六月五日(木)夕方 横浜駅

 薫子は生まれて初めて仕事で得られた達成感に浸った。

 宇佐見に頼まれて、横浜元町の会社に書類を届けただけなのだが、他者が関わると仕事をしているという実感が強くなる。相手も薫子をそれなりの人物として接しようとするのがわかったし、こちらも弁護士宇佐見の代理で来ているという意識を持つことができた。

 もちろん、完璧にこなせたとは思えない。ところどころ言葉もつっかえたし、敬語もメチャクチャだったのはわかる。それでも、極度の緊張感から解放された今、薫子は鼻歌でも歌いたくなる気分だった。


 宇佐美に連絡すると、もう夕方の五時なので今日はそのまま帰宅して良いと言われた。このまま電車で家の最寄りまで出られる。しかし、次の停車駅のアナウンスを聞いて、薫子は思わず立ち上がってしまった。


 ――横浜。


 バッグから手帳を取り出す。宇佐見に教えてもらった藤石の事務所。住所は横浜。確かこの駅から近いと言っていた。


 行ってしまおうか。どうしよう。


 電車が止まり、思い悩む小さい身体を大勢の乗客が励ますように外に押し流す。薫子の心は決まった。人の流れと一緒に改札を出ると、そばにいた駅員にだいたいの住所の場所を聞いた。横浜の駅ビル周辺は、若者や主婦、高齢者まで幅広い年齢層の人々で溢れていたが、新宿や渋谷とはまた少し違うように思えた。やはり、観光地なのだろう。大きな荷物を持っている外国人の姿も見受けられた。近くの書店で横浜周辺の地図を確認すると、藤石の事務所は大きな道に沿って歩き、途中にある複合ビルを曲がると近いことがわかった。

 

 まだ外は明るいし、迷子になっても引き返せば良いだけだ。薫子は一旦デパートの洗面所に戻って身なりを確認し、前髪を整えた。


 ――謝らなくては。


 今日は初対面のクライアントとも立派にやりとりできたではないか。藤石とは、一度会っているのだ。薫子は気合を入れ直して、西日に照らされた横浜の街に繰り出した。地図で見る以上に、道は複雑で、工事中のために迂回を要される箇所もあった。大きな通りに出るまでにすでに二回は迷ったが、何とか目印となる複合ビルを見つけた。


 どこかから、良い匂いがしてきた。見れば、スーパーの駐車場に人だかりが出来ており、そばにはワゴンが止まっている。移動販売のドーナツの店のようだ。学校帰りの高校生が座り込んで食べているのも見えた。薫子は、そのキャラメルやナッツの匂いに誘われて、列に並んだ。


 ――甘いもの、お好きかしら。


 全部で四種類のドーナツを一つずつ購入した。会えるかどうかもわからない。それでも、一緒に食べることが出来たら、と思うだけで心が躍る。薫子は袋を大事に抱えながら、さらに道なりに進んだ。複合ビルを通り過ぎると、果たしてコンビニは見えてきた。その二軒隣が学習塾のせいか、中高生が頻繁に出入りしている。店の脇にはガラス張りのドアがあり、中をのぞけば二階へ続く階段も見えた。


 ガラス戸には『ふじいし司法書士事務所』と書かれている。

 心臓が、大きく波打った。


 しかし、薫子はドアに背を向けると、逃げるようにコンビニの中へ入った。今日は、事務所の場所だけ知りたかったのだ。それに仕事中かも知れない。同じ空気に触れていると考えただけで心が熱くなった。

 コンビニのカウンターには海外アーティストの来日公演を知らせるポスターと、前売りチケット発売のポップが貼られていた。


 ――チケット。


 手紙は読んでもらえただろうか。投函したのは火曜日だから、少なくとも到着はしているはずだ。薫子は事務所の郵便受けが気になったが、覗き見したらそれこそ問題だ。今度こそ嫌われてしまう。コンビニを出て、外から二階の窓を見上げた。人の気配は感じられない。宇佐見によれば、藤石一人で事務所経営をしているとのことだから、いないのなら鍵も開かないはずだ。

