六月二十一日(土)午前 ファミリーレストラン

 萩野谷薫子は、指定された時間どおりに待ち合わせの駅に到着した。

 昨日、藤石から電話がかかって来た時の興奮が未だ冷めやらない。思い出すだけで顔が熱くなる。とりあえず来ればわかると言われ、その指示に従ったのだが、時間になっても藤石の姿は見当たらない。どこにいるのだろうか。


 しばらくすると、真っ黒なベンツが近づいてきた。周囲の人々がそれに釘付けになる。

 運転席から出てきたのは、長身の外国人のような男だ。

「あら、宇佐見さん?」

「お待たせ、薫子ちゃん」

 さらに、周囲からの視線が集まった。助手席からは、車と同じように真っ黒な服を着た男が現れた。前髪が長くて顔はよく見えない。

 ため息をつくと、黒服の男は薫子に会釈をした。

「初めまして。白井といいます」

「白井さん……こんにちは」

 見た目に驚かされたが、穏やかな声が心地良かった。悪い人ではなさそうだ。

「さ、乗って乗って。薫子ちゃんにも協力してもらわないとね」

 宇佐見に急かされ、後部座席に乗り込む。静かに車を発進をさせながら、バックミラーごしに宇佐見が笑いかけてきた。

「チビ書士のせいで、貴重な休みが台無しになってごめんね。代わりにオレが謝るよ」

「そんな、私は藤石さんの声が聞けただけでも、嬉しかったです」

 しかし、当人は待ち合わせの場所には来ないようだ。一体どうしたのだろう。

「はあ、確かに本物だ」

 白井がつぶやいた。

「アサトもそう思うでしょ?親指姫の愛の深さを、邪悪な一寸法師は思い知れって話だ」

 宇佐見は再び薫子に話しかけた。

「これから、あるターゲットと会うんだけど、薫子ちゃんはいつもどおり振舞ってくれたら充分。オレたちは薫子ちゃんに従属する部下の役目。まあ、何というかお金持ちゴッコをするんだ」

「お金持ちゴッコ?」

「薫子ちゃんは生粋の令嬢だからゴッコにはならないけどね。まあ、オレたちと楽しんでくれたら良いよ」

 よく意味がわからないが、藤石が望んだことなのだろうか。

「宇佐見さん、藤石さんはいらっしゃらないのですか?」

「来るよ。ただし、薫子ちゃんが上手く立ち回れたらの話」

「え?」

「あのチビ眼鏡はすごく期待していたよ。薫子ちゃんにしか出来ないって」


 ――私に期待?


