六月八日(日)午後  六本木

 大河原珠美はケーキセットを注文すると、ぼんやりと人の往来を眺めた。


 今日は日曜日。久しぶりに美術館にやってきた。

 

 都心とは思えない静かな場所にあり、併設されたこのカフェも広々とした空間で居心地が良い。この期間はベルギーの画家の特別展が開かれていることもあって、時間によっては少し混み合うようだ。

 珠美は絵が好きだ。しかし、傾倒しているほどではない。こうやって美術館に足を運ぶことも数えるくらいしかない。それでも珠美は、名前も知らない画家の世界観に引っ張り込まれることがある。その何となく惹かれる感覚が大事だ。素人は自分の感受性だけで絵を楽しめば良いと思う。だから、美術館には一人で来る。他人の意見も批評も、自分には必要ないのだから。


 そう、思っていたのだが。


 珠美はチケットの半券を取り出した。今日はこの特別展の最終日だ。珠美はコーヒーをすすりながらチケットの絵柄を見つめる。最初、この美術展には正樹も誘った。絵画は一人で楽しむものだと思っていたが、正樹がどういう反応をするか急に試してみたい気分になったのだ。いや、正確には美術に興味がある自分を見せたかったのかもしれない。正樹が知らない、自分自身。新しい自分を。


 ――結局、都合がつかなかったなあ。


 最終日は夕方の六時までで、土日勤務の正樹は来れそうにない。珠美も行く気が薄れていたが、せっかくの休みで天気も良かったので、仕方なく珠美は一人で見に行くことにしたのだった。次の機会に期待しようと珠美はチケットをバッグにしまうと、運ばれてきたチェリータルトにフォークを入れた。


 先週の木曜日、母の実家のサクランボを正樹の家の最寄り駅でそれを手渡した。休みかと思ったら臨時で仕事だったらしい。少し疲れた顔をしていた。最近は成績が不振だとも言っていた。正樹が働く不動産業界は、この不景気の影響をもろに受けていると聞く。それに入社五年目の正樹は、きっと上の人間、下の人間にも気を遣って必死なのだろう。少しやつれたように思えた。とにかく帰って早く休ませたい気持ち一心で、その日はそのまま別れた。珠美自身も二日酔いを引きずったまま仕事に行くわけにいかず、早く休みたかったのもある。


 ――次に会う約束もしていないな。


 約束。


 そういえば、ちゃんと待ち合わせをして二人で出かけることも減った気がする。その分、どちらかの部屋で過ごすことが増えた。確かに楽だし、落ち着くけれど。

 こういうものなんだ、どこか納得している自分がいる。これが、結婚に続いていくのだ。結婚したら、ときめきより大事なものがある。経済力や親との関係、出産、老後など考えることが山ほどある。上手く言えないが、きっと結婚は生活を、人生を固定するものなのだ。これを自由が奪われると解釈したくなる気持ちはわかる。だから、女も男に対して強気に迫れない。婚期が遅くなる以上に、女は相手を失う方が恐怖だからだ。

 どうしたら良いのかわからないまま、また新しい季節がやって来る。

 六月――ジューンブライド。

 それに照準を合わせる女など、今の日本にいるのだろうか。私たちは、世間が思うよりも、ずっと現実を見つめて生きているのだ。


 珠美はタルトを食べ終えると、席を立ち会計を済ませた。外の立ち込める湿気にむせ返りそうになる。上着を脱ごうと思ったが、道を行く誰もがジャケットやカーディガンを着たままなのを見て、珠美は躊躇した。

 足早に駅に向かうと横断歩道の信号がちょうど赤に変わった。車道を挟んだ向こう側には、駅から出て来た人の山が出来上がりつつある。

 珠美はスマートホンを取り出し、正樹にメッセージを送った。今日は美術館に行ったこと。ポストカードを買ったこと。タルトが美味しかったこと。


 信号が青に変わり、両サイドの人間が歩き出す。前方からも人波が押し寄せてきた。

 ちょうどその先頭にいた人間に珠美は目が釘付けになった。


「ま」


 正樹か?


 すれ違う歩行者にぶつかりながら、珠美は正樹を追った。恋人は、ふいに右手でスマートホンを取り出すと、すぐにまたポケットにしまった。


 その逆の左腕に何かが絡み付いている。


 指――。


 後姿しかわからないが、そこにいたのは間違いなく二人の男女。

 不可解な事実がそこにある。


 ――ちょっと、ねえ。


 どうして、こんな場所にいるの。今日は仕事のはずでしょう?

 どうして、スマホをすぐにしまったのよ。ちゃんと見てくれた?


 ――そんなことよりも。


 どうして、隣の女は正樹から離れないの?



 頭が真っ白になっていった。

「ま、待ちなさいよ!」

 珠美は駆け足で二人に近づくと、次の交差点の手前で追い抜いて正樹と対峙した。恋人の顔が、あっという間に間抜けなものとなった。しかも必死に取り繕おうとしているところが見え見えで、むしろ情けなくなる。

「た、珠美?どうしたんだよ、こんな」

「白々しいのよ。今日は仕事じゃないの?まだ四時半よっ。それに誰よこれはっ」

 どうしたんだ。自分の語気に驚く。もっと、冷静になれると思ったのに。


 もっと、こう――。


「平岡くん」

 静かな声。

 珠美は正樹の隣にいる女を見た。年齢は自分よりもかなり上だろう。ただ、今の自分よりは数倍も落ち着き、そして美しかった。

 すでに、正樹から手は離している。再び静かな優しい声を発した。

「あなたの彼女さん?」

「え、いや。まあ、あの」


 ――何よ。その中途半端な受け答えは何なの。


「正樹、どういうこと」

 イヤだ。どうして自分は問い詰めるような言い方しか出来ないのだ。

 この女はこうも落ち着いているというのに。

「そう。こういうこともあるわよね」

 女は小さく微笑むと、正樹に背を向けた。

「え、ちょっと待ってください!」

 しかし、女は振り向くこともなく人波に逆らい歩いて行った。


 正樹は珠美を振り返る。その剣幕に身体が凍りついた。

 さっきまでとは何かが違う。妙に思いつめたようで、そして暗い目をしていた。


「珠美」

「何よ」

「そういうことだから」

「は?」

 正樹は珠美に背を向けた。慌てて腕を引っ張る。

「ちょっと待ってよっ」

「ごめん、本当に悪かったと思ってる。でも、オレ」

 正樹は珠美の顔を見つめて、そして頭を下げた。

「あの人を放っておけない。珠美、本当ごめん」


 力を失った珠美の手をすり抜け、正樹は雑踏に消えていった。

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