六月六日(金)夜 オルドビシャン・ピリオド
夜の八時を回っても、この街の人波が途切れることない。金曜日の渋谷はいつにも増して若者の姿が多いようだ。沼目沙希は店の前のメニュー看板をバータイム仕様に交換しながら、ネオンが輝く駅前の方を眺めた。生ぬるい風が吹いてくる。猛暑がやって来るまでの初夏の心地よい時間もそろそろ終わりが近い。
徒党を組んだサラリーマンの集団が楽しそうに店の前を通り過ぎていく。そして飲み屋が入ったビルのエントランスに吸い込まれて行った。休日前は心が踊る。必死に働いた後のご褒美なのだから当然だ。自分も来年からは今までとは違う日常を送ることになれば、いっちょまえにストレスだって溜まるのだろう。いくら寝ても疲れが取れない時もあるかもしれない。仕事と結婚とで悩むような日も来るのだろうか。
――それより、仕事覚えろって。
自分が社会の一員として名乗りを上げたところで、誰も見てはいないんだから。認められるのに何年、いや何十年かかるだろう。
――藤石さんのように。
一昨日に現れた小柄な男を思うと胸が熱くなった。すぐに忘れるかと思っていたのに、店に現れやしないか今日も気になっていた。もう、重症かもしれない。
坂の下から、女子大生のグループと男子学生のグループが微妙な距離を保ちながら歩いてくるのが見えた。
すると、その後ろからやって来た長身の男が、グループに割って入り、いきなり女子大生の背中を叩いた。
「今夜は楽しんできてね。けど、今度もし出会えたら、お兄さんとも遊んでよ」
女子大生たちの笑い声が聞こえる。長身の男はそのまま大きな歩幅でグループを抜き去ると、沙希に向かって手を振った。
「やっほい、沙希ちゃん」
「宇佐見さん?」
宇佐見は新宿店の時からの常連客で、その風貌からすぐに覚えてしまった。まだ当時新人バイトだった沙希にも気さくに話しかけてくれて、今ではすっかり仲良くなった。
確か三十歳手前くらいの年齢だった気がする。二メートル近い身長と彫りの深い顔、あご髭と茶色の瞳が外国人のように見える。おまけに、その態度や言動からも軽薄な女好きであることも知っている。楽しい男ではあるが、残念ながら永久に恋愛対象にはなりそうにない。
異国顔の男は満面の笑みを浮かべた。
「相変わらず良い感じのヒップだね」
「触らないでください。おまわりさんに捕まっちゃいますよ」
自分の性格のせいもあるが、多少のセクハラめいたことには慣れた。宇佐見流の挨拶だとわかっているし、今までも他のスタッフには手出しをしない。風貌のせいか、変なイヤらしさがないのが不思議だ。
「今日は負けないよ。オレが勝ったら夜通しデートだよ」
宇佐見が言っているのはビリヤードのナインボールのことだ。最近になって沙希を対戦相手に指名してくるようになった。沙希自身、ビリヤードは得意ではなかったが、この宇佐見も素人だったのでいつも接戦だった。どういう話の展開からか覚えていないが(なかば強引だった気がする)宇佐見が先に二勝したら沙希はデートをしなくてはいけないらしい。
今の対戦成績は一勝一敗。今日が大一番となっているようだ。
「あの、私はその賭けに乗った覚えはないんですけど」
「もう二十歳になって大人の仲間入りしたんでしょう?ホラ大丈夫」
話が通じ合わないまま、沙希はフロアの奥のビリヤード台に連れていかれた。
「いらっしゃいませ」
「宇佐見さん、こんばんは」
店員が次々と挨拶をしてくる。宇佐見の風貌に他の客も目を向けてきた。その中には沙希と宇佐見の勝負の行方を知っている者もおり、楽しそうに台の周りに集まってきた。
「宇佐見さん、お飲み物はいかがですか」
「そうだね、じゃあウィスキーでいいや。いつもの」
沙希がオーダーを入れると、水曜日の昼間にチラシを配った女子大生二人がカウンターに座っているのを見つけた。楽しそうに若いバーテンダーと話をしている。やはり度胸がある、そう感じた。自分にはこんな店に入る勇気はない。だいたい、同じ職場のスタッフにも関わらず、あのバーテンダーと会話をしたことはほとんどなかった。
わずかな敗北感を覚えつつ、沙希はグラスを持って宇佐見の元へ戻ろうとした。
すると、ちょうど新しい客が来店した。
「あ、いらっしゃいませ」
沙希はそうは言ったものの、客の風貌に唖然とした。
柔らかい照明の下に、細長い黒い影が浮かんでいた。
長い前髪、黒い服。
――この人。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか」
他の男性店員が何も気にすることなく男に近づいた。
「はあ。一人です」
その声を聞いて沙希は確信した。
――家に来た土地家屋調査士だ。
白井、という名前だったはずだ。沼目家の測量などをするために母親が呼んだ男だ。幸い、沙希はインターホンで話しただけで男と直接顔を合わせてはいない。特別に挨拶する必要もないだろう。
会釈をしながら白井のそばを通り過ぎようとしたとき、黒尽くめの男は男性店員に何か手渡した。店の特別優待券だ。
「ああ、宇佐見様のご紹介ですか」
その言葉に沙希の足が止まった。同時に男性店員も沙希の顔を見た。
「あれ、確か宇佐見さんは君とビリヤードやるために来店されてるよね」
返答に窮していると、黒服の男が声を発した。
「ウサ、さん?」
白井がフロアの奥を見つめている。ビリヤード台の近くに座っていた長身の男がこちらに気づいた。
「おや、アサト。何してんの?」
「い、いや。僕は」
――知り合いなの?
