六月二日(月)朝 ファミリーレストラン

 まさか自分がこんな大胆な行動に出るなんて。

 薫子は紅茶を注文して背後の様子に神経を注いだ。

 何やら数人の男たちが集まって一斉に話し始めた。


「さて、揃いましたね」

「や、おはようございます」

「すみません、こんな場所で」

「蒸し暑いですねえ」


 店員が紅茶を持ってきたタイミングで少しだけ後ろを振り返ってみる。入口で立ち往生した先程のワイシャツの男はいつの間にかジャケットを着込んでいる。一緒に来た初老の男の他に、高齢の女性も座っていた。目当ての人は、鞄から何か取り出すためにかがんでおり、顔が見えない。


「玉井さん、ご紹介しますね。こちらが今回の手続きを担当される司法書士の先生です」


「初めまして。司法書士の藤石ふじいしと申します。こちらの売主でいらっしゃる宮永さんからご紹介いただきました」


 凛として、聞き取りやすい声がした。


 ――フジイシ、さん。


 薫子はしっかりと男の名前と職業を記憶した。

 

 司法書士という仕事は薫子も何となく聞いたことがある。父の会社に出入りしているところも見たことがあった。具体的にはサッパリわからないが、ともあれ不動産関係の法的手続きをする業務だという認識だ。


 その後の会話の流れで、入口でワイシャツ姿で現れた若い男は平岡という名前で、不動産業者だとわかった。玉井というのは、一緒に来た初老の男性のようだ。そうなると、宮永というのは高齢の女性のことだろうか。

 スマホをいじるふりをしながら、後ろの様子にさらに神経を集中させる。

「しかし、ファミレスで決済とは、なかなか面白いですね」

 玉井の一言に、一斉に笑い声が起こる。

「申し訳ありません。私の都合で家の近くにしていただきまして」

 今まで黙っていた女性が言葉を発した。高齢だと思っていたが意外に若々しい声だ。

「いやいや、大丈夫ですよ。ここからなら駅前の銀行にも近いですしね。ただ、私もさんざん不動産売買をしてきましたが、さすがにこういう場所は初めてです」

 玉井の言葉に平岡がすみませんと言った。

「通常、不動産の売買で購入資金を金融機関から借りる場合は、銀行などが個室を貸してくれますが、玉井さんは現金で買われますからね……時々、ブースを貸してくれる銀行もあるのですが、今日は空いている場所がありませんでした。うちの会社も使えないことはないですが、それだと宮永さんの移動が大変だということなので」

「なかなか良いじゃないですか。みんなでパフェでも頼みましょうか」

 藤石が笑いを含みながら言った。


 それだけで胸を熱くする薫子をよそに、背後の藤石は取引を進めた。

 

「とはいえ、店が混んできて人目につくのは避けたいですよね。さあ、始めますか」

 藤石のその号令とともに何やら紙がこすれるような音がした。

 会話の流れでアパートの売買取引をしていることは理解したが、細かい内容はまるでわからない。薫子は藤石の声だけ聞いていることにした。

「このたび、買主の玉井さんは売主の宮永さんが所有されているこちらのアパートをご購入ということで。オーナーチェンジというヤツですね」

「そうです」

「玉井さんにお願いしていた書類はご用意できていますか?」

 また紙がこすれ合う音がする。しばらくすると藤石が、はい結構です、と言った。

「では、こちらに署名捺印をいただく書類があります。今回、宮永さんのアパートが玉井さんへ売却されるとともに所有権――私のものだ、と宣言できる権利ですが、それも移転します。その登記手続きの代理人として私に委任するという……まあ、ただの委任状です。こちらにご印鑑お願いします」

 少しの間を置いて、宮永が息をつくように言った。

「しかし売買契約の時にパパッて全部終わるものじゃないんですねえ」

 すると、藤石が笑いながら答えた。

「よく言われます。どうしても不動産取引は何千万という大金が動きますから下準備が大事なんです。玉井さんとは違って、一般的に買主さんは借金して買うことがほとんどですからね。そんな巨額の商品ですから『イヤだ、間違えちゃったわ』とレシートを持って返品するようなことはできません。よって司法書士の私が『買って大丈夫ですよ。売っても平気ですよ』と全責任を負うわけです」

 なるほどねえ、女性が感嘆したように言った。

 今度は初老の男の声が聞こえてきた。

「それにしても、平岡さんもお忙しいみたいですね。なかなか電話もつながらなくて」

「ええ、確かにちょっとバタバタしています。最近は不況だ何だと言われ、バブル期みたいな昔に比べれば不動産の動きは低迷しているように思えますけど、それでも新築のタワーマンションは依然として人気だし、今日のように余裕のある買主様は現金でアパート購入されていたりしますからね」

 笑い声が起こると、次々と席を立つ気配がした。

「書類はすべて問題ありません。これから銀行へ移動ですか?」

 藤石の声がした。

「はい、そこの堀河銀行で残金の振込みに行きます。宮永さんも通帳はお持ちですよね」

「はい」

「では参りましょう」

 背後から人の動きが消えた。よくわからないうちに取引は終わったらしい。薫子は視線を入り口付近に向けると、平岡がレジ精算を済ませ、藤石が店のドアを開けて、初老の男と女性を通しているのが見えた。薫子も慌てて席を立ち、藤石たちが外に出て行く姿を横目で見ながら急いでレジに向かう。


 確か堀河銀行と言っていた。

 しかし、流石にそこまで追いかけたら、銀行員に怪しまれるかもしれない。


 ――でも、見失ってしまったら?


 レストランを出た薫子は、ビル群にたたずむ銀行の建物を愛おしそうに見つめ続けた。

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