六月十日(火)夕方 オルドビシャン・ピリオド

「わかった。お大事にね」

 学校帰りだった沼目沙希は、体調を崩したバイト仲間からシフト交代を頼まれた。電話を切りながら、改札の直前で方向転換をする。混み合う交差点を抜け、店までの道を歩いていくと、昨日の夕方のことが再び頭に蘇った。


 ――最低だ、私は。


 バイト仲間の体調も心配だが、やはりあの男のことが気になってしまう。


 ――怒らせてしまった。


 相手は社会人、おまけに具合が悪い中を必死に働いているのに、それを邪魔したのだから嫌われても当然だ。店の前には、先週と変わらない看板とメニューボードが出ている。これを眺めていた藤石に声をかけたのが随分昔のように思え、沙希は目元が熱くなった。


 店内は満席に近く、いつものように混雑が予想された。店長にシフト交代の事情を話し、バックルームで支度をしてフロアに出る。沙希は頭を切り替え、いつも以上に仕事に精を出し、厨房の手伝いも率先して行なった。何かに没頭していないと、ふいに涙が落ちそうになるのだ。


 ――自分がこんなに弱いなんて知らなかった。


 いや、それだけ藤石に想いを寄せていた証拠なのだろう。胸の中に次々と溢れる感情はどれも初めて触れるものだった。どう扱ったら良いのかわからない。


 不安で、怖くて、でも嬉しくて――。


「沼目さんってば」

 突然、肩を叩かれ沙希は声を上げそうになる。店長が驚いた顔をして立っていた。

「す、すみませんっ!」

「いやいや、すごく集中して洗い物しているから声かけづらかったよ」

 笑いながら店長はフロアを指差した。

「外の照明を変えてきてくれる?」

 時計を見れば、もう夜八時近くになっていた。沙希は急いで外に出ると、メニュー看板をバータイム仕様のものに変え、照明のランプのスイッチを入れた。温かみのある光と影が揺れて、一気に大人のムードの店となった。


 一組の男女が店に入っていく。

 後を追うように沙希がフロアに案内しようとした時 ――。


 その慣れ親しんだ女性の顔に沙希は声を上げた。

「お、お母さんっ?」

 そう呼ばれ、沙希の母親も顔から落ちそうなくらい目を見開き、その場で固まった。隣にいたスーツ姿の男も驚いた表情で沙希と母親を交互に見つめた。

「……沼目さん、お嬢さんがいたんですね」

 若い男は笑いながら沙希に頭を下げた。

「初めまして。平岡と申します。沼目さんとは仕事でお世話になりまして、いつも勉強させていただいてます」

 丁寧な挨拶に、沙希も慌てて頭を下げた。

「こ、こちらこそいつも母がお世話になっています」

「しかし、驚きました。そっくりですね」

 平岡が沙希の母親に笑いかけると、当の母は少し苦しそうに笑った。


 この違和感は何だろう。

 まるで、自分が異物のような――。


「沙希」

 小さな声で、母が自分の名前を呼んだ。

「お前、今日はバイトの日じゃなかったはずよね?家にいるかと思っていたわ」

「そうなんだけど、代わり頼まれちゃったから。ごめん、連絡すれば良かったね」

 普段どおりの会話のはずなのに、妙な感覚だった。

 

 何もおかしいことはない。

 たまたまバイト先に自分の母親が現れただけだ。

 仕事の付き合いで来ただけだ。


「沼目さん、ここ混んでますね。別の店にしましょうか」

 平岡が店内を見渡して言った。確かに、すでに満席だった。

「それじゃ、失礼します。バイト頑張ってください」

 平岡に促されるように母も店を出たが、娘の困惑を感じ取ってくれたかのように、振り返って言った。

「仕事の打ち合わせが長引いたら連絡するね。遅くなっても平気なら、夕飯は母さんが作るけど」

「いいよ。私も適当に食べて帰るから。ゆっくりしてきなよ」

 

 自分の言葉ながら引っかかった。

 ゆっくりって何だ。

 仕事だって言っているじゃないか。


 しかし、沙希は自分に背を向けた母親の後姿と若い男との距離だけが気になって仕方なかった。

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