 薫子は再び二階に続くドアの前にやってきた。そして、ゆっくりと階段を踏み出してみる。上りきったところで、少し広めの踊り場にダークグレーのドアが見えた。階段はさらに三階まで続いているようだ。

 ドアにはやはり同じように事務所の名前が書かれている。

 そこに、何やらメモが貼られていた。


 ――外出中です。御用の方はお電話でご連絡ください。


 やはり不在だ。

 薫子は胸をなでおろした。緊張が一気に和らいでいく。勇気が足りていないことも再認識したが、今日はこれだけでも充分な成果だ。せっかく買ったドーナツも家で食べてしまおう。日持ちするなら、宇佐見と分けるのもありだ。

 薫子はヒールの甲高い音を立てながら階段を降り、外に出るドアに手をかけた。突如、それが自動的に開くと、目の前に影ができた。自然と薫子の足は止まる。

 

 西日に照らされて立っているのは、

「いらっしゃい」

 藤石だった。


「んきゃあっ」

 薫子は悲鳴とともに身体が硬直していくのを感じた。

 帰って来ちゃった。

 汗が溢れてくる。顔が熱い。息が苦しい。


 どうしよう。どうしよう。

 何か言わなきゃ。謝らなきゃ。でも、この場を逃げなきゃ。


「ごめんなさぁあいっ」

 声が裏返りながらも何とか言葉にすると、薫子は藤石の横をすり抜けようとした。

 しかし、目の前の男がそれを許さなかった。

「待ちなさい。俺に用事があって来たんでしょう?」

 眠そうな目で薫子を見つめた。


 見ないで――。


 下を向いた。

 下を向きながら薫子は必死に弁解した。

「ごごごめんなさい何もしてませんちょっと横浜に用事があってそれで近くまで来たからお詫びしようと思ったんですがお留守だったから帰ろうと思って今から帰りますっ」

 一気にまくし立てて、何度も頭を下げた。


 お願い許して――。

 涙が出そうになる。


「えーと、何だその」

 ため息とともに藤石が言った。

「この前は俺も悪いことをしたと思ってますから。そんな謝らないで下さい」

 薫子は顔を上げた。

 藤石は相変わらず眠そうな顔だ。手にはコーラのペットボトルを持っている。

「萩野谷さん、でしたっけ」

「は、は、はいっ」

「俺もコンビニにいたんです。そしたらあなたを見かけてね。もしやと思ったんです。それはそうと手紙読みました。ありがとうございます」

「い、い、いえっ」

 ちゃんと、受け答えしなきゃダメじゃないか。しかし、その言葉一つ一つに気が遠くなりそうだ。私に向かって投げかけているのだから。

「ただ、すみません。期日までに店に行く時間がなくてですね、代わりにコーヒー好きの仕事仲間に有効利用してもらうことにしました」

「い、良いんです。わ、私ももらったものですからっ」

「もらったもの?」

「ハイ、う、宇佐見さんに」

 藤石が眉をひそめた。

「そういえば宇佐見と親しいようですけど、差し支えなければご関係をうかがっても良いですか」

「はい、今週から宇佐見さんの事務所でお仕事させてもらってます。私、世間知らずだからって。それで」

「んえ?」

 変な声がした。

 藤石の口が開いている。

 こんな顔もするなんて。

「し、仕事?まさか法律事務?」

「あの、私は社会経験がないものですから、難しいことはわかりません。パソコンの使い方を教わったり、お茶を入れたりお花を生けたりしています。今日はお客様のところに書類届けたりとか」

