六月五日(木)昼過ぎ 大河原家

「ほら、珠美っ!いつまで寝てるんだいっ」


 母親の怒鳴り声とともに布団が引っ剥がされた。窓から差し込む陽の光に顔をしかめながら大河原珠美おおがわらたまみは布団を求めた。

「うるさいなあ。休みの日くらいゆっくりさせてよ」

「充分ゆっくりさせたよっ。もう昼の一時だよっ。ほら起きろっ」

 母親は珠美の身体を揺さぶった。その瞬間、猛烈な吐き気が襲ってきた。

「う」

 珠美は寝床を飛び出すと、一目散にトイレにかけこんだ。ドアの外で母親のため息が聞こえる。

「ああ、もう。情けないよ。昨日の夜いきなり神田から帰ってきたかと思えば、バカみたいに酒飲んでて化粧も落とさずに寝ちまいやがって。何だってこんな娘になっちまったのかね。二十六だというのに子供みたいにさ。昔は十五でネェヤは嫁に行ったもんだよ」


 珠美はえずきながら母親の小言を聞いていた。昨夜は、高校時代の友人に誘われて合コンに参加していた。場所も実家の方だったので、休みを取ってゆっくりするつもりでいたのだ。それにしても、この年にもなって説教を喰らうとは思いもしなかった。いつまで私に干渉する気だ。こっちは都内で働きながら一人暮らしもしているというのに。


「はあ、たまには家の手伝いでもしたらどうだい。お父さんはもう店に出ているんだよ」

 どうして休みを取ったそばから働かねばならない。

 珠美はふらつきながらトイレから出ると、母親に言った。

「何が気に入らないのよ。一人で働いて生活してるじゃん」

「だって、お前。結婚はどうするのさ」

「ちゃんと考えてるってば。相手もいるって前にも言ったでしょ?」

「ちっとも連れてこないじゃないのさ」

「タイミングってものがあるのっ」

 珠美は母の横をすり抜けると、洗面所で顔を洗った。


 タイミング。


 誰が考えたか知らないが、便利な言葉だと思う。自分の思い通りにならないことは、全てタイミングのせいに出来る。


 私も彼も。


 でも、女にはある一定の時を越えると、相手のタイミングに合わせて待っている時間がなくなるのだ。

 本当は違うんじゃないか、もしかして運命の相手とやらは、正樹ではないのかもしれない。一度、疑ってしまうと、この呪縛から抜け出せなくなった。あの人と一緒にいる、いや待っているだけの時間は無駄になってしまうかもしれない。

 その恐ろしさ。

 正樹のことは好きだ。彼も私を好きだという。もう三年以上付き合ってきた。

 何が、まだ足りないんだ。

 その苛立ちもあって、合コンの誘いに応じた。結婚に前向きな男性が何人もいた。

 正樹と何が違うのか。珠美はそれが知りたくてアドレスの交換まで

 してしまった。正樹という恋人がいるのに。


 ――違う、ちょっと興味があっただけ。結婚を意識する男がどんなものか知りたかっただけなの。


 気持ちをごまかすように、言い訳するように、さんざん飲んだ。

 ただのバカだ。でも、楽しかった。


 珠美は鏡に映る自分の顔を見て思わず笑った。よれたファンデーション、溶けたマスカラ、昨日はなかった吹き出物。昨晩参加した男性陣が見たらどう思うだろう。

 正樹は見慣れちゃっているから、きっと何も言わないだろうけど。



 母親が作ったチャーハンを食べながら、珠美はぼんやりテレビを眺めた。ワイドショーは最近流行りの婚活について報じている。

「何々、婚活って」

 予想通り母親の興味を引いたようだ。

「結婚活動の略よ。積極的に結婚相手を探すことを言うみたいね」

「あら、お前も見ておけば?」


 ――だから、やってるってば。

 そう言いかけてやめた。


 テレビのVTRは、医者や弁護士といった高収入の男性のみが集まる合コンや、子供のお見合い相手を探すために、両親が一同に集まる催しなどを次々と流していた。


 あり得ない。


「やだ、親がこんなことまでするの?あらら、今の人、相手の親に断られちゃったわ」

 結婚が、結果的に家族と家族の繋がりとなるのはよくわかる。けれど、これでは結婚する二人の関係構築をすっ飛ばしているのではないか?ある意味、時代に逆行している。

 不快になってチャンネルを変えると、ちょうど昼のドラマでは婚約破棄をされた女が、妻子ある男と不倫をしていた。珠美は、テレビを消し、リモコンをソファに放り投げた。それを見ていた母親は、肩をすくめて席を立ち、洗い物を始めた。


 結婚というのは幸せのバロメーターかと思っていた。価値観の違いや、時代の変化で必ずしも結婚が最重要ではないことは百も承知だ。しかし、結婚の知らせを受ければ万人が祝福するではないか。ワイドショーもドラマも単純な幸せ物語を流したところで面白くも何ともないから、ああやって揶揄したり、ドロ沼の愛憎劇をこさえたりするのだろう。つまり、度合いはどうあれ、世の大半の既婚者は幸せなのだ。