 薫子は今までの失敗を取り返すチャンスだと確信した。

「よくわかりませんけど頑張りますっ!藤石さんのために出来ることは何でもしますっ」

 薫子が意気込むと、白井がわずかに顔を向けた。

「萩野谷さん、無理はしないでくださいね。もし困った時は下を向いていれば良いです」

「何か難しいお話をするんですか?」

「はあ。正直、僕も乗り気ではないですが、すでに乗せられた舟というか」

 すると、宇佐見が白井の頭を軽く小突いた。

「か弱い婦女子が何人も悲しんでいるんだよ?もうね、このウサちゃんの腸は溶岩みたいに煮えくり返っているわけよ」

「全部、フジさんが絡んでるしね」

「それな!あのチビ書士にだけ良い格好はさせないよっ」

 宇佐見がスピードを上げると、目の前の車が道を譲ってくれた。程なくして、薫子は見覚えのある看板を見つけた。


 ――このレストランは。


 藤石と初めて出会った日に訪れたファミリーレストランと同じものだ。背中越しに声を聞き、胸を高鳴らせたあの空間。


 薫子がこれまでの思い出に浸ろうとした時、宇佐見に腕を引かれた。

「さ、行くよ」

 いつの間にか、うっすらと色のついたサングラスをかけている。それだけで、雰囲気がこうまで変わるのか。

「宇佐見さん、映画俳優みたいです。素敵です」

「でしょ?」

「はあ。確かに関わりたくない風貌だよ」

 三人が中に入ると、店員が一瞬だけ顔を強張らせた。

「いらっしゃいませ。三名様でしょうか」

「えーと、四名様だけど……ああ、先に来ているみたいだね」

 宇佐見は店員の肩に手を置いて奥に向かって歩き出した。その後に白井も薫子もついていく。気のせいか、店内の客の視線がこちらに向けられているようだ。

 テーブルには若い男が座っていた。何やら資料を取り出しては並べている。

「はい、こんにちはあ」

 そう言いながら宇佐見が男の目の前に座った。隣には薫子を座らせる。そして、男の隣には白井が音もなく座った。

「え?」

 若い男は次々と三人に視線を動かし、困惑した表情を浮かべる。薫子は男の風貌や声にどこか覚えがある気がしたが、人違いかもしれないので黙っていることにした。

「あ、あの……?」

「買主だよ。昨日、うちの小さい司法書士から連絡あったでしょ?」

「は、はい」

「オレは宇佐見でーす。ヨロシク」

 宇佐見が右手を差し出した。男が恐る恐る手を出すと、強引な握手が交わされた。

「こちら、今回名義を持つ予定の当方のお嬢様ね。そこに座っているのは白井。まあ、こういう取引に詳しいうちの者だよ」

 白井です、低い声で黒服の男が挨拶をした。

「あ、ああ。私は」

「知ってるよ、何とかカントカ何チャラの平岡くんでしょ」

 男は言葉を失った。それを気にすることもなく、宇佐見が片手を上げて店員を呼ぶ。

「コーヒーを3つ。えーと、お嬢はいつも紅茶だったかな」

「はい、私はダージリンをミルクで下さい」

 店員は早口で注文を繰り返すと、その場を立ち去った。

 それにしても、一体何が始まるのだろう。所在なさげに薫子がそわそわすると、白井がこちらに気づいた。

「どうされました?」

「え、ええ。あの、私、何もわからなくて」

「ご安心ください。僕がついています」

 白井の口元にほんの小さく笑みが浮かぶ。つい今しがた、白井は取引に詳しい者だと宇佐見が言っていた。もしかしたら、白井も弁護士や司法書士のような仕事をしているのかもしれない。

 飲み物が運ばれてくると、平岡が背筋を伸ばし、一枚の書類をテーブルに広げた。

「本来ならこちらから出向かねばならないのに、わざわざありがとうございます」

「いいのいいの。うちのお嬢はファミレスが好きなんだから。それより、こっちこそ急に問い合わせしてごめんねえ。もう買い手が見つかっていたら諦めるつもりだったんだけど、案外、うちのお抱えチビ書士も使えるんだなあ」

 宇佐見がコーヒーをすすりながら言った。白井はテーブルの用紙を見つめている。そこには売買契約書と書いてあるようだ。

「いえいえ、まさかこんな金額で検討してくださるとは思いませんでした。売主の沼目様も喜んでいらっしゃいましたよ。先に決まっていた買主さんは建物を壊して、土地だけを欲しがっていたのですが、それでもなお購入を悩んでいらしたので、両方とも購入していただける方が沼目様にとっても良かったのですよ。沼目様は、今日は都合が悪いようですので、私が代理で手続きをさせていただきますね」

 その後、平岡は不動産の説明を始めた。そして、最後の段階で薫子に向かって言った。

「萩野谷様、こちらにお名前とご実印をお願いします」

 平岡が指し示した場所には『買主』と記されていた。その上には売主としてすでに名前と印鑑が押されている。


 ――売主 沼目麻利。


 その名字と物件の住所に何かが引っかかった。スマートホンをいじくる宇佐見に目を向けると、サングラスの奥で微笑むのが見えた。

「どうしたの?何かあった?」

「宇佐見さん、こちらの方って……」

 その時、薫子の膝の上に宇佐見がスマートホンを置いた。メッセージの作成画面に文字が点滅している。


 ――沙希ちゃんのお母さんだよ。


 薫子の脳内でパズルが組み合わさった。つまり、この売主の欄に書かれた名前が沙希の母親なら、薫子の伯父が遺言で認知した子供の――妻ということだ。その人の家をどうして自分が購入することになっているのだろう。


