六月六日(金)夜 渋谷駅改札前

 思えば大胆なことをしたものだ。ほぼ初対面の男を呼びつけるなど、どうかしている。けれども、沙希はどうしても藤石との接点が欲しかった。

 改札の脇に細い黒い影を見つける。突っ立ったままの白井が無表情で沙希に頭を下げた。

「ごめんなさい、お待たせしました」

「はあ」

 その顔は何の感情も乗せていない。にわかに沙希は不安になった。

「あの、本当にすみません。怒っていらっしゃいますか?」

「え?怒ってないですよ」

 そう言いながらも表情は変わらない。もう沙希は気にするのをやめた。

「何でしょう、話って」

 改札から乗客が溢れ出てきた。二人は邪魔にならないよう、さらに壁の方に身を寄せた。

「白井さんは、あの」

「はあ」

「司法書士の藤石さんをご存知ないですか」

 白井の口が放心したように開いた。

「そういうあなたはフジさんをご存知なんですか?」

「知っているんですね?お願い、話を聞かせて下さいっ」

 沙希の必死な様子に、白井はわずかに困惑した色を見せた。

「あの、よく事情がわからないんですが」

「白井さん。質問に答えてもらえますか?」

「はあ。唐突ですね」

「藤石さんは横浜で司法書士事務所をやってますね?」

「はあ、そうです」

「オレンジ色の眼鏡をしてますよね?」

「はあ、最近してますね」

「それで恐竜が好きですよね?」

「はあ。そうでしたっけ」

 これで確信が持てた。あの藤石と、白井と宇佐見は互いに知り合い同士だ。

「白井さん、藤石さんはあなた方のお友達ですか?」

「はあ。業務提携しているだけです」

「宇佐見さんは何のお仕事を」

「弁護士です」

「べ、弁護士ぃ?」

 声が大きかったのか、周辺の人々がこちらを見てきた。沙希は咳払いをした。

「そんなの初耳です。嘘ついてませんか?」

「はあ。本当です」

 あの軽薄そうな人間が弁護士だなんて、この国の法曹会は何を考えているのだろう。

 しかし、今はそれもどうでも良かった。

「藤石さんはお忙しいんですか」

「そうだと思いますよ。一人でやってますから」

 事務所経営を一人でするとなると、確かに大変そうだ。

「えっと、あの、藤石さんはご結婚は?」

「はあ。してないです」

「でも、きっとモテるんでしょうね」

 さっきも女性の話題になっていた。薫子、という名前だった気がする。けれど、藤石にフラれたとか言っていなかったか。それは最近なのだろうか。


 白井のため息が聞こえた。


「白井さん?」

「あなたも、あの人と何かあったんですね」

「な、何も」

 しかし、今の自分の声はあまりにも動揺していた。

「何もないのはかえって不自然です。フジさんのことが気になるようですけど」

 白井の低い声は優しげだったが、的中しすぎて返答に困る。沙希は観念した。

 いつだって自分の気持ちには正直にならなくては。

「そうです。気になっているんです。だから白井さんに色々と聞きたくて」

「はあ。素直ですね」

「ごめんなさい」

「いえ」

 

 ――素直。

 

 そうだろうか。それなら水曜日に直接本人に聞き出せたはずだ。目の前にいるのが別の人間だから言えることもある。


 ――私のバカ。


 初対面の人間に対して、何という失礼なことをしているのだ。


「やっぱり嘘。勝手なことばかり言ってごめんなさい。全部忘れてください」

 白井は何も言わない。今度こそ怒らせてしまったのだろうか。

 黒服の男は渋谷のネオンを見上げた。

「おるどびしゃん、ぴりおど、でしたっけ」

 と聞こえた。

「えっ?」

「あの人に言われて僕は来たんですけど、確かに良い雰囲気のお店ですね」

「藤石さんがそう言ったのですか?」

「はあ。そうです」

 顔が熱くなった。あの人の中で、自分を取り巻く世界が認識されていると思うと胸が高鳴る。

「きっと、フジさんもあの店を気に入っていると思いますよ。また来るでしょう」

 弱い風が白井の前髪を揺らし、わずかに目元が見えた。


 ――綺麗。


「白井さんって、あの」

「今度は僕もコーヒーを飲みに行きます」

 黒づくめの男は前髪を元に戻し、時計を気にしながら言った。

「もう遅いですよ。早く帰った方が」

「ま、待ってください」

 歩き出した白井の袖を引っ張った。

「会わせてもらえませんか?」

「は?」

「藤石さんが店に来るのを待ってるだけじゃダメな気がするから」

 白井は沙希の顔を見つめた。

「それは、つまり――沼目さんは、あの人のことを」

「まだ、わかりません。それを確かめるためにもゆっくり話がしたくて」

 沙希は自分の手帳を一枚破ると、アドレスを書いて白井に渡した。無表情だった白井が明らかに困惑の色を浮かべた。

「すみません、僕は経験が浅くて。具体的にどうすれば」

 沙希もしばらく考え込んだ。何かきっかけがあれば――。

「そうだ!資格のことを知りたいというのはどうでしょうか」

「資格?」

 藤石はやたらと専門用語を話す沙希を司法書士の受験生だと勘違いしたのだ。あらためて興味を持ったことにすれば、色々と業界の話を聞かせてくれるかもしれない。

 そう提案すると、うなだれた白井は苦しそうに答えた。

「はあ……。ですが、フジさんはこの業界の面倒な決まりとか体質を毛嫌いしている人でして。話したがらないかもしれませんよ」

「じ、じゃあ、純粋に受験勉強のことで相談がしたいとかはどうですか?そのついでに、あの、その、お食事とか」

「はあ。強引ですね」

「勢いと言ってください。土日は夕方までのシフトですから夜は空いています。月曜か火曜でも大丈夫です。すみません、本当ならお二人のご都合に合わせるべきなんですけど、バイト代……生活に必要なもので……」

 白井は沙希の顔を見ていたが、ゆっくり首をかしげて言った。

「あの、それは良いんですけど、フジさんは頭が良いから、たぶんこっちの思惑に気づくと思います」

「その時はその時です。私も覚悟は出来ています」

 白井は下を向いたが、さらに辛そうな声で言った。

「僕は慣れていますが、あなたが傷つくようなことを平気で言うと思います。それがあの人の持ち味ではありますけど。それでも良いですか?」


 あの眠そうな顔が頭に浮かんだ。


 ――良い子は好き。

 その好印象がひっくり返るかもしれないのか。


「だ、大丈夫です」


 はあ、白井は弱々しく承諾した。

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