第23話 無意味な交わり

 秒針が時を三度噛んでから、サレアはわたしを押し倒した。飢えた狩人の口元には獲物の息の根を止めるための牙があり、わたしが前後に動けないよう、両足の間に膝を当てられる。


 まさか本当にこんなことになるとは予想していなかった。わたしはただ自虐気味に、自分の体を差し出してみたというだけなのに。


 憔悴しきったサレアの額には汗が滲んでいた。それが空気に触れ蒸発すると、命が一つ、削がれ落ちたような感覚に陥る。魔力が生命に対してどこまで作用するのかは分からないが、砂時計を傾けるようなそれに、サレアの時間のなさを感じる。


 両腕を押さえつけられたわたしは、必死にもがけば振りほどくことができたかもしれない。それでも迫りくるサレアの唇を避けることができなかったのはわたし自身、この行為自体が拭いきれない感情を消し去る一種の手段としか見ていないからなのも、あると思う。 


 首元にぬるい感触が伝うと、針に刺されたような刺激が皮膚の下を通して脳を痺れさせる。まるで今が現実でないように、先ほどまで家事をしていた自分が俯瞰的に見えるようになる。たった数分の違いで、どうしてこうも深度が違うのだろう。


 噛むようなものから、力強い吸いに変わると、水音とも違う蠱惑的な音に、わたし自身もつられるように息を飲む。刺激から避けようと首を逸らし続けて、痛くなる。寝違えたような違和感に耐えながら、わたしはサレアの小さな背中に手を回した。


「無理だよ」


 耳元でサレアが囁く。


「ざくろは餌になんてなれない。あたしにざくろは要らない。あたしが生きていくのに、ざくろの存在は関係ない」


 汗で湿った毛先が、束になってわたしの眼前に降りてくる。柳のように妖艶で、恐ろしかった。火照った息の先で滲むサレアの瞳はロウソクの炎のように揺れている。ギラギラとしたそれを見ていると、息づかいも途切れ途切れになっていく。


 そういえば、洗濯物、そろそろ終わったかな、と。洗濯機がある方を向くもすぐに首を戻される。鼻の先、耳たぶ、上唇。味をたしかめるように、サレアは噛んでいく。


 加減なんてなかった。狩人は獲物に容赦をしない。自分の腹さえ満たされればそれでいい。獲物がどれだけ痛がっても、やめることはない。


 皮膚が切れる感覚と一緒に、視界が一瞬明るくなる。そうすると直にジワ、と血が滲む感覚がある。先ほど噛まれた場所も、ヒリヒリとして熱い。一カ所一カ所が、現実を主張するかのようだった。


 そうするとわたしは、自分が生きているのだと自覚する。夢じゃない、死語の世界じゃない。現実だ。わたしがこれまでずっと過ごした現実で、いつも隣で笑っていたサレアが、実際にわたしを押し倒し、肌を重ね合っている。


「なんで、笑ってるの」


 サレアがわたしを見下ろして、不満げに口を尖らせる。


「喰われてるくせに」


 サレアの劣情は増す。顔を何度も揺さぶられた。ヘアゴムが解けて、結んでいた髪が降りてくる。目にかかった前髪をどかして、サレアはわたしの額を強く吸った。


 わたしから顔を離したサレアは、唇を濡らしたまま言う。


「おいしくない」

「ごめん」

「全然おいしくない」

「ごめんね」

「ざくろは、餌ですらない」


 悲しげな目をしたサレアは、その奥で苛立ちのようなものを宿していた。


「わたしが、男の人だったらよかったのにね」

「思ってもないでしょ。誰よりも、その生き物が嫌いなくせに」

「・・・・・・そんなことないけど」

「見てれば分かるよ。ざくろは、悪魔になっても、獲物にしか過ぎないんだから」


 そうか、餌じゃなくて、獲物か。狩猟の対象なのだ、結局は。


「小学校の頃ね、虐められてたんだ。ずっと同じ男子に。持ってた筆箱とか、お気に入りの髪留めとか、全部壊された。昔は漫画家になりたいなんて言って、よくノートに書いてたんだけど、それもビリビリに破かれた。それを毎日」

「それは、ざくろが弱く見えたからだよ」

「中学に上がった頃、その男子に告白されたんだ。今まで虐めてたのは、好きだったからなんだって。そのとき、わたし怖かった。嘘でしょって思った。どうしてこんなにも違うんだろうって思った」


 同じ学校で暮らして、同じクラスで授業を受けて、同じ時間に家へ帰って、それを何度も繰り返してきた仲間だというのに、どうしてそんなにも、わたしの想像もつかないようなことができるんだろうって、思った。


「極めつけは父親。アルコール依存症でね、いつもお母さんを殴ったりしてた。わたしも何度も止めに入ったんだけど、いとも簡単に撥ねのけられた。少しすると父親は鬼みたいな形相で、支離滅裂なことを叫びながら壁を殴り始めるんだ。それから父親は精神病棟に入って、すぐに離婚したけど、今も思い出すと怖い」


 太い腕。太い声。高圧的な視線。暴力による支配。そのどれもが、わたしには到底敵わないものだった。


「本当は、好きにならなくちゃいけないんだけどね」


 実家に帰ると、お母さんは必ず彼氏や、結婚のことを尋ねてくる。それが娘にとっての、唯一の幸せであると信じて疑わないのだ。


 男の人が怖い。理解ができない。同じ生き物と思えない。そう言ったら、お母さんは泣き崩れてしまうだろうか。もし優しく抱き留めてくれたとしても、わたしたち親子は、もう二度と同じ関係には戻れない気がする。