 ますますうなだれる薫子の耳に宇佐見が口を寄せてきた。

「大丈夫?」

「あ、あの、宇佐見さん」

「うんうん。任せて」

 薫子の頭をなでると、宇佐見はジャケットから何やら取り出して、ボールペンで書き始める。

「はい、お金」

 広げられた契約書の上に、五千万円と記載された小切手が落ちた。

「えっ」

 平岡が目を丸くした。

「うちのお嬢は世間慣れしていなくてね。こういう難しいやり取りの場にいると、すぐに頭が痛くなっちゃうのよ。だからオレが代わりに名前を書くよ。はい、どうぞ」

 そこに書かれたのは薫子の名前ではなかった。

「は、萩野谷組……?」

 平岡が困惑する傍らで、白井が手を伸ばして印鑑を押した。

「建設関係の会社をやっております。それで、平岡さん」

「え、はい」

「売主さんの書類はどこにありますか。確認させてもらいたいのですが」

 白井は平岡に一瞥もせずに言った。さっきまでと違う声の低さに薫子も少し怖くなった。

 平岡が慌てて鞄から封筒を取り出した。並べられる書類を手に取りながら、白井が首をかしげるように確認している。

 そして、白井が薫子にスマートホンを手渡した。

「こちらにお電話をお願いします。すべて揃っているとお伝えください」

「え、はい」

 薫子は困惑したが、すでに電話の呼び出し音が鳴っており、相手が電話に出てしまった。


「も、もしもし」

『はい、お疲れさん』


それに応答した声に、薫子は飛び上がりそうになった。

間髪入れず、宇佐見が薫子の膝を掴んだ。白井もゆっくりうなずいている。


「あ、あの、あのあの」


 電話の相手――藤石は、全部自分が仕組んだことだと楽しそうに答えた。


 ――何が起きているの?


 しかし薫子の戸惑いをよそに、藤石はしきりにこちらの状況を確認したがった。白井を見ると、書類を指差し、片手でオッケーサインを出している。

「あの、大丈夫みたいです。全部揃っているとのことです」

 藤石は陽気な声で、引き続きヨロシクと言い残すと、一方的に電話が切れてしまった。

 不動産取引ならば、司法書士の藤石が指揮を執るはずなのに、こちらに来る気配もない。


 ――私が役立たずだから?


