六月九日(月)夜 ふじいし司法書士事務所

 何とか目的の建物までたどり着き、階段を上らせた時、女が息を吹き返したように、急に慌て出した。

「あれ?あれ?あの、ここは」

「あなたのご自宅、じゃないんですか」

 幸いにも自宅で間違いないようだ。女は弱々しくうなずくと、バランスを崩して白井に寄りかかった。白井は何とかその身体を起こし、誤解がないよう女に説明をする。

「横浜駅で具合が悪そうだったので、お連れしました。ご家族の方はいるんですか」

 女は放心した目で虚空を見つめながら、

「わぁんない」

 と不明瞭に言った。家族がいてもいなくても置いていく気なので、白井は構わず階段を上る。すると、二階の踊り場で、藤石の事務所から明かりが漏れているのが目に入った。


 ――まだ仕事しているのか?


 熱もあるというのに、どこまで仕事人間なのだ。女を送り届けたら様子を見にいくことにして、白井は階段に足をかけた。

「気持ち悪い」

 女が苦しそうな呼吸になってきた。

「もう少しですよ。頑張って。鍵は持っていますか?」

 白井の励ましに応えるように、女はバッグの中に手を突っ込んだものの、足が階段から滑り落ち、白井もろとも踊り場に倒れこんでしまった。なおも女は苦しそうな呼吸をしており、目は固く閉じられている。手は何かを求めるように宙をさまよっていた。


 いよいよ、まずい。


 白井は残された力で身体を起こそうとしたが、女がジャケットの襟にしがみついて離そうとしない。

「大丈夫ですか?」

「うッ」

 女が口元を押さえた。

「えっ?ちょっと!」

 白井が絶望感に襲われた時、背後から声がした。

「何してんだ、シロップ」

 首をひねって後ろを向くと、小柄な司法書士が事務所のドアから顔を出していた。

「フジさん、助けて」

「まったく、今日はどうなってんだよ」

 藤石は白井の上に覆いかぶさっていた女を抱き起こした。

「おまけに、大家のお嬢さんじゃないか。しこたま飲ませて、シロップもやるなあ」

「違いますよっ」

 二人は協力して事務所の中に女を連れてゆき、トイレに押し込めた。やっと身軽になった白井は大きく息をつくと、応接のソファに座り込んだ。

「ありがとうございます」

 藤石に向かって礼を述べた時、眠そうな目に射抜かれた。

「これで仕事と無関係の来客は三人目だ。しかも全員が女性。さてさて何をどこから説明してもらおうかな。白井くん」

「はあ」

 意地悪そうな笑みを浮かべている。怒ってはいないようだが、むしろこちらの方が扱いにくい。

「女の子たちにアタックされるのは構わないんだがね。さすがに玄関先で喧嘩までされると、俺の心も痛むわけだよ」

「け、喧嘩?それに三人って……」

「お嬢様とバイトちゃんと、あの酔っ払い姉ちゃんだよ」

 藤石は身体中でため息をつくと、ソファに座った。頭を抱え、痛いとつぶやいた。その様子を見て、白井はどういうわけか申し訳ない気持ちになった。

「あの、すみませんでした」

「その謝罪にはどういう意味があるんだ?」

「よくわかりません。ただ、彼女――沼目さんにフジさんのこと伝えたのは僕ですから」

 もちろんこんな展開を予想できるわけもなく、当然白井にも非はないのだが、相手はまだ若い少女だ。良識というものが備わっていなかったのだろう。そこをフォローするのが大人の役目だ。

「とにかく発端と経緯を説明したまえ」

 藤石は首の後ろに手をあてて、辛そうに眉を寄せた。

「はあ」

 白井は金曜日の夜のことを話し始めた。

「フジさんに命じられて行ってきたんですよ。オルド何とかという店に」

「うんうん」

「そうしたら、ウサさんがいました」

 藤石が凶悪な顔でため息をついたので、白井は慌てて補足説明をした。

「でも、ウサさんは一人でビリヤードを楽しんでいるようでした。その、沼目さんのお嬢さんと一緒に」

「は?」

 二人の関係は白井にもよくわからない。ただ宇佐見の振舞いから単に馴染み客のように思えた。

「僕はウサさんに例の萩野谷さんのことを聞きました。そうしたら、萩野谷さんはウサさんの事務所でアルバイトしていると言っていましたよ」

「ああ、それは俺も彼女本人の口から聞いた。あんなヤツのパラリーガルなんて、人生において何のプラスにもならないだろうな」

 白井は藤石の顔を見つめた。

「彼女の口からって……手紙を受け取った後にフジさんは萩野谷さんと会ったんですか」

「うん。先週はドーナツを手土産にストーキング、今日はマカロン持って特攻された。ちなみに今日も泣かせてしまったよ。ダメだな俺って奴は」

「じゃあ、僕はあの店に行く必要なかったんじゃないですか?フジさん、萩野谷さんと直接お話をしたんでしょう?」

 藤石は頬杖をついて考え込むと、目を見開いた。

「言われてみればそうか。さすがシロップ」

 一気に力が抜けた。そして眩暈がした。人助けが裏目に出た時、誰も責めることができないのが辛い。

 そんな白井の様子を見て、藤石もバツが悪そうな顔をしてみせた。

「いや、悪かったよ。お前に連絡入れたら良かったな。でも、表題登記の客の娘に会えて良かったじゃないか」

 まるで見当違いの慰めだったが、今さらどうしようもない。白井は淡々と話を続けた。

「あの夜、沼目さんは僕が自宅の表題登記に携わる土地家屋調査士だということに気づいたようなんです。まあ、実際インターホン越しで会話してますから、あっちは家の中から僕を見ていたのかもしれません」

