第5章
第22話 わたしを喰べて
ふと宇宙を思い浮かべることがある。
暗い闇の中に地球がポツンとあって、わたしはそれをふわふわと浮きながら眺めている。自分の表情は窺えないが、広大な世界の中で光が変化なく瞬いている景色が何十億年と続いてきたのだと考えると、わたしの命や意思と、地球の自転はなんの関わりもないのだろう。続いてきた数十億年が、これから先も続いていく。もしかしたらまだ、中間地点ですらないのかもしれない。
長い長い歴史の中で見ると、抱える悩みや自分の存在なんてとてつもなく小さく感じてしまう。だからといって、じゃあ前を向いて頑張ろうとはなれないし、むしろ宇宙が大きすぎるのだと悪態を吐きたくなるときもある。
どちらにせよ、そういうふとした拍子に苛まれる宇宙の重圧が、わたしの心を空っぽにしていくのだ。
そう考えると、電気とは偉大だ。暗黒に包まれた景色の中では、たとえ机を積み重ねて段ボールを張っただけのお化け屋敷ですら怖いのだから、人の感じる恐怖というものは準備ができているかどうかに深く関係しているのだろう。
ポチ、とスイッチを押すと部屋が明るくなる。買い物袋をテーブルの上に置いて、パジャマ姿のままソファに寝転ぶサレアに声をかける。
準備はできていたのだろう。サレアは驚くことなく顔をこちらに向けた。青ざめたその顔を見ても、わたしもわたしで、準備完了だった。
こうやって、なにもかも明かりを灯せていけば怯えながら生きていくこともないのだろうけど、スイッチは工事の人に頼まないと設置してはくれない。
キッチンに向かいフライパンを熱する。慣れた手つきでホットケーキの素をかきまぜて、余熱で焼いている間に皿とメイプルシロップを用意する。フォークとナイフも一応用意しておくけれど、どうせサレアは使わない。
横たわるサレアの前にできあがったホットケーキを差し出すと、ぬっと袖が伸びてくる。サレアにはわたしが前に使っていたパジャマを着て貰っているのだけど、サイズが大きいらしくぶかぶかだ。袖にホットケーキがくっついて口に吸い寄せられていく様はなかなかファンタジックなものがあったが、そのファンタジックというものが現実的に起こってしまっているわたしにとって、魅力的には見えなかった。
サレアはホットケーキを一切れ、咀嚼するが、噛む力が弱いのか、ボロボロとカスが床に落ちていく。わたしがそれを拾ってあげると、サレアは物欲しそうに口を開けた。
口内に見える、鋭い牙。それはいったい、今までどれだけの肉を噛みちぎってきたのだろう。サッキュバスという悪魔の生態は、わたしには計り知れない。
あれから一週間。あの後、わたしはサレアを抱えなんとか自分の家にたどり着いた。道中で多くの視線を集めることになってしまったが、そんな形のないもの気にしている暇もなかった。
サレアはやはり、魔力を使い切ってしまったらしく、大きく開いた傷はいまだに治ってはいない。それでも、絞り出した魔力だけであれだけの追っ手を蹴散らすことができたのだからサレアは本当に魔王の娘なのだろう。
あの男たちはどうなったのかと聞くと、サレアはあっさりと「死んだ」と言った。悪魔にとっての生死がどういうものなのかは分からないけれど、わたしが罪悪感や、悲しみを胸に抱えることはなかった。それよりも、サレアの安否が最優先だったのだ。
わたしが立ち上がろうとすると、僅かな力で服を引っ張られた感触がある。見るとサレアがソファからずり落ちそうになりながらもわたしの服を掴んでいた。
「ねえ、ドレス。まだ直らないの?」
「破れた部分はとりあえず補強したよ。あとは同じ色の布で隠すだけ。もうちょっと待っててね」
「くひひ、早くしないとどうなるか、わかってるよね?」
「分かってるよ。だから、サレアこそ早く治してよね」
落ちそうになった体を支えてソファに戻してあげる。翼や尻尾がつっかえていたので、外に出してあげると、心地よさそうにサレアは目を閉じた。