 放心する薫子の顔を宇佐見がのぞきこんだ。

「お嬢ってば、何やら不安そうだねえ」

「ご、ごめんなさい。私どうしても気になってしまって」

「ん?どうしたのさ」

 宇佐見が優しく頭を撫でてくる。白井がその様子を見て言った。

「なるほど。そうですよね。気になりますよね」

 そして、今度は平岡に向かって静かに口を開いた。

「売主さんと貴方はどういうご関係なのですか」

「え」

 平岡の声が詰まった。途端に宇佐見が笑い出した。

「平岡くんったらそういう艶っぽい意味じゃないよ。こら、アサトくん。お客さんと仲介業者に決まっているでしょうに」

「はあ。僕もそのつもりで確認したんですけどね」

 白井は無表情で応戦すると、売主の印鑑証明書を手に取ってつぶやいた。

「沼目麻利さん……印鑑証明の生年月日からすると、まだ四十代なんですね」

 すると、白井が並べられた資料から一枚の紙を取り出した。

「……この登記簿から見ると、沼目さんは相続で土地と建物を引き継いだのですね」

「あ、はい。そうみたいですね」

 平岡が登記簿に記載された箇所を指差した。

「ちょうど四、五年前の相続ですね。ご主人が事故で亡くなられたと聞きました」

「なるほど」

 白井はしばらくの間、その登記簿と印鑑証明書を見つめていた。

「……この不動産を手放すことに……沼目さんが後悔しないと良いのですが」

「え?」

「まだ、七回忌も経ってないですから。思い出にするには早い気がします」

 すると、平岡がうなずき返しながら微笑んだ。

「確かに……でも、女性は強いですよ。切り替えも早いというか。すでに新しいマンションのご購入もお考えのようですからね。そっちも私がご案内をさせていただいて……」

 その言葉に、白井はうなだれながら口を開いた。

「平岡さんは……人の心を掴むのがお上手なのですね」

 いやあ、平岡が謙遜したように笑った。

 そこへ宇佐見が話に割って入った。

「売主さんってどんな人?あ、免許証のコピー見せて」

 宇佐見が書類を一枚取り上げる。

「おほ、綺麗な人じゃないの。ちょっとちょっと、平岡くん。今すぐ連れてきてよ」

「え、あの、彼女は都合が悪くてですね」

「でも、平岡くん何度も会ってるんでしょ?いいなあ」

「ええ、まあ。綺麗な方でしたよ。お子さんがいるとは思えないくらい」

「お子さんって、女の子?」

「はい。でも来年から社会人みたいで」

「ちょっと!なおさら紹介して欲しいよっ」

 急に宇佐見と平岡が打ち解け始めた。


 それにしても、この女性の子供というのは沙希のことではないのか?宇佐見が知らないはずないのに、どうも話が見えてこない。

「全然……わからないわ……どうして」

 薫子がつぶやくと、白井が大きく頷いた。

「わからないのは無理ありません。だって、物件を一度も見てないわけですからね。そうだ、平岡さん」

 声をかけつつも、白井は相変わらず平岡を見向きもしない。

「こちらの建物ですが、薫子さんの代わりに、私が事前に現地で確認しました。そして、不可解なことがあるので、お教えいただきたいのですけど」

「え……現地へ?」

「車庫が【増築】されているようでしたが、こちらお持ちいただいた登記簿というものには、それが反映されていないようですね。追加の表題登記はどうされたんでしょう」

 にわかに、宇佐見が身を乗り出した。

「あ?何それ、どういうこと」

 今までとまるで違う宇佐見の態度に薫子も身体が強張った。それは平岡も同じようだ。

「あ、えーとですね、そういうこともあるというか」

「確かに、所有者の沼目さんが車庫を作った旨の登記申請をしなければ、そういうこともあるでしょう。それならば、こちらの売買契約書の特約の欄に書いておくべきではないでしょうか」

 白井の言葉は丁寧だったが、先ほどまでの温かみがまるで感じられなかった。確かに白井は事情通のようだったが、薫子が気になっているのはそういうことではない。

「あの、白井さん。私が気になっているのは……そうではなくて」

「はあ。出過ぎた真似をして申し訳ありません」

 小さく頭を垂れた白井の横で、ひたすら平岡が固まっていく。

「いやいや、お嬢。大事なことでしょ?やっぱりね、現物を見てお買い物すべきよ。よし、さっそく行こう!」

 宇佐見が立ち上がる。それを平岡が顔を歪めて見上げた。

「あの、どちらへ」

「沼目さんのお宅よ。すぐ近くでしょ?オレが運転するから案内してちょうだいな」

「えっ!」

「そういやさ、もう小切手を渡したんだから鍵ももらえるでしょ?萩野谷組の出先機関にするつもりなんだよね。ちょうどいいから、間取りの確認をして、ソファの発注も入れとくかな。三百万くらいで良いの買えるかなあ。どう思う?アサトくん」

「はあ。そもそも、うちのベンツとランボルギーニが車庫に入るか不安だけど」

「そうしたら、お隣さんと交渉で土地を分けてもらおうかな。その時はまた平岡くんに仲介をお願いしよう。フレンド価格で仲介手数料も五千円くらいで良いよね?」

「そうだ。平岡さんの名刺をいただけますか」

 立て続けに二人の応酬を受け、平岡はハンカチで汗を拭いながら言った。

「あ、ああ、あの、今日は実は私も予定がありまして」

「忙しいの?」

「はい、申し訳ございません。あぁ、もうこんな時間か」

 平岡はテーブルの書類をかき集め、封筒に入れ始める。

「すみません、これから売主の沼目さんに連絡して、売買代金が口座に入ったかどうか確認しますので……失礼します」

「待ちなよ、平岡くん。小切手なんだから即金で入るわけないでしょ。銀行で手続きしなきゃ。だから、オレの車で沼目さんの家まで行けばいいじゃない。ついでなんだし」

「いやいや、買主様にそこまでさせては……」


 その時、背後のボックス席から声がした。

「はい、ストーップ」


 身を乗り出してきた人物に、薫子が声を上げようとした時、その口にアイスクリームを載せたスプーンがねじ込まれた。

 チョコレートパフェを片手に持ったまま、小柄な男がこちらのテーブルにやって来た。さらに、席にはもう一人、女性がクリームソーダを飲みながらこちらを見つめている。薫子に気づくと、苦しそうに頭を下げた。


 ――沼目、沙希さん。


 沙希もゆっくりと立ち上がり、こちらに歩いてくる。

「あ、チビ書士だ。遅いじゃんよ」

 宇佐見が藤石の頭を鷲掴みにする。それを無視して、藤石は平岡と対峙した。

「どうしたんです?平岡さん、どこにも司法書士が見当たらないですね」

「ふ、藤石先生」

「お電話では、他の書士が立ち会うというから、俺は泣く泣く身を引いたのに」

 藤石はパフェを食べ終えると、紙ナプキンで口元を拭いた。

「まあ、いいや。それで、みんなでどこに行くんだ?」

「お嬢が現地を見たいというから、これから沼目さん宅にお出かけしようと思ったんだけど、平岡くんが忙しいからダメなんだってさ」

「はあ。こうなると取引中止ですね。うちの幹部に平岡さんから説明してもらえますか」

 平岡は固まったまま動かない。その視線は一人の女性に向けられていた。

「HRKリアルエステートの平岡さん、ですね」

 沙希が一歩だけ前に歩み出た。そして、平岡が抱えた封筒に指をさして言った。

「返してください。それは、母の物です」

「う、これは」

「返してよっ!それで、二度とお母さんに近づかないでっ」

 泣き叫ぶ沙希に、周囲の客がこちらを見つめてきた。それらから庇うように、宇佐見が沙希の肩を抱いた。

「あらあら、どうしたの?一体何があったの?」

「この人は、お母さんを騙して、再婚の話まで匂わせて……」

 その言葉に薫子は息を飲んだ。


 ――騙す?