「お前の風貌は通りすがっただけで似顔絵に描けるからな」

「そして、彼女はウサさんと僕との会話からフジさんのことを嗅ぎつけたらしいです。司法書士のことにも詳しかったですし」

 藤石が膝を打った。

「俺と話をした時もやたらと業界用語を連発していた。やはりお前のせいか」

「直接は関わっていませんけど、母親とのやり取りを聞いていたんでしょうかね。とにかく、彼女はフジさんともう一度話がしたいんだそうですよ。何か必死でした」

 そこまで話すと沈黙が流れた。

「なあ、シロップ」

 藤石が辛そうに宙を見つめた。

「俺はどうしたら良いんだ」

「知りませんよ。だいたい女性に言い寄られるのは珍しくないでしょう?」

「いやいや、ここまで情熱を向けられるのは学生以来だぞ。駆け引きなしの真っ直ぐで純粋な気持ちをぶつけられて、戸惑った俺は思わず怒鳴ってしまったんだ」

「……二人の女性に同情します」

「ともあれ、この懐かしい感覚。ああ、もう少しヒマだったら週変わりで相手したのに」

 司法書士の品位とやらがかけらも感じられない言葉に、白井はため息をついた。


 その時、トイレの水が流れる音がした。あの泥酔女のことをすっかり忘れていた。藤石が応接のドアを開けて様子を見に行くと、先ほどの女が青白い顔でゆっくり現れた。

 こちらに気づき、苦しそうに頭を下げる。

 状況を飲み込んだようだ。

 藤石はキッチンから水の入ったグラスを持ってくると、女に座るよう促した。

「えーと、大家さんとこのお嬢さんだから大河原さんで良いのかな。大丈夫ですか?」

 突然、女が勢いよく白井に頭を下げた。

「す、すみませんでしたっ!ご迷惑おかけして何とお詫びしたら良いか」

 すでに涙声になっており、かえって白井の方が心苦しい気分になってしまった。

「はあ、いや、あの。大丈夫ですか」

 目元を拭いながら大家の娘がうなずいた。明かりの下であらためてその姿を確認する。年齢は自分より少し若いようだ。横浜駅で若者たちに罵声を浴びせたとは思えないほど、しおれている。

「ま、何にせよ飲み過ぎはいかんね。明日も仕事でしょ?早く帰って休みなさい」

 藤石が上の階に目を向けながら言った。ところが、大家の娘は弱々しく首を横に振った。

「今日は、神田に帰らないと」

 藤石の眉が跳ね上がった。

「今から?もう九時になるぞ?親御さんと喧嘩でもしたのかね」

 大家の娘はうなだれて、また首を横に振った。

「そういうわけじゃないですけど、あまり頼りにしちゃいけないから」

「甘えられるうちが華だよ。良いじゃん、嫁に行くまでそばにいてやりゃ」

 返ってきたのはすすり泣きだった。大家の娘がハンドタオルで顔を覆う。

 ここに連れてくる道中の言葉の数々を白井は思い出した。


 ――あれは、間違いなく。


「お嫁、いけない。もう、何年も待ったのに、浮気されて」

 ポツポツ話す女を見て、藤石が天を仰いでため息を吐いた。

「これは……しくじった。ごめんね」

 ついさっき堂々と二股を公言したこの男も反省したようだ。大家の娘にさっきまでの会話が聞こえていたなら傷をえぐるには充分だろう。

「お嬢さん、名前は?」

「大河原、珠美です」

「珠美さん、ご両親に心配かけたくないなら、酔いが覚めるまでここで休んで良いですよ。俺もまだ仕事あるし」

 罪滅ぼしをするかのように、藤石は優しさを込めて珠美に言った。

「それに、この前髪男はしょっちゅう道端で職務質問されるようなヤツですが、人の悩みを聞くことに長けています。存分に愚痴ってください」

「待ってくださいよ」

 白井が抗議しかけたとき、珠美と名乗った女がこちらを見つめた。少し落ち着きを取り戻したようだ。顔からタオルを離すと、小さな声で言った。

「いつも母親と会うたびに結婚を急かされるんです。それでも私は付き合っていた彼氏と結婚するつもりだったから、あとはタイミングだって言い聞かせてたのに、今さらフラれたとか言えないし。けど、また結婚のこと聞かれたら泣き出しそうで、それで」

