六月二十一日(土)午前 沼目家
沼目沙希は、朝食の後片付けをする母親の後ろ姿を見つめていた。
今なら、止められるかもしれない――。
「お母さん」
「うん?」
「この前、平岡さんという人と道端で会ったよ。売買の書類をもらいに来たらしいね」
母はタオルで手を拭きながら言った。
「ああ、お前が出かけた日ね。そうだけど、それがどうしたの?」
「あの人と、再婚したいの?」
「え?」
「好き、なんでしょう?」
自分の声が震えているのに気づいて、沙希は無理矢理に声を張り上げた。
「でも、あの人はお母さんのこと何とも思ってないって言ってたよ。ごめん、お母さんが傷つくのを見たくないから黙ってたけど、もう我慢できない」
母は立ち尽くしたまま動かない。沙希の声だけがダイニングに響く。
「その人の前の彼女がバイト先に来たの。すごく辛そうで、店でも泣いていたみたいなんだよ。お母さんも、あんな風になっちゃうのイヤだよ」
「沙希、聞いて」
意外にも、母の声は普段どおりだ。動揺している自分がおかしいのかと思うくらいに。
「平岡さんは、とても良い方よ」
「お母さん」
「あなたの言うとおり、これからのことも話し合ったりしたわ。それに、前の彼女さんとは、偶然お母さんも会ったことがあるの。けど、彼は別れると言っていたわ。そのとおりになったことは、沙希、あなたが今教えてくれた」
――。
沙希は、自分の発言が母に何か確信めいたものを与えてしまったと後悔した。しかし、平岡は母のことを何とも思っていないと言っていたのだ。いずれにしても、母か娘、どちらかに嘘をついているということだけは確実なのに――。
「この話はまた今度ゆっくりしましょう。お母さん、今日は売買の契約があるから、午後は出かけるわね。お前も休みだったわよね」
「待って、ちゃんと話をしようよ」
「ちゃんと話したいからこそ、今度ゆっくり時間とりたいの」
母がダイニングを出る。後を追いかけようとすると、チャイムが鳴った。インターホンに映し出された画面に、母が首をかしげる。
「はい、お待ちください」
沙希も母と共に玄関に向かった。
ドアを開けると――。
「おはようございます」
小柄で端整な顔の司法書士が立っていた。
沙希が状況を把握するより前に、縁なし眼鏡の男が口を開いた。
「あれ?その感じだと、聞いてませんね?」
困ったように藤石が笑った。
「ふ、藤石さん。どうしたんですか?」
「沙希さんか。おはよう」
「何、沙希の知り合いの方?」
――どうして。
藤石は母に向き直った。
「沼目さん。今日の売買契約……時間と場所の変更ですよ。午前十時から、この近くでスタートなのに、そのご様子だと仲介さんから連絡行ってないみたいですね」
「えっ?」
「HRKリアルエステートの平岡さんですよ。連絡ありました?」
その単語に沙希も母も顔を見合わせた。
「あの、あなたは……」
「や、これは大変失礼しました。私は司法書士の藤石と申します。今回の取引の担当をさせていただきます。売主である沼目さんが時間になっても来ないので、心配で迎えに来ました。ああ、確かに急な変更ですからね。ご都合悪いならここで書類のチェックを全部しちゃいますので、ご用意してもらえます?」
藤石は柔らかく笑った。しかし、母は藤石に対して警戒の色を込めた眼差しを向ける。
「あの、平岡さんに電話してもいいですか?私、何も聞いてないもので」
「どうぞどうぞ」
母が携帯を取りにリビングに向かう。その間に、沙希は藤石を問い詰めた。
「藤石さん、一体何があったんです?」
「まだ何もないよ」
「え?」
すると、血相を変えて母が戻ってきた。
「……どうして、何で電話が繋がらないの」
「電波が悪いんでしょうかね」
「ち、違いますっ!この番号は現在使われていないって……昨日は繋がったのに」
玄関に座り込んだ母と目線を合わせるように、藤石も膝をついた。
「沼目さん。売却するための書類はお持ちですか?」
「書類……」
すでに母は意識がどこかに飛んでしまったように放心している。
「お母さん、書類ってもしかして平岡さんに渡したの?」
あの日、平岡が家にやって来たのは――。
「やはり渡してしまいましたか。ふむ、そういう手口か」
藤石は眠そうな目をして言った。しかし、不安げに見守る沙希に、優しく微笑んだ。
「君は心配することはない。卒論のテーマでも考えていなさい」
沙希はその言葉に励まされ、母の背中を擦ってやった。
「お母さん、この人は私が遺産相続のことで相談した司法書士の先生なの。とても信頼できる人だから安心して」
「これは高評価だな。沙希さん、もっと言って良いぞ」
母はうなだれたまま、何も言わない。その様子を見て藤石は優しく声をかけた。
