六月五日(木)午前 ふじいし司法書士事務所

 土地家屋調査士の白井麻人しらいあさとは満員電車に押し込められていた。


 昨夜遅くの通り雨はすさまじかったが、今朝は見事に晴天だ。お天気キャスターですらも予報が外れて申し訳ないとテレビで笑いながら謝っていたように、ここ数日のゲリラ豪雨に予定が狂った人間も多いだろう。最近続いた雨のせいで湿度は上昇し、肌にまとわりつくような空気が梅雨の到来を告げている。

 そんな中をいつも利用していた電車が信号トラブルで運転見合わせになってしまい、仕方なく目的地まで迂回することになった。満員の乗客たちの苛立ちもピークに達していると思われた。


 今日は業務提携をしている司法書士の藤石を訪ねに横浜に出てきた。互いの業務はそれぞれ手出しができないため、時々タッグを組んで仕事をすることがあった。


 ――もう、五年か。


 藤石と知り合ったのは、高校時代の親友である宇佐見一正に仕事を通じて紹介されたのがキッカケだった。大学の先輩と後輩ということらしいが、初見ではたいそう驚いた。どう見ても中高生にしか見えなかった小柄な男は、白井や宇佐見より三歳も年長だったのだ。そのせいか、宇佐見は在学中ずっと藤石を後輩だと思い込んでいたようで、今でも藤石を先輩として接しているところを見たことがない。


 そして、この宇佐見という男、風貌だけでなく内面もラテン系の外国人のようで、多くの人間を戸惑わせてきた。しかも弁護士である。こんな男と自分が高校時代からの友人同士というのも不思議に思えた。ところが、当の二人に言わせれば、白井自身も珍妙だという。常に黒い服を着て、前髪を長く伸ばし、しかも無口で無表情。これはすべて、白井自身が色白であること、顔立ちが好きではないこと、声が異様に低いことを隠すための手段に過ぎないのだが――。


 まさに三者三様。

 大喧嘩をすることもなければ、特別に仲が良いわけでもない。利用し合うことさえある。

 不思議な間柄だ。


 藤石の事務所はコンビニの二階にある。『ふじいし司法書士事務所』と掲げられたドアの前に到着したとき、そこの主は苦痛に満ちた面持ちで出迎えてくれた。

「こんにちは、フジさん」

「お疲れシロップ」

 いつもどおりのやりとりだったが、その具合が悪そうな声に白井は驚いた。


 こんな藤石は初めて見た。だから白井は当然の言葉をかけた。


「大丈夫ですか?元気ないですね」

「ああ、そうかな」

 珍しいこともあるものだ。確かに、ここ最近は天気も安定せず、寒暖差の激しい日が続いている。多忙の藤石が体調を崩すのも時間の問題だったのかもしれない。

 応接室で待っていると、藤石は緑茶を用意して部屋に入ってきた。

「珍しい。フジさんも今日はコーラじゃないんですね」

「あいにく切らしている。俺としたことが」

 藤石は茶をすすると、そばに置いてあった封筒を白井に渡した。

「はい、これ。建築確認書類の一式。よろしく」

「はあ。さっそく明日にでも現地調査行きます」

 白井の今日の用向きは、藤石の得意先の資料を受け取るためにやって来た。それに目をやりながら、白井は先日の沼目家のことを思い出した。

「そうだ、フジさん。例の件ですけど」

「おお、測量終わった?」

「はあ。もう印鑑ももらったので登記入れられます。けど、契約が決まった後に申請することになりました。それと、何だか売買金額のことを気にされているようでして」

「そればっかりは口出しできないもんな。売り仲介の腕次第かな」


 少しでも手元に金が残るように高い価格で売りたいと願うのが当然だろう。しかし、売れないことには意味がない。その駆け引きに関しては士業の人間がとやかく言うことではないし、どんな展開にも淡々と仕事をこなすだけである。


