六月二日(月)朝 湘南新宿ライン

 萩野谷薫子は都内の裕福な家庭に生まれた。


 両親は遅い結婚で、しかも母は幼い頃に死別、父の手一つで育てられた。

 薫子の父、萩野谷光良は建設会社を経営しており、今年で七十一歳になる。周りからの信頼も厚く、従業員にも恵まれていた。


 そして遅くに授かった娘を心から愛した。


 有名私学に通わせ、優秀な家庭教師をつけ、日本人女性として必要であろうたしなみは、すべて習わせてきた。大切にするあまり、父は娘の周囲に男を近寄らせないよう徹底した。女子中、女子高は当たり前で送迎は必ず部下が行なった。


 そう、薫子が結婚を夢見るのとは逆に、父の光良は嫁がせる気などさらさらなかったのだ。

 ところが、三年前にその父が尿管結石で倒れた。父は娘を一人残して逝く日がやがて来ることを憂い、また、薫子が幼少の頃から夢を見ていたことを叶えさせようとしなかった自分を呪った。それからというもの、急に父は娘に対して結婚や自立を促すようになった。


 結婚はともかく、自立に関しては一切考えていなかった薫子は、たいそう悩んだ。しかし、老いていく父を安心させるためにも自分が成長した姿を見せようと、一人暮らしを始めることにしたのだった。幸い、父の教育のおかげもあってか家事全般はそれなりにこなすことは出来るので、あとは仕事を見つけるだけだった。


 そうはいってもこの不景気、どこも就職難だと聞く。特に女性は厳しいとテレビのニュースでもさんざん言っていた。


 ――負けない。とにかく遊びに行くのも今日で最後だ。


 車窓の流れがゆっくりになると、次の駅に止まった。再び路線マップを広げていると、目の前に立っていたサラリーマンの集団が降りていった。乗ってくる客はほとんどおらず、車内に空間が生まれた。薫子はドア口付近のスペースに移動し、手すりに寄りかかった。


 すると、反対側のドアに立つビジネススーツの男が視界に入った。ちょうど薫子とは斜めで向かい合う形になる。


 電車が動き出した。


 男はしばらく窓の外を眺めていたが、上着の内ポケットからスマホを取り出した。その際に、顔が少しだけこちらに傾く。


 その顔が。


 薫子のこめかみに電流が走った。身体が一瞬だけ大きく震えたかと思えば、今度は固まったまま動けない。


 息苦しい。目が離せない。


 男は再び窓の外に目をやった。黒いフレームの眼鏡をしているが、その素顔は容易に判別がついた。綺麗な二重、通った鼻筋、薄い唇、形の良いあご。


 こんな素敵な人が――。


 その時、薫子が立つ側のドアが突然開いた。恵比寿駅からは、大勢の乗客が乗り込んできた。斜め向かいにいた男が視界から消されていく。薫子は必死に背伸びをしたり、腰をかがめたりして男の位置を確認する。人と人との頭の間から、男があくびをする様子が見えた。


 発火したように胸が熱くなる。


 電車が渋谷駅に到着し、男は薫子を見向きもせずに降りていく。

「あっ」

 薫子は無意識にドアの方へ殺到した。大勢の乗客に押しやられながら、小さい身体を電車の外へ放り投げる。階段を上りきる男の後ろ姿を見つけた。薫子は必死に階段を駆け上がる。


 ――待って、待って。


 薫子はすれ違う人にぶつかりながらも、男を見失わないよう懸命に後を追った。大きな十字路の交差点に差し掛かるところで、男が足を止める。追いついたと思いきや、ちょうど信号が青に変わり、一斉に周囲の人間が動き出した。向かいからも群集が押し寄せ、たちまち男も薫子も飲み込まれていった。


「待ってくださいっ」

 どうしよう。

 待っていたって王子様は来ないから、勇気を奮って外の世界に飛び出したのに。


 もう二度と会えない――嘘、そんなの信じない。


 薫子はバッグを前に抱えると、男が通ったであろう道筋を全速力で走った。通行人の間を、小さな身体ですり抜けながら男の姿を探し求める。幾人か同じような眼鏡の男性を見かけたが、まるで違った。どんどん二人の距離が引き離されていくように感じる。


 交差点を渡り切って周囲を視界を巡らすと、ついに反対側の歩道を歩く男の姿を見つけた。そのまま、ファミリーレストランの中へ入って行く。薫子も車が途切れるのを待ち、道路を横切って店の中へ飛び込んだ。息を切らしながら店内を見渡す。


 ――どこにいったのかしら。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか」


 店員が微笑みながら薫子に話しかけてくる。


「え、えっと」


 返答に困っていると、薫子の後ろから新しい客が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 同じ対応を店員が繰り返した。


「あ、待ち合わせなんだけど?」


 後ろから来たワイシャツ姿の男と、初老の男が先に中へ入っていく。



 すると、ボックス席の一番奥で声がした。

「おはようございます」


 ――。


 先ほど電車で見かけた男が立ち上がり、会釈をして二人を出迎えた。

 店員が薫子をいぶかしんだ目で見る。


「あの……お客様?」


「す、すみませんっ!一人です。お願いします」


 薫子は店員に頼み込んで、ボックス席と並ぶテーブル席に通してもらった。例の男とはちょうど背を向けて座る形になった。

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