「沼目さん、その平岡という男に遺言書や相続の話をしましたか?」
「え……」
ようやく母が顔を上げると、藤石は静かにうなずく。
「ご主人が遺言書で認知された件、それの遺産相続に関する話をしたかどうか確認です」
「……しました」
沙希が口を開こうとすると、藤石が止めた。
「彼は何と言っていました」
「自分でよければ協力すると……それだけです」
「なるほど。それで売却の話は普通に進んでいったわけですね」
「はい」
「お嬢さんから聞きました。新築のマンションの購入を考えているとか」
母は一瞬だけ沙希に目をやったが、静かに藤石に向けてうなずき返した。
「沼目さん、新築マンションの購入に関しても平岡さんが仲介になっていますか?」
「はい」
「そうですか。しかし、携帯番号を変えられたら連絡の取りようがないですね。彼は今後どうするつもりでしょうね」
沙希は咄嗟に母親の肩を揺さぶった。
「お母さん、騙されちゃったんじゃないの?だって、色々おかしいよ」
「そんなことないわ。遺産の話をしたのはお母さんも軽率だったけど、彼は何の詮索もしなかったし、本当に親切だったのよ」
藤石が玄関に何やら色々と並べ始めた。それは、全部マンションのチラシだった。
「ちなみに、沼目さんが検討しているマンションはどれです?最近はタワーマンションの人気も再び上々みたいですねえ」
沙希は呆気にとられた。こんな時に何を考えているのだ。
構わず藤石が続ける。
「お嬢さんによると、お母さんはこの広い家に一人っきりになるのは寂しいから、都心の小さいマンションを買って暮らすんだとか。ですが、これらのマンション、一人暮らしには広すぎませんかね。どれもファミリー層を狙ったものですけど」
母は何も答えない。沙希の直感が働いた。
「まさか、最初から平岡さんと暮らすつもりだった、とか?」
もう少し母親でいて欲しいと願っていたのに――。
うつむいたままの母に沙希は声を上げた。
「だって、最初にお母さんはこの家で一人になるのは寂しいから引っ越したいって言っていたんだよ?その時も私はいっぱい悩んだ。自分が育った家が他人のものになるのは辛いよ。でも、お母さんが死んだお父さんのことを引きずるくらいなら、新しい場所で残りの人生楽しんで欲しいって必死になって頭を切り替えたのに」
当時のやりとりを思い出して、沙希は涙をこぼしそうになった。慌てて上を向いてそれを食い止める。
「私が悩んでいる時、とっくにお母さんはお父さんのことも断ち切って、その平岡さんとの生活を考えていたんだね」
沙希は藤石が持ってきたチラシを睨みつけた。新生活を謳歌するキャッチコピーの文字に怒りがこみ上げてくる。
「結婚って何?そんなに簡単なもの?違うでしょ?」
母親の身体がわずかに震えた。しかし、何も言わずにうつむく姿に沙希は声を荒らげた。
「お母さんのことも、遺産のことも、私だけバカみたいに悩んで苦しんでるんだよ。結婚もしていない二十歳になったばかりの私が、だよ?みんなズルイよ!」
マンションのチラシに涙が落ちる。慌ててそれを拭うと、そこだけシワになった。
沙希の頭に藤石の手が優しく触れる。
その眠そうな顔を見るや、沙希は藤石の腕にすがりついて泣いた。
「……私は間違っていますか」
「いいや、何も」
「お祖父さんもひどい。こんなことになるなら、最初からお祖母ちゃんと結婚してくれていれば良かったのに」
それが難しかったことは承知している。死んだ後とはいえ、自分が生んだ子供を認めてくれたことは祖母だって嬉しかったにちがいない。けれど、沙希の父は、生涯自分の父親を慕うことも叶わず、何も知らされずに祖父より先に死んでしまったのだ。しかも、愛したはずの妻が、あっさりと他の男に心を奪われているなど、考えもしなかっただろう。
こんな現実を受け入れられるほど沙希は大人ではない。二十歳は大人だと、法律とやらが勝手に決めたに過ぎないのだから――。
「本当に、君は良い子だな」
藤石を見つめる。さらに沙希の頬に涙が伝った。
「辛いよな。大人に振り回されるのは」
「藤石さん……」
優しく沙希の頭を叩くと、藤石は母親に向き直った。
「あなたと平岡氏の関係や、俺の仕事にならない新築マンションの一件には一ミリの関心もないです。が、心優しい司法書士には見過ごせないことがあるので申し上げますね」
母親はゆっくりと顔を上げたが、すぐにうなだれた。
「その平岡氏、実は別件でも怪しい動きがあります。鋭意確認中ですけど」
「え?」
母の困惑した声を無視して藤石は続けた。
「それと、遺産相続の件を彼に話したらしいですが、もし例の遺産を狙うなら、あなたより別の人物との関係を良好にする必要が彼にはあるわけです」