「何とか売却が決まって、早く俺のところに仕事を回して欲しいもんだ」

「はあ。先方にもフジさんのこと話してありますから」

 藤石は嬉しそうに笑ったものの、すぐさま深いため息をついた。


 いよいよ心配である。


「熱でもあるんじゃないですか?すごく辛そうですよ」

「熱?」

 藤石が苦笑いをした。

「身体自体は何ともないよ。ただ、非常に悩ましいことが起こっている。そうだ、シロップに相談しちゃおうかな」

「はあ。僕にですか?」

 藤石が自分に相談など、今まであっただろうか。これはよほどの事が起きているに違いない。

「あの、力になれる自信はないですけど。とりあえず話は聞きましょうか」

 すると、藤石は一通の封筒をテーブルに置いてみせた。薄いピンク色のそれは、封の部分がレースのようなカッティングがされており、なかなか洒落たデザインだった。

「はあ。手紙ですね」

「もしも、シロップだったらどうするか教えてくれ。あのさ、もしもだけど」

 藤石の口から語られたのは、およそ現実的ではない話だった。


 電車の中でひとめぼれされて、雨の中を追跡され、その日のうちにプロポーズを受ける。


 それは――。


「困りますね」

「そうだろっ?そう思うだろう?俺は間違ってないよな?」

 藤石の言葉に白井は動揺した。

「ま、待ってください。もしも、の話ですよね?実際にフジさんの身に起きたとか?」

 自分でも珍しいと思うくらい声が上ずる。うなずく藤石に白井はいたたまれなくなった。それと、相手の女性にも同情した。おそらく、この小柄な司法書士は正面きって断ったに違いない。老若男女問わず言いたいことは刃のようにハッキリ言う男だ。それにしても、様子がおかしい。確かに状況が突発的とはいえ女性に言い寄られるのは珍しいことではないはずだ。いつものように平然としていられない理由があるのだろうか。


 そして、その答えがこの手紙にあるのだろうか。


「見て良いぞ」

「良いんですか?」

「内容自体は問題じゃないんだ」

「はあ」

 白井はそっと便箋を取り出すと、そこには女性の可愛らしい文字が並んでいた。


 司法書士 藤石宏海様


 先日は、大変失礼なことをして申し訳ございませんでした。貴方の気持ちも考えず、愚かな行動を起こしてしまったこと深く反省しております。そのお詫びではございますが、こちらのチケットを同封させていただきます。


 ですが、私の気持ちに偽りはございません。さんざん泣いて、貴方への想いを断ち切ろうかと思いましたが、夢の中にまで出てきてしまいます。あの日、電車で見かけたあなたが忘れられません。レストランでのお仕事ぶりも、素敵でした。


 もしも願いが叶うのであれば、もう一度お会いして謝りたいと思っております。


 不安定な天候が続きますが、どうぞご自愛ください。


                                              萩野谷薫子


「はあ。本気なんでしょうかね」

「そうなんだよ。ここまでの気持ちをぶつけられるのも久しぶりだ。ちと胸が痛い」

 そう言う藤石は本当に辛そうな顔をした。何だかんだで優しいところもあるのだ。


 しかし、その顔が凶悪なものに変わった。


「シロップ。本題はここからだ」

「はあ」

「この萩野谷薫子さんは俺を懸命に追いかけてきたのだが、俺はどこで彼女に捕まったと思う?」

「はあ。わかりません」

「ウサの事務所だ。その日の午後にウサと約束があったんだ」

「はあ」

 藤石は身を乗り出して、白井の顔を見つめて言った。

「彼女が電車の中で俺を見かけて、ファミレスで俺の華麗な仕事ぶりを見学し、そして銀行の前で二時間近く待ち、さらにタクシーに乗った俺を追いかけてきた、というこの執着ぶりは問題ではない」

