合法ブランクパワー(下記、色恋沙汰に関する一切の件)
ヒロヤ
六月二日(月)朝 プラットホーム
新しく買った靴は、思い切って高いヒールにした。
いつもと違う視界に、最初は少し戸惑ったが、意外にもこの緊張感が良い。
駅のホームで、萩野谷薫子は背筋を伸ばしてみた。
午前九時過ぎ。
道行く人、電車に乗る人、その多くが眉間にしわを寄せている。
この湿気、たいていの日本人なら一年で一番不快な季節を梅雨だと答えるだろう。
日に日に気温は上昇、それに合わせて湿度も蒸し器のような数値を叩き出す。
多くの乗客が電車の到着を今か今かと待っている。
――電車、何年ぶりだろう。
この駅に新しい電車が開通したのはつい最近で、乗り換えをしなくても恵比寿や新宿に出られるらしい。
いつも、使いの者に車を出してもらっていた薫子には、その距離や配置が今ひとつわからなかったが、それはそれは便利になったようだ。
小さなダイヤがついた腕時計を眺めた。
今日は銀座に出て、お手軽なうなぎのランチにしよう。
日本橋にも久しく行っていない。
神楽坂のあの店にも顔を出したい。
自由気ままな毎日、そんな生活もしばらくお預けになるのだから、目一杯楽しもう。
薫子は明日から一人暮らしをすることになる。
親に頼らず生きていかなくてはいけないと決めたのは二年くらい前だったか。何だかんだ実行に移すまでに時間がかかってしまった。
それでも、ようやく一人暮らしの部屋は確保した。三ヶ月分の家賃と生活費は父が出してくれるというが、その後は自分で稼がなくてはいけない。
働くからには電車通勤も覚悟をする必要がある。路線図も地下鉄の種類も覚えないと会社には雇ってもらえないに違いない。
なかなか大変だ。
しかし、自分の夢のためなら何を厭うことがあるだろう。何より自立することがその第一歩なのだ。
薫子の夢、それは素敵な男性とめぐり合って結婚することだった。
女の幸せはそこにこそある。白雪姫もシンデレラも眠り姫も、みんながそう教えてくれたのだ。
もちろん、今のこの現代日本では、そんな夢物語などありはしない。
姫君のように、待っているだけではダメなのだということに気づいた。
運命は、自分で作り出すものなのだ。
警笛の音と共に、電車がホームに入ってきた。籠原行き、そう駅員が言っている。
――かごばら、どこかしら。
薫子は乗り込みながら、持っていた小さい路線マップでその漢字を探していると、電車から降りてくる乗客にいきなり突き飛ばされた。
「きゃっ」
たまらずドアの脇に身を引く。最後に降りた中年のサラリーマンが舌打ちをするのが聞こえ、自分が邪魔だったことを初めて認識した。
-
これが、社会なのだ。並大抵の覚悟では太刀打ちできないことを悟った。甘えていたらダメなのだ。
――私は、三十二歳になってしまったのだから。
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