サレアや、悪魔の事情はよく分からない。要は、サレアはサッキュバスと呼ばれる種族で、本来サッキュバスは男の人の、その、そういうものを摂取して生きていく悪魔なのだけど、サレアはそれをしないで、魔界から追放されたのだという。
当然悪魔が魔力を補給しないと、体の中にある魔力は枯渇する。枯渇するとどうなるか、それはわたしにもなんとなくだけど分かる。死ぬのだ。
魔力を持つ悪魔は基本的には死なない。寿命もなければ、体も内蔵も無限に動き続ける。しかしそれも、魔力があってこその話だ。悪魔は他者に殺されるか、魔力を失うかで肉体が滅びる。
そしてサレアは今、その危機の真っ只中にいた。
どうして魔力を補充しないの。そう聞いても、サレアは頑なに「望んでいない」と冷たい声で言い放った。それを責めることは、わたしにはできない。
フライパンを洗ってから、洗濯を回して、部屋の掃除をする。服の整理ついで、サレアに合いそうな服を探して、今はもう誰も使っていないクローゼットに入れる。
微かに香るバニラのにおいが、過去の住人を思い起こさせるが、甘酸っぱい気持ちも、苦しい気持ちも生まれることはなかった。蘇るのは、あの日わたしが見た、血まみれの雪道だ。
両者譲ることなく、結局殺し合うしかなかったあの場所で、わたしは互いの抱える譲ることのできない思想のぶつかり合いを見た。思うところがなかったわけではない。
どちらの言い分も痛いほど分かり、だからこそきっと、話し合いなんかじゃどうにもならない。
そうして男を殺した後、サレアは泣き叫ぶように嗤い続けた。歯を剥き出しにして喉を震わせるその姿は、悪魔にしてはひどく脆く、悲しみを帯びていた。わたしにはあれは、サレアが自分の気持ちを誤魔化すために嗤っているように見えて仕方が無かった。
サレアだって本当は望んでいないはずだ。同じ世界で生まれた同じわたしたちが、どうして争わなくちゃならないのか。
それはきっと、わたしたち自身が、同じじゃないからなのだろう。
タンスを開けると、弓梨の物が山ほど出てくる。乱雑にしまわれたヘアゴムや、乾いて中身のない香水。封の開いていないティーパックや、蓋のなくなった化粧水。弓梨は大雑把な性格の女性だった。
がさつで、サバサバしていて、けど、言うことはきちんと言う。そのくせ感受性はとても高くて、よく笑ったり泣いたりするから、そういう表情の変化や機嫌の上下を見るのが好きだった。
不機嫌なときは、顔に出るからすぐに分かる。そういうときは決まって、帰ってくるやいなやわたしを押し倒し、わたしを求めた。強引な触り方も、わたしに対する配慮のなさも、きっと何もかもを忘れたい。その一心だったのだ。
腹を抱えて嗤うのと同じように、痛がるわたしの顔を見て弓梨は幸せそうに嗤った。
それでも、わたしが誰かの役に立てているのなら、いっかって、そう思っていた。
わたしは結局、存在そのものじゃなくって、この弱くて儚い、体だけを求められていたのだ。自分よりも弱い存在を探す、そんな狩人にとって、わたしは良質な獲物だったのだろう。
けれど、弓梨は狩人ではなくなってしまった。だからわたしの元から離れていった。
弓梨の物を一つ一つ、片付けていく。
リビングに戻って、サレアの顔を覗き込む。わたしの気配を感じ取ったのか、鋭い瞳が見開いてわたしを射貫く。飢えた、狩人の目だった。
「もうドレス直ったの?」
「ううん、まだ」
「あんまり急いで指を刺しちゃったりしてね。ざくろってばドジだから、そのまま指を串刺しにして血が止まらなくな――」
「わたしじゃダメかな」
きょとんとするサレアに覆い被さって、その小さな顔を見下ろす。
「わたしじゃ、餌にならないかな」
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