第32話 本当にただ、それだけで

「言ったよね? 余計なもの流し込みすぎなんだって」


 恐怖すら感じるその雰囲気に呑まれてしまう前に逃げようとすると、再び、唇を奪われてしまう。


「――ッ」


 なんで、どうして。


 そんな疑問すら口にすることは許してくれない。


 彼女は何度も何度も、わたしの桜色を、立て続けに吸った。わたしの反応を確かめるように、何度も。


 苦しい、恥ずかしい、助けて、やめてください。


 どれだけ叫んでも、サレアはやめてくれなかった。


 目を瞑ると、わたしの前に冷徹な鉄骨が現れて、血肉を吐き出し、通過していく。そこに倒れているのはわたしだ。それを見ているのは、羽を生やした、黒い悪魔だった。


「な、んで」


 ようやく顔を離して、わたしは目の前の出来事に呆然とする。


 記憶は消えるはずだった。記憶は消える。記憶が消えるということ自体を覚えていては、なんの意味もないじゃないか。じゃあ、記憶は消えていない。いや、どちらかというと、目覚めのようなものに似ていた。


 夢だったはずじゃないかと、布団から抜け出して天井に吐き出すような、そんな感覚。


「知らないの? お姫様は、キスで目を覚ますんだよ」


 サレアはわたしの頬に触れながら、そう言った。


 次第に思い出していけたら、もっと純然と喜べたし、もしかしたら、涙さえ流していたかもしれない。けれど、こうも、頬を引っぱたかれたかのように起こされたら、目をぱちくりとして現実を受け止める他ない。


「めちゃくちゃだよ」

「めちゃくちゃじゃないよ。虹色の鳥を見ても、ざくろは嘘だ夢だーって、認めないの?」

「虹色の鳥は、いるかもしれないじゃん」

「白雪姫だって、いるかもしれないでしょ」


 もう一度、サレアがわたしに唇を近づけてくる。


「思い出した?」

「うん」

「長過ぎだよ」

「そう、なの?」

「一年経った」

「・・・・・・そうみたい」

「あたしに久しぶりに会えて、嬉しい?」

「嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい」

「なにそれ。あたしはずっとざくろのこと見てたから、久しぶりじゃないけどね。いつ気付くかなーってざくろの仕事先まで行ってみたけど、ざくろ全然気付かないんだもん。まあ、ざくろが頑張ってる姿見られて、ホッとしたけど」

「そういう、こと」


 そっか、サレアはずっと、わたしに会いに来てくれてたんだ・・・・・・。


「って、気付くはずないじゃん! 記憶なんてないんだし、それに、サレアだって、全然髪の色違うんだもん! 翼も尻尾も生えてないし!」

「それはざくろのせいでしょ?」

「わたしのせい?」

「あたし、悪魔の魂だけ分けて貰えたらそれでよかったのに それなのにざくろったら、人間の魂まで注ぎ込んでくるんだもん。余計なもの流し込みすぎってアドバイスしたのに、忘れちゃったの?」


 くひひ、とサレアが笑う。


「え、っと。ごめん?」


 とはいえ、わたしはそんな、人間の魂だとか悪魔の魂だとか、区別はつかない。ただ、体から飛び出した心臓をサレアにあげただけだ。


「おかげであたし、死ぬようになっちゃったよ」


 そう言うサレアはしかし、悲しそうには見えなかった。


「老いるようになっちゃったよ。飛べなくなっちゃったよ。お腹が空くようになっちゃったよ。痛みを、感じるようになっちゃったよ。どうしてくれるの? ざくろ」


 抱いたサレアの体には、熱が通っていた。


 それは紛れもない、人間の体だ。


「責任取ってくれるんだよね?」

「それは、まぁ・・・・・・」

「取れ」

「は、はい!」


 いきなり胸ぐらを掴まれて脅迫されてしまったので、わたしも返事をせざるを得なかった。でも、きっと胸ぐらを掴まれていなくとも、わたしの声は、はじき出されるように喉から出ただろう。