 すすり泣きが嗚咽に変わった。さすがの藤石も困った顔を白井に向ける。この男がお手上げなら、この自分にどうこうできるわけがない。珠美の外れそうな髪留めをただ黙って見つめるしかなかった。

「珠美さんは、その浮気男のことがまだ好きなの?」

 藤石が優しく語りかけた。

「……わかりません」

「そうか。じゃあ、きっと納得するまで話し合いをするしかないよ」

「どういうことですか」

 珠美は顔を上げた。すでに痛々しいまでに目が赤い。

「浮気されたとか、何年も待たされたとか、珠美さんは自分が傷ついていることに耐えられないわけでしょ?相手が好き云々より、自分の置かれた現状がイヤなわけよ」

「意味がわからない、です」

 珠美の声は少し怒気が含まれていた。

「どんなことされても相手が好きなら、そのまま好きでいれば良い。でも、見返りを期待した時点でそれは不可能だ。仮に浮気男が珠美さんのことが好きって言っても、今度はそれを信用するかどうかで悩むんでしょ?」

「そんなの誰だって当たり前です」

「そうだね。恋愛なんか見返りの応酬だ。だからこそ楽しい。現に浮気男は二人の女と交際して楽しんでいる。周りから何を言われようと、それが彼の恋愛スタイルなんだよ。珠美さんが納得できないなら、彼から納得できる回答を得るまで話し合うしかない。このときに浮気相手の女は関係ない。君たち二人の問題なんだから」

 いつものことながら、相手がどんな状況であろうと藤石は正論を振りかざす。たいていの人間はこれで失意のどん底に突き落とされるのだが――。


 珠美は違った。


「関係なくない。私はあの女とライバルなんです」

「いやいや、だからさ」

「女だって闘争本能はあるのよ。どんな動物だって、普通はメスを取り合ってオス同士が戦うものでしょ?何で人間は逆なの?だいたい、男が草食だからいけないのよ」

 珠美の悲しみは怒りに変わりつつあった。言葉の端々に棘がある。ちょうど横浜駅で不良少年たちを威嚇した時のように。

「珠美さん。男は草食なのではなくて、食えそうな肉がないから仕方なく葉っぱを食ってるんだよ。な、シロップ」

 背筋が凍る思いがした。何てことを言い出すのだ。

 白井の動揺をよそに藤石は続ける。

「で、意外に葉っぱは美味いわけだ。逃げないから追いかける必要もない。しかも栄養が取れる。それがいわゆる仕事であったり趣味であったりするんだけどね。まあ、時々なら肉も食ってみたいかなあと思う時はあるだろう。そんな空気を感じ取ってスッと視界に入る美味しそうな肉なら男は喜んで食うよ。まあ、食った後に腹痛起こす時もある――」

 次の瞬間、珠美が繰り出した渾身の平手打ちを喰らい、藤石のオレンジの眼鏡がずり落ちた。

「あなた、最低ね」

 珠美は立ち上がったが、すぐに体勢を崩した。白井は慌てて手を差し伸べたものの、珠美は見向きもせず、応接を出て行こうとする。

 藤石は左頬をさすりながら、眠そうな目で言った。

「女はわからんなあ」

「フジさん」

 さすがに白井も藤石を咎めた。しかし小柄な司法書士は珠美に聞こえるように、なおも声を張り上げた。

「結婚したいなら最初から結婚願望がある男を探すべきだったんだよ。恋人の延長で結婚できれば良いって思ってたんじゃないの?だったら恋愛のリスクは負うべきだろ?彼氏が結婚しようと言ったのなら責めて良いんだろうけど、実際どうなの?適当にはぐらかされながら楽しくお付き合いしてきたんでしょ?恋愛のゴールなんて人それぞれでしょうに」

「アンタに何がわかるっていうのっ?」

 顔を歪ませ、再び珠美が応接に戻ってきた。

「もう三年も待ったのよっ!これ以上何を待てっていうのよっ!」

「そうやって彼氏に言えば良い。きっと、丁寧に別れ話を切り出してくれるぞ?」

 再び部屋中に破裂音が響く。藤石はソファに倒れこみながらため息をついた。

「俺、熱があるんだけどなあ」

「全面的全身全霊でフジさんが悪いです。あの、大河原さん」

 押し黙ったまま涙を流す珠美に白井は声をかけた。

「この人は、お気づきのとおり言葉は最悪ですが、あなたに意地悪をしようとしているんじゃないんです。受け入れがたいと思いますが、彼の言うことは正論です。ただ、どのように行動するかは大河原さんの自由ですから。ただ、ヤケ酒はよくないです。身体を壊してしまいますよ」


 無言で珠美は背を向けた。そのまま応接を出て行き、今度こそ帰るつもりのようだ。


「珠美さん」

 寝転がったまま藤石が言った。

「ビンタはもう充分だよな。彼とは冷静に話し合うんだぞ」


 そして、事務所のドアが静かに閉まる音がした。

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