動揺する沙希の横で、男性店員が宇佐見の方を向いて笑った。
「こちらのお客様は宇佐見様のご紹介でいらしたんですよ。鉢合わせするとは偶然ですね。ありがとうございます」
「ちょい待って。スタッフの兄さん、今何と言ったのかな」
宇佐見がこちらに向かってくる。すると、白井が大きなため息をついた。
「はあ。最悪だ」
「やい、アサト。どういうことだい」
宇佐見が腕組みをして白井を見つめると、
「フジさんだよ」
恐ろしく低い声で黒服の男が答えた。
「あーっ!」
宇佐見が叫んだ。
「チビ書士めっ!薫子ちゃんの好意をまたしても無にしたのかっ」
「違うよ。あの人なりに珍しく気遣っていたし」
「む?何でアサトが色々と知ってるわけ?」
「巻き込まれた」
白井はうなだれたまま突っ立っている。
男性店員はこの空気に気まずくなったのか、沙希に視線を送ってきた。それに気づいた白井が、頭を垂れる。
「申し訳ありません。やはり僕は帰ります」
そう言われた以上、男性店員もどうすることもできず、会釈をして下がっていった。
白井は宇佐見に向き直って言った。
「ウサさんは別に企みがあるわけじゃないよね」
「失礼な。チケットを贈りたいと言ったのは薫子ちゃんだよ」
「そもそも……どうしてその女性と親しいの?またナンパ?」
「アサトもチビ書士のせいで思考が毒されてきたな。薫子ちゃんはオレんとこでバイト始めたんだよ」
「は?」
白井が首をかしげた。
「どういうこと?」
「チビ書士にフラれた薫子ちゃんを慰めたのさ。そうしたら、仕事を探しているというから、うちで雇ったわけ。一生懸命がんばっているのにさ。あのミクロ野郎にはさっさと天罰が下ればいいよ」
白井は下を向いて何か考え込んだ。そして、うなずきながら宇佐見に言った。
「なるほど。裏で糸を引いてないなら良かった」
「結局、アサトはチビ書士に利用されて来ただけかい。アイツも堂々と玉突きをやればいいのに。あ、でも台に届かないか」
「フジさんはウサさんの罠だと思ったんだよ。この店自体は一昨日に来ているそうだよ」
「えっ」
思わず沙希は声を上げる。宇佐見も白井もそれに反応した。
今日は金曜日。
一昨日は水曜日。
チビ書士。
土地家屋調査士。
ミクロ野郎。
宇佐見。
ウサさん。
フジさん。
――藤石さん。
「あ、沙希ちゃんっ!ごめんねえ。ずっと待ってくれてたんだ」
宇佐見は慌ててウィスキーのグラスを卓から受け取り、そして白井の髪の毛をグシャグシャとやった。
「コイツはお化けみたいな男だけど、オレの同級生。性格は暗いけど割と良いヤツだから安心してね」
そして宇佐見は気合を入れてビリヤード台に向かうと、白井はため息をつきながら立ち去ろうとした。
「ち、ちょっと待ってっ!」
沙希は白井の腕を取った。黒服の男がこちらを見る。
「ご迷惑おかけしました。帰りますから」
「いえ、そうじゃないんです」
「は?」
沙希は時計を見た。
バイト終了時間までは、あと二十分。
「宇佐見さん、ごめんなさい。勝負は次に持ち越しませんか?私、もうすぐ定時なんです。バイト終わっちゃいます」
「え、そうなの?せっかく夜通しデートが出来ると思ったのに」
ふてくされながらも宇佐見はキューを沙希に返した。
「本当にごめんなさい。あの、明日もシフト入ってますから」
「そっかあ。じゃあ次は相手してね」
宇佐見は沙希の頭を軽く叩くとカウンター席に向かって行った。そして例の女子大生二人に話しかける。すぐに意気投合したようで、楽しそうにおしゃべりを始めた。
「ウサさん、相変わらずだな」
ボソリと白井がつぶやく。そんな白井に沙希はそっと話しかけた。
「土地家屋調査士の白井さん、ですよね」
その言葉に、白井が壊れたロボットのように沙希の方に顔を向けた。
「は、あ」
「私、沼目沙希といいます。綱島の自宅の件でお世話になっています」
白井は後ずさった。
「あの、測量の依頼主の沼目さんですか」
「はい。先週は挨拶もせずに失礼しました」
いや、はあと白井は曖昧な返事をした。
「白井さん、ちょっとお話したいことがあるんですけど、九時半に渋谷駅の改札前で待ち合わせをお願いできませんか」
「はあ」
白井は少し考え込むようにうつむいた。
「お家のこと、でしょうか」
それには答えず、沙希は白井に頭を下げるとバックルームに引っ込んだ。
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