 宇佐見の腕の中で泣く沙希は、かつて見たような凛々しい姿ではなかった。弱々しく、可愛そうな少女でしかない。薫子は、平岡の封筒を見つめた。この取引は沼目の母娘を陥れる罠だったのか。それを、藤石たちが未然に防ごうと――。


「沼目さん……お嬢さん、お母さんに何を言われました?騙すなんて、人聞き悪いですよ?」

 平岡が困ったように笑みを浮かべる。確かに人を騙すような人物には見えない。薫子の疑惑が揺れ動き始めた時、妙な音声が聞こえてきた。


 ――電話が繋がらない――。

 ――土地だけ売れたと言われたのです――。


 それは、レコーダーから流れる女性の声だった。

 みるみる、平岡の顔が恐怖に歪み始めた。

「ま、まさか」

「はい。さっき、俺が沼目麻利さんの本人確認、および売却の意志確認をしてきました。売りたくないってさ」

 レコーダーのスイッチを切って藤石は満面の笑みを浮かべた。

「どうです?途中の俺のセリフもカッコ良かったでしょう?」

 すると、今度は別の方からレコーダー音が流れてきた。それは先ほどまでの薫子たちのやりとりだった。

「あ、シロップも準備していたのか」

「はあ」

 白井は黒いジャケットの中からさらにもう一つ録音機を取り出す。

「こちらは今も録音中です」

 平岡が勢いよくソファの上に立ち上がると、それを乗り越えフロアに駆け出した。

「あっ!」

「逃げた」

 すぐに宇佐見が幅広いストライドで追いかける。店を出た瞬間、憐れな悲鳴が聞こえてきた。外に出ると、宇佐見が完全に平岡を羽交い絞めにしていた。

「逃げちゃダメでしょ、平岡くん。ここは割り勘だよ」

「コーヒー代くらい出してやれよ。あんな車を乗り回す奴が何を言ってやがる」

「領収書は、ふじいし事務所で切りましたから」

 異様な三人に囲まれ、平岡はなおも抵抗した。藤石が楽しそうに顔を寄せる。

「あとの面倒事は警察に任せるとして、とりあえず書類は返してあげてくれます?」

 その返答より先に、宇佐見が封筒を取り上げて、沙希に手渡した。

「宇佐見さん」

「沙希ちゃんの泣き顔可愛かったなあ。でもね、笑顔が一番よ」

 すると、平岡が弱々しく笑い出した。

「はっ、そういうことかよ」

 今までの顔とは一転、醜く笑う男は急に悪態をつき出した。

「法律の先生方が正義の味方気取りか。せっかく、これで借金帳消しになるはずだったのに、とんだ邪魔が入ったよ」

「アンタが先に俺の仕事の邪魔をしたんだってば。次の登記案件は俺に回すように」

「でも、一気にたくさんの女の子とお知り合いになれたからなあ。その点では感謝だよ」

「……巻き込まれたこちらの身にもなってください」

 平岡は薄く笑った。

「変な連中だな。けど、我ながら上手い方法だろ?結婚をちらつかせると、大抵の女は言うことを聞くんだ」


 薫子は、身体中の血が沸騰したような感覚に襲われた。


「あなた」


 ――今、何と。



「女をバカにするのも大概にしなさい。誰もが愛する人のために一生懸命なんです。こちらの女性が、お母様のことでどれだけ胸を痛め、どれだけ悩み、辛い思いをしたか――」


 薫子は拳を握り締めた。


「思い知りなさいっ!」


 そのまま平岡のみぞおちに真っ直ぐ叩き込んだ。

 折れ曲がった平岡を宇佐見が慌てて抱き起こした。沙希は目を丸くして薫子を見つめる。


「こういう時、普通はビンタでしょう。ね、平岡さん」

 藤石が自分の左頬に触れながら笑った。

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