第21話 同じ世界で生まれたはずなのに
睨んで、念じて、全部を吐き出すように、その男の持つ剣を見た。
バチン!
音と共に剣が粉々に砕ける。呆気にとられている男の足を蹴って、横たわっているサレアを抱いて走った。
後ろからものすごい音が聞こえる。白い閃光のようなものが何度も頬を掠めた。
サレアに教えてもらったやり方で、自分の足を最大限動かし続ける。壊れたゼンマイのように走ると、前頭葉のあたりがジワと熱くなる。焼き切れそうなそれを振り払って、魔力を足に送り続けた。
腕の中のサレアは目を瞑っていて、どこか苦しそうにしていた。お腹からはおびただしいほどの血が流れ、開いた傷口からは白い何かが顔を出している。
よく考えたら、これはお姫様抱っこだ。わたしも小さい頃は思い人が望んでいない結婚式からわたしを連れ出してくれる、みたいな妄想をよくしていたけど、まさかわたしが連れ出す側になるなんて思ってもみなかった。
ただこれは、結婚なんて未来や希望に想いを馳せられるほどの幸せに満ちあふれた状況ではない。生きるか死ぬか、生きる気があるのかないのか。そういう、退廃的なものに追い込まれているということに気付くと、背の伸びたわたしは、足を動かさざるを得ない。
子供から大人になるって、きっとそういうことだ。小さい頃はできていたことも、大人になるとできなくなる。でもその代わり、子供の頃にはできなかったことが大人になればできるようになる。失っていくものと、得るもの。わたしにとって、どちらが大事なのか。
断言はできないけれど、失うことには、もう慣れきってしまっている。
たまには、得たものに喜び、涙し、褒め称えられるようになりたい。
「止まれ」
声と同時、銀色の輝きがわたしの首元を捉える。急停止すると、地面の雪が砂埃のように舞った。
「驚いた。まさかそこまで制御できているとは。使い方を教えたのは、そいつか」
褒められたのだろうか。嬉しくはない。
男に次いで、取り巻きも次々に集まってくる。同じ悪魔を振り切るのは、そうたやすくはないようだった。
腕の中のサレアを抱き直して、男を睨む。
正直、怖い。
暴力、虐め、眼光、太い腕、暑苦しい息。高圧的な態度に、何を考えているのか分からない謎の恋愛観を内包した胸中。何もかもが、昔からわたしは苦手だった。大事なものを何度も壊された。夢も、好きなものも、憧れも、趣味も、価値観も、全部その生まれ持った強靱な体躯に破壊されてきた。
だからわたしは、その生き物が苦手だ。
「怯えているじゃないか。安心しろ。心臓と、そこの裏切り物さえ渡せば危害は加えない」
ギュ、とサレアの体を抱く。驚くほど、その線は細かった。
「いやです」
「悪魔だぞ」
「知ってます」
「そいつは裏切り者だ。世界から追放された異端生物に戻る場所などない。誰もから忌み嫌われ、唯一施された贖いにも従わなかったそいつを必要としている者などどこにもいやしない」
「そんなの、分からないじゃないですか」
「なに?」
「ひ、必要とされているかどうかなんて、本人にだって分からないのに、あ、あなたたちに分かる訳がないです」
不思議と震えは止まっていた。立ち向かうのは二度目だ。ああ、わたしはこれまで、二度しか立ち向かったことがないのか。なんて平和な人生なんだろう。ただ暴力を受けて、泣くだけの人生は、安寧に溢れている。
「サレアは渡しません」
「肩入れをしたか」
「違います。わたし、まだ貰ったものを返せていないので」
首元に添えられた刃が、ピクリと動く。
わたしの前を歩く、ドレスを着たサレアの姿を思い出す。凜とした立ち姿、優雅な歩き方、物怖じしない眼差しに、前を向いた顔。そのどれもが眩しくて、果てしなく遠くて、生きていくには不必要に感じた。でも、生きたいと思うには、それがどれほど大切なものか、今なら分かる。
男だけではない、無数の取り巻きから刃を突き立てられる。無数の鉄が、わたしの命を刈り取ろうとしている。一斉に刺されたら、痛いだろうか。おもちゃみたいに、ポーンと首が飛んでいくだろうか。
頬が削り取れるよりは、マシかもしれない。
「最後に聞こう、元人間。心臓と、その悪魔を渡せ」
「いやです」
「そうか」
殺意がわたしの動脈めがけて飛んでくる。鉄から伝わる冷たさに、心臓が跳ねる。
その瞬間、わたしの視界は血しぶきでいっぱいになった。
複数のものが弾けた。命を絞るようなその一撃に、わたしは唖然とするしかなかった。
「くひひ」
腕の中で、サレアが笑っている。
カラン、と。剣が地面に落ちる。あれほどいた取り巻きも、潰した空き缶のようになって地面に転がっていた。
これがサレアの力なのだろうか。あまりの圧倒的な力に、わたしでさえ息を呑んでしまう。
サレアは血を流しながらも、いつもの笑みを浮かべていた。なんとか無事のようで、ホッと胸を撫で下ろす。悪魔の匙加減を測るのは、なかなかに難しかった。
なんとか耐えきったのか、わたしの目の前にいた男は膝を着きながらこちらを睨み付けている。
「化け物が」
「有象無象を集めても、あたしには勝てないよ」
サレアはわたしに抱かれたまま、男に手の平を向けた。
「ぐ・・・・・・ッ!」
見えない何かが、男の体を潰そうとする。ミシミシと骨の軋む音がして、噴水のように血が飛び散る。明らかに、耐えようとする力と潰そうとする力が釣り合っていなかった。一方的なそれに、男の表情から余裕が消えていく。
「けほっ、くひひ・・・・・・変わったね、あんたも。昔はもうちょっとバカだった」