「は……え、そうなんですか?」

「大学の時に、もっとすごい追跡をされたこともある。それに比べれば大したことない」

 白井はとりあえず意味もなくうなずいてみせた。

「良いかシロップ。問題は、だ。何で俺の事務所の住所を知っているのか、という点だ」

「はあ」

「さらに、宛名が司法書士の藤石宏海様となっているのも問題だ」

「ウサさんが教えたんでしょうね」

 藤石がテーブルを叩いた。

「あんにゃろう。絶対に何かを企んでやがる。また俺を罠にはめるつもりだ」

「考え過ぎじゃないですか?」


 藤石は封筒からチケットらしきものを取り出した。


「よく見ろシロップ。これは『オルドビシャン・ピリオド渋谷店』のオープン記念会員様特別優待券だ。裏面にはウサの名前が思いっきり書いてあるだろうが」

「はあ。ウサさんも抜かりましたね」

 チケットには手書きで『宇佐見一正様ご紹介』と書かれている。一応、使える店舗は限られているようだ。

「しかも、この特別券の説明書きによると、使われることで紹介者のポイントも増えるらしい。つまり、俺が使うか使わないかがウサにバレてしまうわけだ。そしてそれは萩野谷薫子さんにも筒抜けになる。俺がどういう男か彼女に知らしめようとしているんだ」


 憎々しげに言う藤石を見つめつつ、白井は茶をすすった。


 結局、どういうことなのだろう。


「フジさん。どうしたいのですか」

「泣かせてしまったようだからな。とりあえずこっちも謝らねばならないと思っている」

「だったら、普通に返事を書けば良いだけなのでは?」

「俺はいつも真っ向勝負だ。今度はちゃんと諦められるように断る」

「はあ」

 藤石もそれなりに気に病んでいるのはわかった。しかし、問題はそこではないようだ。


 つまり、


「彼女とコンタクトを取るのに、ウサさんが関与してくるのがイヤなんですね」

「まったくもってその通りだシロップ!」

「確かに、彼が単純に高みの見物しているだけなら僕も許せませんね」

 藤石が少し身を引いた。

「まさかお前が怒るとはな。しかし、今の声はかなり怖いぞ」

「はあ。すみません」

「しかし、シロップは理解が早いな。よしよし良い子だ」

「はあ」

 白井はもう一度手紙の文面を目で追った。文字や綴り方だけを見れば、良識のある女性だとは思うが、そんな突拍子も無い行動に出るとなると、やはりどこか欠落した人物なのだろうか。そうは思いたくないが。


 それにこのチケットの意図だけが妙に気になる。本当に彼女のお詫びの気持ちなら受け取っても良いのだろうが、どうして宇佐見の紹介券である必要があるのかがわからない。普通に贈答用の券でもいいはずだ。何にしても、行くか行かないかは急いで決める必要はないと思われた。


「フジさん。とりあえず様子見で良いんじゃないでしょうか」

 しかし、藤石は頭を抱えた。

「俺もそうしたい。けど、このチケットが使えるのって明日までなんだよ」

 よく見ると、下に小さく有効期限が書いてある。

「確かに店の雰囲気は良くて、シフォンケーキも美味いんだが、昨日行ったばかりだし、ケーキ目当てに思われるのもなあ。あそこの社長が増資や新株予約権の登記とか依頼してくれたら話は別なんだけどなあ」


 藤石が難しい顔をして唸った。そして、白井の予想通りの言葉が発せられた。


「代わりにシロップが行ってくれない?」

「イヤです」


 間髪入れずに拒否した白井を、藤石は眠そうな目で見つめた。

「冗談だよ」

 ため息をつくと、端正な顔の男は困ったように笑う。

「もしかしたら、店の前で萩野谷薫子さんが待っていらっしゃる魂胆なのかな。昨日はいなかったけど、郵便が届くタイミングからして今日明日はその可能性があるな。ウサが仕向けたとしたら悪質過ぎる」

 その言葉に白井は少し腹が立った。前髪の隙間から藤石を見据えた。

「ウサさんは女性に対しては本当に優しい人です」

 その視線を藤石が横目で受け止めた。

「そうか?女好きなだけだろ」

「それにしたって、女性を一日中ずっと立たせるようなことはしませんよ」

「ふん、他に何か大きな利権が関わっていてもか?」

「間違いありません」

「どうやって証明する?友人だから信じられるなど通用しないぞ。俺はアイツの友人じゃないからな。今まで何度も酷い目に遭っているんだ」

「直接、確かめれば済むことです」

 目の前の小柄な司法書士は意地悪い笑みを浮かべた。


 しまった――。


 チケットが手渡される。


「素晴らしい友情だな。涙が出そうだ」

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