母親は沙希の方を向いた。
「それは」
「ええ、もちろん沙希さんですよ。おそらく彼は遺言や相続のことを少し学んだのかもしれないですね。相続人は母親ではなく二十歳の娘。他界した父親との絡みも踏まえたら、少しでも警戒心を解きたいと思うでしょう」
つまり、そのために母とは何の関係もないと言ったのか――。
「先生、まさか」
「はい。平岡氏はあなたから奪った書類でこの家を売却をして、さらには新築マンションを買わせる。おそらく代金のいくらかを抜くつもりでしょうね。さらにさらに、いずれはお嬢さんとお近づきになって遺産すらも狙うことも視野に入れているかもしれません。娘との方が年齢は近いし、よほど現実的でしょう?」
わずかに、母が眉をひそめて応戦した。
「そういう考え方もできる、だけの話に過ぎないのではないですか?」
対して、藤石は楽しそうに笑って言った。
「あなたが売却のための書類を渡すということは契約が決まったということでしょう?確認ですけど、買主の方はこちらの家に内覧に来ました?」
沙希と母親は顔を見合わせる。静かに母親は首を横に振った。
「買い物をするのに、内容を見ないで買う人なんていないと思いますけどね。唯一、新築の建物は完成する前に契約を結びますが……沼目さんはご自分が新築マンションの内覧に行ってないので、ご自宅を売るのも同じシステムだと思い込まされてませんかね。中古物件の売却は、内覧のために掃除するのが大変だと、多くの売主さんが愚痴るものです」
沙希は雑多に物が置かれた寝室やベランダ、玄関などを思い出す。どう考えても、人様を招き入れた形跡はなかった。
母親が床の一点を見つめたまま動かない。ようやく、一言ポツリと呟いた。
「とりあえずは、土地だけ売れたと言っていたのです」
瞬時に藤石が眉を跳ね上げた。
「それなら、なおさら建物の権利証は売却には必要なかったわけです。どうしてそれまで持っていかれたんでしょうね。確かに、このあたりは土地の価格が高いですが」
眠そうな目が沙希と母親を射抜いた。
「土地だけ売れたということは、建物は売れてないってことです。買主さんは建物はいらないんですよ。誰だって自分の好きな家を建てたいですよね。そのために、この家は邪魔だと思いませんか?沼目さんが書類を渡した以上、この家の持ち主は簡単に変えられます。そうなったら……」
藤石が意地悪い笑みを浮かべた。
「当然、ぶっ壊すのも自由です」
沙希は身体が震え始めた。母親もおそらく、全てを悟ってしまったのだろう。呆然と藤石を見つめる。
「もちろん全部、俺の愉快な憶測なので聞き流してもらって結構です。ただ」
藤石は母親に顔を寄せて言った。
「何の知識もなく、自力で登記手続きをやろうなどと抜かす素人は許しません。司法書士を立てなかったために被害を受けた人物も既にいる。詐欺まがいの真似をして、俺の仕事を横取りしようなど言語道断。成敗します」
藤石は立ち上がった。
「倒すって、平岡さんと会うんですか?」
「と、いうよりね。すでに俺の手下たちが奴を包囲しているんだよ」
楽しそうに藤石は笑う。そして、沙希に向かって言った。
「そんな顔しなくて平気だってば。安心して君はまた俺のために肉じゃがでも作りなさい」
「でも、遺産相続は私の問題でもあるから」
「確かに。でも答えは出てるだろうに」
「え?」
眠そうな顔で首をかしげられる。
「お祖母ちゃんのために遺言は受け入れたいけど、巨額の相続は怖い。そうでしょう?」
「はい」
「それなら、そのとおりにすりゃ良い」
「出来るんですか?」
「出来るさ。法律の条文はね、要は使いようなんだってば」
藤石は口をひん曲げて笑った。
「それをやってやるのが、俺らの仕事だ」
電話のバイブ音が聞こえてきた。藤石がポケットからスマートホンを取り出す。
「はい、お疲れさん。うん、そう。全部俺がプロデュースしたこと。大丈夫だから落ち着いて。はいはい、それでは引き続きヨロシク」
電話を切ると藤石は鞄を手に取り母親に頭を下げた。
「突然、押しかけて申し訳ありません。それでは、契約場所に戻りますので」
「せ、先生っ」
母親が青ざめた顔で身を乗り出す。
「わ、私……」
「ご安心ください。こちら、所有者の沼目麻利さんに売却および所有権移転の意思がないのはわかりましたので、進行中の取引は、俺が乱入してブチ壊してきます」
ドアノブに手をかけた藤石に、沙希は思わず声を上げた。
「藤石さん、私も行きますっ」
「は?」
「お母さんの書類、私が取り返す!」
沙希の背後で、ようやく母親が泣いた。
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