終章

 例年より一週間ほど早い梅雨明けが報じられた日、白井麻人は藤石の事務所を訪れていた。湯河原の物件に関する書類を手渡すためだ。

 内容の確認を終えると、藤石は大きく伸びをした。

「夏は嫌いだ。三日もあれば充分だ」

 応接に差し込む日差しはすでに真夏の様相だった。ブラインドを下げてもその威力がよくわかる。

「フジさん、もう一つお知らせがあります」

「たぶん俺もその情報は持っているぞ。ついさっき電話が来た」

 白井はスマートホンのメール画面を見つめた。そこには、沼目沙希からのメッセージがある。沙希の母親は、平岡から詐欺被害を受けた人々と協力して訴訟を起こすことにしたらしい。その背後には宇佐見が付いており、異国顔の弁護士はにわかに多忙となった。


 沙希の文章には、最後にこう記されている。


『白井さんには大変ご迷惑おかけしました。でも、頼りになる存在として、これからもアドバイスをお願いします。今度、ビリヤードしましょう』


 何もアドバイスをした記憶がない。最後の誘いの一文に、少々戸惑いながらも無難な返信をした。


 藤石がコーラをグラスに注ぎながら言った。

「結局、沙希さんと萩野谷一族で話し合いをして、遺産を分け合うことになったよ」

「そうなんですか?」

「唯一の相続人がそれを望んでいるんだよ。みんなで分けようと、二十歳の女の子が決めたんだ。大人たちは頭を垂れる思いだろうな」

「確かに、一億円の資産を一人で抱えるのは何かと大変そうですね」

「彼女は金なんかよりも大事なものを取ったんだよ」


 事務所のチャイムが鳴る。現れたのは派手なシャツを着た長身の男だった。


「お前が礼儀正しくチャイムを鳴らすなんて珍しいな」

 毒づく藤石の頭を宇佐見が叩いて言った。

「へへん、オレじゃないよ」

 巨体の後ろに何かが動いている。それが顔を出した時、何だか不思議な感覚に襲われた。

「は、萩野谷さんか……?」

 藤石の声が裏返った。


 そこにいたのは、明るく染め上げたショートヘアの少女だった。


「ふ、藤石さん。こんにちは……」

 恥ずかしそうに髪に触れるのは、間違いなく萩野谷薫子だった。白井にも気づいて、会釈をしてくる。

「どうしちゃったんだい。まるで外国の子供みたいだぞ」

「あの、おかしいですか?」

「いや、可愛いよ」

 きゃあ、と薫子が顔を覆って宇佐見の後ろに隠れた。

「実は薫子ちゃんは、我が宇佐見法律事務所をさっき退職したんだよ」

「それはまた急だな」

 薫子は藤石に深々と頭を下げた。

「おかげで萩野谷建設は何とかなりそうなんです。沼目さんにはお礼のしようがないくらい感謝しています。結局、お金の一部をいただけたのですから」

「まあ、当人らがそれで良いなら問題ないでしょう」

「父は来年には正式に引退を表明し、私が後を継ぐことになりました。そのご挨拶です」

 薫子の眼差しは力強く、あの頼りない令嬢とは思えなかった。

「何か、萩野谷さんも変わったねえ」

「はい、髪を染めました」

「そうじゃなくてね」

「海外留学するんです。だから、藤石さんとは少しお別れなんです」

 途中からわずかに涙声になった。社長就任より、こちらの方が驚かされた。髪を染めた理由はそこにあったらしい。どうも形から入るタイプのようだ。

「留学って、何しに?」

「経営を学びつつ、自分磨きも一緒に」

 薫子は真っ直ぐに藤石を見つめた。

「少しでも、藤石さんの近くに行けるように私も頑張ります。見ていてくださいね」

 すると、宇佐見が薫子の背を押した。

「よし、ここは感動のハグだ。ギューッと抱き合っちゃいなさい」

「いいえ、宇佐見さん。それは結構です」

 腕を広げ始めていた藤石が、途端に不自然な腕組みをして言った。

「遠慮しなくていいんだぞ?」

「私が本当に一人前になって、あなたと肩を並べる時までとっておきます」

 笑い転げる宇佐見に藤石が蹴りを喰らわす。それを横目に薫子が白井の前に立った。

「白井さん、色々とありがとうございました」

「はあ。僕こそ何もしていませんけど」

「いいえ、沙希さんから聞きました。あなたが陰で尽力してくれたことが今回の和解にも繋がったんです。本当に感謝しています」


 まるでそんな自覚はない。白井はかえって申し訳なくなった。

 薫子が少し背伸びをした。

「それと、お願いがあるんですけど……あの、私ずっと気になっていたことが」

「何でしょう」

「お顔を見せてくださいませんか」

「は」


 薫子が白井の前髪をどけた。

「沙希さんの言うとおりですね……綺麗」


 気のせいか、薫子の顔が赤い。白井はすぐに前髪を元に戻した。

「自分の顔は好きではありません」

「そうなのですか?でも、お声も素敵です」

「はあ」


 藤石と宇佐見が冷え冷えとした目でこちらを向いている。

 悪い予感がしてきた。

 白井はスマートホンを取り出し、この場をやり過ごそうと試みた。幸い、新着のメールが来ている。これに返信するとしよう。


 差出人は――。


「大河原……珠美?」

 内容は白井を夕食に誘いたいというものだった。


 それより、なぜアドレスを知っているのだ。


 画面をのぞきこんだ二人の男が、白井の肩に手を置いた。


「やりますなあ、白井くん。結局、美味しいとこ取りかい。参った参った」

「当然、代理人を立てるよね?」


 必死に言い訳を考える白井の頭を、夏の日差しが容赦なく照りつけた。


 【了】

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合法ブランクパワー(下記、色恋沙汰に関する一切の件) ヒロヤ @hiroya-toy

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