「貴様は変わらない。昔からずっと、幼稚なままだ。自分さえよければいいと思っている」
「生まれた時も、生まれた世界も、同じなのにね」
「道を違えたのは貴様だ」
「前しか見えなくなったのはあんただ」
「前を見なければ我々は生きてけない。受け継いでいくものがある限り、我々は世界と、後世のために生きる」
「あたしはあたしのために生きる。この体と心が有る限り、抱く理想に嘘はつけない。だからこそ、奇跡や魔法に恋い焦がれるんだよ」
「サッキュバスであるなら、やりようはいくらでもあったはずだ」
「言ったでしょ。そこに愛はないんだ」
「仕方の無いことだ。生きるためには、従わなければならないこともある」
「なら喜んで死ぬよ」
ズ、という粘り気のある音と共に瘴気が空気を侵食しはじめる。黒ずんだ空間にいる男は、抵抗虚しく地面に伏せていた。
「誰がサッキュバスになんて生まれたいと思う?」
サレアの瞳には、刃なんてものじゃ比べものにならないほどの鋭利な殺意がこめられていた。
「あたしだって普通の恋愛がしたかった。知らない人の命なんて、注ぎ込んで欲しくなかった」
「子供のような我が儘を」
「我が儘? 本当にそう? 窮屈な道筋に圧迫された固い意志は、あんた達が生んだんだよ?」
「自分の罪を顧みることのできない弱者の、戯れ言だ」
「偏見という大雑把な表紙に帯をつけたのはあんたたちだ。分かり合うことなんてできない。目に見えるグループの中に存在する意見の多さを正解、常識という世界がある限り、どうせ話し合いなんてできやしない。だからあたしたちは殺して、殺されるしかないんだよ」
サレアの声色は地を這うように低い。
突き出した手を、ゆっくりと閉じていくと、男はベキベキと、体の形を変える。
「殺し合うしか、ないんだ」
「・・・・・・ああ、そうなのかもしれない」
「同じこの世界で、一生」
「だが、正しいのは我々だ」
「大多数のどちらに傾いていたかってだけの話だよ。この世界にあたしの方が多ければ、間違っているのはあんた達だ」
「暴論だな」
「そういうくだらないものでできているんだよ。だから、相容れなくて、互いに何かを押しつぶすように、牙を剥き殺意を放つ」
「そうして、勝ったのは貴様というわけか」
「最初に言ったでしょ。あたしの方が強いんだから。魔王の娘に、勝てるわけないじゃん」
「亡きお父様も、喜んでいらっしゃるだろう。これだけの強靱な力を受け継いでいるのなら」
「本当、お堅いね。そういうところ、昔から窮屈そうだなって見てた。あのさ、今ならまだ間に合うよ。あたしに殺されたくなかったら、見逃してよ」
「無理な相談だ。もう一度言う。貴様は間違っている。悪魔として生まれ、サッキュバスとして生まれ、それなのに義務を放棄した貴様は裏切り者だ。反逆者だ。異端生物以外のなにものでもない」
「殺されそうだっていうのに、活きが良いね」
「これは譲れない。正しいのは我々だ。貴様だって、もっと柔軟に、生きることができたはずだ。選択肢はあったはずだ。悲しくても、苦しくても、気持ち悪くても、意に反していても、自分を押し殺し、みなと同じように生きれば、これほど多くの刃を向けられることもなかった」
「違う。これはあたしの意思だ。あんた達の聞き分けさえよければいいのに、あんた達は頑なに耳を貸そうとはしなかった。なにかあるごとに異端生物を否定した。もっとわかり合えたはずだ。もっと話し合えたはずだ」
「間違っているのは貴様だ」
「間違っているのはあんた達だ」
「――殺してやる」
二つの声が重なった。
そして、男が何かを言おうと口を開いた瞬間、サレアがその手をギュ、と締めた。
「オルゴーン」
弾け飛んだ肉塊を眺めながら、サレアがそう呟いた。
買ったばかりのドレスには返り血がビッシリと付いている。サレアはわたしの腕の中から降りると、ぐちゃぐちゃになった肉塊に触れ、小さくこぼした。
「バカばっかりだ、本当」
すると、その肉塊の中から光がぼうっと浮かび、小さく弾けるとサレアの体を破片が貫いた。
「バカは貴様だ、ヨルカトン=ヘル・アーマゲウス」
小さくなっていく声は、光が消えるその間際まで、無機質な殺意を放ち続けていた。
「いまだにフルネームであたしを呼ぶの、あんただけだよ」
しばらくすると、あたりの空気が澄んでいく。瘴気は完全に消え去って、誰もいない、いつも通りの路地にわたしたちはいた。
サレアはしゃがみ込んだまま、何もない虚空を見つめている。
「さ、サレア」
緊張により、わたしの声は掠れてほとんど音になっていない。
「今の男、知り合い、だった?」
話している内容は殺伐としていたけど、その掛け合いからは、とてつもなく長い時間によるかみ合いを感じた。
肩に触れると、サレアがこちらに振り返る。
鋭い殺意を秘めた瞳には無垢な水分が浮かんでいた。
「サレア、泣いてるの?」
言うと、サレアは自分の目元を拭って、湿った指先を見た。
「くひ」
しゃっくりのようなそれは、塞き止めていた何かに向けて、大量の汚物を流し込むように、空を震わせる。
「くひ、くひひひ、くひひひひ」
「サレア・・・・・・」
「くひひひ、くひっ、くひひひひひひひひひひひひひひひひ!」
真っ赤に染まった雪の中で佇むサレアは、大粒の涙を流しながら。
腹を抱えて、嗤っていた。
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