 結婚したいと、いつから真剣に考え始めたのか。確かに真剣だ。出会いも自分磨きも力を注いでいるつもりだ。けれど、真剣に向き合いながらも一向にわからないことがある。

 どうして結婚したいのか。幸せになるためか。しかし、百パーセントの保証はない。

 自分には結婚したい理由がない。もちろん、結婚したくない理由もないのだけれど。


「珠美、お前もサクランボ食べる?佐藤錦、山形の叔父さんが送ってきてくれたんだよ」

 ガラスの器に盛られた瑞々しいサクランボがテーブルに置かれた。

 水滴をはじいた赤い果実。


 もう夏になっちゃうのか。


「たくさんあるよ。持って帰る?」

「本当?ありがとう」

 珠美は携帯を持ち出して恋人の正樹にメッセージを送った。返信はすぐに来た。

『サクランボ食べる。ありがとう』

 母親に伝えると、プラスチックのパックにサクランボを入れてくれた。

「でも、まだこんなにあるね。ああ、そうだ。下の先生も食べるかしら」


 下の先生というのは、この建物の二階で事務所を経営している司法書士のことだろう。珠美の両親はコンビニのオーナーをしており、父は一階の店舗で働いている。今、珠美と母親がいるのは最上階で、両親の住居となっていた。下の階の司法書士は、珠美が一人暮らしを始めた後に開業をしたらしく、ほとんど面識はない。


「あの人、可愛い顔だけど、結構な年齢らしいのよね。珠美、持って行ってあげて」

「え?私が行くの?」

「うちはね、先生からの家賃収入で助かっているとこもあるのよ。ちゃんと挨拶くらいしなさいよ」

 母親は小さいピンクの器にサクランボを入れると珠美に手渡した。しぶしぶ受け取って玄関に向かうと、

「ちょっと、アンタ寝巻きで行くつもり?それと眉毛くらい描きなさいよっ」

 まったくねえ、母親が呆れ果てた。


 確かに初対面に近い男性相手にスッピンをさらすのは勇気がいる。いや、二度と会わないならスッピンでも構わないが、〝可愛い顔〟をしているらしい男なら、それなりの準備は必要だろう。珠美はよれたスウェットを着替えると、髪をとかして、眉毛を描いた。ついでに薄くリップも塗ることにした。そして、母親がサクランボを食べているのを横目に外へ出た。


 階段を降りてゆき、二階の事務所の前に差し掛かるところで突然ドアが開いた。


 中から黒い上着を着た細身の男が出てきた。


「あっ」

 ちょうど出かけるようだ。

 しかし、珠美は声をかけるのを躊躇した。振り向いた男は、上から下まで黒い服なのはともかく、長い前髪と白い肌が怪しさ十二分だったのだ。

 

 これが、先生?

 あの前髪で、どうして可愛い顔などとわかる。


「先生、ですか」

 珠美は勇気を出して恐る恐る尋ねてみた。

「は、あ。いや、いいえ」

 その声は予想に反して綺麗な低音だった。前髪の長い男は妙に驚いた様子で、ドアをもう一度開けると、何やら中に声をかけた。そして、珠美に会釈をすると、駆け足で階段を降りて行ってしまった。


 ああ、お客さんだったのか。

 ようやく納得できた珠美は半開きのドアをのぞいた。


 目の前には、珠美より背丈の低い男が立っている。ひどく眠そうな顔をしているが、なるほどカッコいい顔なのかもしれない。しかし、珠美のタイプではなかった。例えるなら、中高生の時には憧れたけど、社会人になったらそうでもなくなったという感覚に近い。それに、やはり自分より長身であって欲しい。


 怪訝な顔をした司法書士に、珠美は慌てて頭を下げた。

「大河原です。いつも両親がお世話になっています」

「ああ、何だ。オーナーさんのお嬢さんか」

 初めまして、男は笑った。


「母の実家からサクランボが送られてきたんです。良かったらどうぞ」

「これはご丁寧にありがとうございます。いただきます」

 ピンクの器を手渡すと、男は珠美に向かって言った。

「普段はお目にかかりませんね」

「はい。神田で一人暮らししているものですから」

「なるほど。ゆっくり里帰りですか」

 珠美は司法書士に頭を下げると、相手も会釈をしてドアを閉めた。


 ――笑った顔は、まあまあ良いかもね。


 家に戻るや、テーブルを拭いていた母の目が、飛び出るくらいに見開かれた。

「お、お、お前っ!そんな格好で行ったのかいっ!」

「は?」


 珠美は自分の姿を確認した。

 上はブラウス、下は黒のタイツ。


 タイツ、だけだった。


「っきゃああぁあああーーーーっ!」

「この、バカ娘っ!股引き一枚じゃないのさっ!お前なんか一生嫁に行けないよっ。先生に笑われただろうっ!」


 確かに笑っていた。しかし、何も言わなかった。あれが、紳士的な態度というものなのだろうか?

 いや、呆れ返っていただけに違いない。思い返すたびに悲鳴が出そうになる。

 

 珠美は履いていくはずだったスカートを抱きしめて一人で悶々としていた。

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