 再び藤石は眠そうな表情に戻り、薫子を見つめた。

「アイツに何かされていませんか?不快な思いをしているとか」

「そんな、全然ありません。とても親切にしてくれます」

「俺のことは、アイツに聞いたんでしょう?ボロクソに言ってませんでした?」

「ボロクソって何ですか?」

 藤石は何度か目をしばたかせると、一言、

「いや、何でもないです」

 と言った。その後、しばらく会話が止んでしまった。


 どうしよう。

 何か怒らせてしまったのだろうか。

 もう、あの時に戻ってやり直しなどできない。ここから、進むしかないのだ。


 薫子はドーナツの紙袋を差し出した。


「さっき、そこで買ったんです。甘いもの苦手じゃなかったら召し上がって下さい。今日は本当に申し訳ありませんでした」


 涙がこぼれてくる。

 どうして、好きな人の前でこんなに泣いてばかりなのだろう。一番、幸せな時間のはずなのに、すごく辛い。


「でも、好きなんです」


 これは、間違いなく真実なのだ。涙が出ても胸が痛くなっても、この気持ちだけは確信できた。


「宇佐見さんにも言われました。順番が大事だって。でも、もう手遅れですよね。貴方の気持ち考えていなかった。私は子供みたいに自分のことだけしか見えていなかったんです。もう三十二歳なのに」

「三十二ぃ?」

 かぶせるように藤石が言った。そして、わずかに見開いた目で薫子の全身を眺める。

「ふむ、これは驚いた。天然記念物だな。ウサの気持ちもわかる気がするな」

 ふいに手が軽くなる。ドーナツの紙袋を手にした藤石が言った。

「俺と同い年だ。敬語やめようか」

「む、む、無理です」

 ならば仕方ない、藤石が苦笑した。しばらくの間を置き、眠そうな目で薫子を見据えた。

「萩野谷さん。結婚というのは、一人じゃできませんよね。相手の気持ちも大事だと思いませんか?」

 胸に突き刺さる。でも、この人の言葉は受け止めたい。

「人生を共に歩む、これは簡単なことではないです。好きという感情だけでは成り立たないんです。なぜなら、それも絶対的なものじゃないからです」

「で、でも」

「萩野谷さんは子供の頃に好きだった人形や、夢中になったアイドルを今も愛して止まないですか?」

 薫子は言い返せずにうつむいてしまった。もちろん、今も大事にしている宝物はある。しかし、そうじゃない物の方が多い。

「俺の持論ですけど」

 藤石が壁に寄りかかって宙を見つめた。上向きの顔に見とれそうになる。

「聞いてます?」

 こっちを見ずに藤石が言う。

「は、はいっ」

「俺はね、男女の関係に限らず人間関係は何もかも信頼ありきだと思っています。どこまで相手を信じられるか、どれだけ相手の信頼に応えられるか。それを構築するには時間がかかるものです。特に結婚などは短絡的に感情だけでするものじゃない。相手の人生を背負うわけですからね。お互いに」


 言葉の一つ一つに重みを感じた。藤石が発するものだからだ。こんなにも心に染み込んでくる。


「そんなわけで、俺はあなたと結婚できません。最初にこう説明すべきでしたね。無駄にあなたを傷つけてしまい、反省しています」

 すみませんでした、と藤石が頭を下げた。

「そ、そんな。私が悪かったんですから」

「確かに、世間一般ではそう思われるだろうな」

 薫子の思考が一瞬だけ止まった。藤石は口をひん曲げて笑うと、すぐさま、元通りの顔となった。

「わかりました?俺はこういうことが平気で言える人間です。変な幻想を抱かない方が最終的にあなたのため。それに今は仕事が忙しくて女性と関係を育むのは難しいですね。土日も仕事だし。遊びの男女関係でも時間がない。今すぐ帰って寝たいくらいだ」


 宇佐見の忠告を思い出した。


 ――恋人にするには難ありだよアイツは。

 ――酷い人間なんだ。


 そうだろうか。

 こうして真正面から私に向き合ってくれている。正直に、全部話してくれている。


 ガサガサと音をさせて、藤石が紙袋をのぞいた。

「おお、ドーナツか。俺は甘いものが大好きなんです。ありがとう」

 その笑顔と気持ちを向けられたドーナツが羨ましい。


 ――ああ、やっぱりダメだ。


「ごめんなさい。私、やっぱり貴方が好きです。もう少し頑張って良いですか」

 すごいねえ、藤石は困った顔をした。

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