 サレアがわたしの口の中に指を入れ、舌を掴む。


「そういう悪いことを言うのは、これ?」


 ぐっと、強く引っ張られる。痛みと、不快感と、喉の閉塞感に涙が零れる。やめてって懇願しても、それは赤子の泣き声のように言葉にならない。


 魂までもが引き抜かれるようだ。


「それで、死のうとするなんて、本当にバカだねざくろは。自分で決めたことなのに」


 それは、サレアだって。


 そう言おうとするが、やはり声にはならない。そもそもサレアは、死のうとしたんじゃない、死んでもいいと、一種の覚悟を決めていただけだ。どうしてそこまで自分を貫き通せるのか、わたしには分からない。


 シャツのボタンを強引に外され、鎖骨を舌でなぞられる。これまで出したことのない高い声をあげると、サレアはその舌使いを早めていく。


「ぜんっぜん、おいしくない」


 悪態を吐きながら、サレアはわたしの体を貪っていく。可哀想だと思った。サレアに自分を重ねて、同情した。哀しい生き物だと思った。ふと愛おしくなり、サレアの体を抱きしめた。


「ざくろの体を抱いても、魔力にはならない。あたしはざくろの体じゃ、生きていけない」

「うん、知ってる。だから、ごめん」

「あたしはざくろのことを、好きにはなれない」

「それは、悪魔だから?」


 サレアは首を振る。


「未来がないから」

「ああ」


 中学生の頃、わたしは泣いてばかりだった。それは今もかもしれないけど、当時は家の事情もあって、辛くなると空き教室に籠もってずっと泣きじゃくっていた。


 そんなとき、クラスメイトの子が話しかけてくれて、わたしの悩みを聞いてくれた。聞けばその子は、ずっとわたしのことを気にかけてくれていたらしい。それから何度か話すようになり、休日は会って遊ぶようにもなった。


 はじめてわたしがキスをしたのは、その子の家に遊びに行ってからだった。


 雲に溺れるように、柔らかく、か細い熱だった。


 これだ、わたしの思い求めていたものは、これだったのだ。そうしてわたしはその子と付き合い始めた。


 しかし、その子との付き合いも長くは続かなかった。別れを切り出したのはその子からで、嫌いになったわけじゃない、ただ、もうすぐ受験だし、と要領の得ない言い方で、最後にごめんねと付け加えられた。


 わたしも、その子のことは嫌いじゃなかった。でも、そう告げられると、わたしも頷くしかなかったのだ。


 そういうことは、高校を卒業しても続いた。最初は順風満帆だった関係も、未来を見ると勝手に解れていく。誰もが同じような夢や憧れを抱いていたのだ。


 純白のドレス。心から愛する人。子宝に囲まれた生活。それこそが、人としての、女性としての幸せだと、みんな気付き、わたしの元を離れていった。


 相手にとっては、わたしなんて一種の思い出にしか過ぎないのだろう。だけどわたしにとっては、そのときのその相手が、最愛だったのだ。最愛がいくつも積み重なっていき、捨てることのできない熱情と、もう後戻りのできない道ばたで迷った頃、弓梨に出会った。はじめて自分のことをカミングアウトした。わたしはこういう人間だ。どうか捨てないで欲しい。そういうわたしを、弓梨は心から抱きしめてくれた。


 そうして、一枚の手紙と共に、この家を出た。


「お願い、サレア」


 サレアの首に手を回す。


「わたしを喰べて」


 鋭い牙に、自分から触れる。


「わたしを好きになって、わたしを愛して」


 サレアは、微動だにしてくれない。


「だから死なないで、サレア」


 長い口づけのあと、わたしは両腕を下ろした。眉間にシワを寄せたサレアの胸中には、いったい何が渦巻いているんだろう。わたしのキスを、どう受け止めてくれたんだろう。


 わたしにとって、はじめてのキスは救いそのものだった。この世界にいてもいいんだと思える熱を感じて、誰かに必要とされていると自覚すると、たとえおもちゃのように転がされてもいいと思える。


「ざくろは」


 サレアが、真剣な表情のまま口を開く。


「絵の具の色だと、なにが好き?」

「・・・・・・青、かな」


 ふいにそう言った。


 青空なんて見上げたことはない。ただ、わたしの目の前で揺れる、キレイなドレスが、その色だったのだ。


 なんでそんなことを聞くの、と、問おうとするが、サレアの手がシャツの中に侵入してきて、声がただの息となる。


 そのまま、まさぐるように、サレアはわたしを侵した。どれだけ叫んでも、やめてはくれなかった。快感なんて、甘酸っぱいものはなかった。この部屋には、痛みが充満している。


「要らないって、言ってるのに」


 首を絞められ、皮膚を噛みちぎられ、生きている最中、死の断片を見せられる。そのたびに、わたしは生きていると安堵する。


「ざくろの役立たず。出来損ない、能無し、ガラクタ、ゴミ」


 痕跡が残る。わたしの体に、サレアの、慟哭が刻まれていく。わたしまで哀しくなる。


 この行為を、なんのためらいもなく、愛する人を抱く幸福のまま、胸を張って気持ちいいと言えるわたしたちなら、どれだけ良かっただろう。


 冷酷な痛みは、何度もわたしを生かそうとする。口の回りが涎まみれになるまで、サレアはわたしの体を貪った。


 意味なんてない。未来なんてない。幸福なんてない。


 ただわたしは、痛みに耐えることこそが生きるということなのだと思った。

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