六月六日(金)午前 萩野谷建設株式会社

 昨日、藤石に押し付けられた優待券をどうしたものか考えながら、白井麻人は依頼主の会社に向かった。フロントで用向きを伝え、まだ新人と思われる女性社員に部屋に通されつつ、担当者を待っていると、やたら大きな声が聞こえてきた。思えば、いつもとは違う小部屋に連れて来られたが、社内で何かの配置換えでもあったのだろうか。


「社長、熊手工業が先月末をもって倒産しました」

 聞き覚えのある声だ。いつも白井と連絡をとる事業部長の倉本浩一郎だ。

「はあ。また飛んじゃったか」

 すると、のんびりした声が届いてきた。おそらく社長だ。数回だけだが会話をしたことがある。


 つまり、ここは社長室の隣室ということになる。確かに、白井は倉本との約束だとは伝えたが、あの新入社員は忠実にかつ言葉通りに行動したようだ。


「のんきなことを言っている場合ではありません。今、他社の売掛金の回収に全力を注いでおります。このままでは、我が社も共倒れになってしまいますよ」

「わかっておるわい。しかし、どこでしくじったのだろうな。はあ、もうダメか」

「いえいえ、社長の人望があってこそ、ここまで持ちこたえているのです。どうか、気を落とされませんように」


 何ともタイミングが悪い時に来てしまったようだ。会社の内情を盗み聞きしていると思われても困るので、白井はそっと席を立ちドア口に向かった。

 そこへ、タイミング悪く女性社員が茶を運んできた。にこやかにお辞儀をされ、再び白井は席につく羽目になってしまった。


「どうしたことだ。娘から返信が来ぬのだ。毎日メールを送ってくる優しい娘なのに」

「それはそれは……心配ですね」

「しかし、あれも自立しようと努力しておるのだろう。ああ、何と健気な娘なのだ」

「少し前までは私が学校に送り迎えしておりました。今ではすっかりご立派な淑女でいらっしゃいますね。それより社長」

 倉本が咳払いをした。社長の関心を娘から引き戻そうと必死なのがよくわかる。

「先日は、その、お兄様が……ご愁傷様でした」

「別に愁傷でも何でもないわ。ただ、面倒になった」

「と、おっしゃいますのは」

「兄貴の奴、遺言書を残しておった。総資産で一億円の相続だ」

「いちおくっ?」


 隣室の白井までも茶を吹きこぼしそうになった。

 とんでもない場面に遭遇してしまった。どうにかして逃げ出さなくては。


「ワシは義父との養子縁組によって、兄貴とは兄弟になったが、アイツは独身で子供もおらんから、遺産はワシの財産になるはずだった。しかし、だ。とんでもないことが書かれていたんだ。これから話すことは内密にするように。ただ、調べて欲しいことがある」

「社長」

「アイツめ、昔からお付きで雇っていた小間使いと密通していたらしく、その女との間に出来た子供を認知するなどと遺言を残してやがったんだ。子供がいたとなったら、そいつに一億円はわたってしまう」

「そ、そうなのですか?」

「ところが、だ。その小間使い――もう七十過ぎのバアさんだが、それが言うには兄貴との間に生まれた子供はらしいんだ。その場合はどうなる?一億はワシのものか?それを調べて欲しいわけだ」

「調べるというより、専門の方に相談した方がよろしいかと」


 息を殺す白井の耳に、ドアが開く音がした。


「白井先生、申し訳ありませぇん。今回の件ですが担当が別の者に代わったみたいですぅ。お部屋はあちらになりますぅ」

 新人の女性社員が白井に頭を下げた。


 ――助かった。


 話の内容は気になったが、そもそも遺産相続は白井の専門ではない。足音に気をつけながら白井はフロアを出た。閉まるドアとともに、社長の嬉しそうな声がかすかに聞こえた。


「おお、そういえばワシの娘が法律事務所で働きだしたではないか。さすが我が娘」

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