどそこへ、素行の悪そうな若者二人が女性に近づいた。

「あれ、お姉さんどうしたの?酔っ払っちゃった?」

「ここ邪魔だからさ、オレたちと一緒にあっち行かない?」

 あとから、さらに二人やってきた。

「そんなこと言って、お前ら悪さするんじゃねえの?」

「何言ってんだよ、するわけねえだろ」

 騒ぎ立てる若者に不快な気分になったが、どうしたものだろう。藤石なら何か知恵を使って追い払うだろし、宇佐見なら華麗に殲滅するのだろう。

 少しずつ女性と若者たちに近づいていくと、うずくまっていた女性が顔を上げた。

 顔は耳まで赤い。

 若者たちが楽しそうに話しかけるのを聞いているのかいないのか、辺りを見渡すと、女の視線が白井の姿を捉えた。


 その顔に、何となく見覚えが――。


「きゃっ!」

 急に女は悲鳴を上げると立ち上がり、その場から逃げ出そうとした。しかしヒールが脱げて転倒し、若者たちに笑われた。

「どうしたんだよお。何もしてねえじゃん」

「てゆーか、何?アイツに狙われてるの?」

 若者たちが一斉に白井に目を向けた。


 冗談ではない。


 周囲の通勤客まで足を止め始めて白井を遠巻きに見てくる。

 すると、女が何やらブツブツと言い出した。

「さっきからうるさいんだよ。身の程知らずの馬鹿ガキどもが」

 白井はその顔で確信した。先日、藤石の事務所で会ったタイツ姿の女だ。しかもかなり酔っ払っている。

 事情はどうあれ、今の発言が若者たちを怒らせたようだ。一人が女の腕を掴んだ。

「ちょっと、ねえ。その言い方はないんじゃありません?」

「オレたちこんなに優しく介抱してんのに。ふざけんなよ」


 これ以上騒ぎになるのはまずい。


 白井は自分でも驚くほど強引に女の腕を引っ張ると、東口の方へ向けて駆け出した。背後から怒声が聞こえてきたが構わず人混みに突っ込む。JRから流れてくる乗客たちのおかげで、二人の姿は上手く隠れることができた。東口を抜け、閑静な通りに差し掛かるところで、白井は歩調を緩めた。

 そして、己の行動の大胆さに困惑した。

 後ろを見ることが出来ない。

 その時、掴んでいた腕が振りほどかれ、背後から女の吐しゃ物の音が聞こえると、白井は慌てて女の背中をさすってやった。幸い通行人の姿はない。この場はやり過ごし、女の身体を支えながら藤石の事務所の方へ向かうことにした。あの時、タイツ一枚で出歩くのだから、おそらく同じ建物の住人だろう。そこに送り届けてやれば良い。


 女が泣き出した。


「何よぉ、何なのよぉ。私、何年待ったと思ってんのぉ。そんなに結婚がイヤかよぉ。他に女を作ったなら早く言えよぉ。誰だよあの年増はぁ。時間返せ、くそバカ野郎がぁ」

 こぼれ出す単語から往々にして事情が理解できた。そうかといって下手に慰めるのは逆効果だろうし、できればこれ以上深く関わりたくない。災難に見舞われた白井の頭上から、冷たいものまで降り始め、暗澹たる想いで足を進めた。

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