「ざくろ、ちょっとしゃがんで」

「え、なんで?」

「もう飛べないんだから、察してよ」


 いまいちサレアの意図が汲み取れないまま、わたしはサレアの前で膝を曲げて見せた。


「ずっと見てたよ」


 サレアの、聞いたこともないような、人間味のある声が頭上に降り注ぐ。


「がんばってたね、ざくろ」

「・・・・・・うん」

「あたしがいなくても、大丈夫そうだ」

「それは違うよ」

「どうして? ざくろは充分、立ち向かえてたよ」

「もちろん、生きる決意をしたのはわたしだから、もう、痛くても辛くても、自分を蔑ろにしたりはしないよ。でも」

「でも?」

「楽しくは、ないから」


 お利口に生きる。前にならえで生きる。


 俯かないで前を向く。誰も傷つけず、自分も傷つけず、生きていく。


 泣くより笑う。それでも泣きそうなときは誰かを頼る。


 そういう、整然とした生き方は、誰にでもできることじゃないし、それができるだけで、人は幸せかもしれない。


 それでも、刺激というものがなければ、わたしの舌はまた、甘いものを受け付けなくなってしまうかもしれない。


「悪いことがしたいって?」

「そうかもしれない」

「悪魔みたいなこと言うね」

「最近、同じようなこと言われた」

「今のあたしたちはあくまで人間だよ。悪いことと言っても限界はあるし、ざくろは具体的に、どんなことがしたいの?」

「笑っていたい」


 仕事をこなす。毎日早寝早起きする。誰にも怒られない。誰かの役に立てるような人間になる。必要とされる人間になる。人からすごいと言われるような人間になる。


 それもまた、一つの生き方なのかもしれない。


 でもそれじゃあ、やっぱり、機械的で、体は冷たくなっていくばかりだ。


 仕事でミスしても、夜更かししちゃっても、寝坊しちゃっても、それで怒られちゃっても、誰からも必要とされなくても。世界から必要とされていなくても。


 それでも、周りと同じように、溶け込むように。


 当たり前のように笑えたら、それでいいのかなって思う。


「なんて、悪魔モドキのわたしが言っておりますが」

「くひひ、モドキ、じゃないよ」


 顔を上げると、サレアの綺麗な瞳がわたしを映す。


 ああ、この、真っ直ぐで、鋭い、純然とした光に、わたしは何度も恋い焦がれたのだ。


「ざくろを最初に見つけたのはあたしだ。だからざくろは、ざくろだよ。人間界は、そういう決まりなんでしょ?」

「そうだね」


 形は同じなのに、後から見つかってしまったばっかりにモドキなんて、そんな理不尽な目にあってはたまったものじゃない。


 わたしはわたしだ。そういうものを、サレアは思い出させてくれる。


 やっぱりわたしは、サレアと一緒にいたい。


「ねえ、サレア。もう一回、目を覚ましたい」

「んー? ああ」


 少し考えてから、わたしの意図が伝わったのか、サレアは目を瞑って、顎を突き出す。


 小さい顔に手を添えて、その唇にキスをした。


「んん――!?」


 と思ったのだけど。


「ぶえっ! な、なにこれ!?」


 口の中でじゃりじゃりとしたものがある。


 わたしの手の中にはサレア・・・・・・ではなく、汚れた粘土が握られていた。


 粘土とよろしく、フレンチキッスを決めたらしい。冷たく、固く、さっぱり心地の良いものではなかった。


 唇にまとわりつく砂利を吐き出すわたしを、いつのまにか庭のほうまで逃げ込んだサレアがお腹を抱えながら見ていた。


「ちょっとサレア!?」


 そんなサレアを、わたしは追いかける。当然サレアは逃げるのだけど、人間になったばかりのサレアとわたしの足は、ほぼ互角だった。


「もー! いい雰囲気だったのに! 絶対あそこはキスするところでしょ!」


 もうどうでもよくなって、粘土をサレアに向かって投げる。そもそも、なんで粘土なんだ。そもそもこの家はなんなんだ。金は、ご飯は! 聞きたいことが山ほどある。話したいことが山ほどある。


 怒りたいことがたくさんある。愚痴もこれでもかというほどに溜まっているし、それに、感謝したいことも、数え切れないほどにある。


「待てー! この悪魔!」


 ひょいと粘土を交わしたサレアは、余裕そうにこちらを振り返り、あっかんべーと舌を出す。わたしが怒ると、サレアは目元を細めて。


「あはっ、あはははは!」


 腹を抱え、心から笑った。


 だからわたしも、そこを目指す。


 笑顔の絶えない、そこを目指す。


 わたしとサレアが、心から笑える場所。


 痛い、苦しい、理不尽だ、わたしの話を聞いて、理解して、虐めないで、お願いだから、優しくして。そんな願い、誰も聞いてはくれない、そんな世界の隅で、


 弱いわたしたちが、心から笑える。


 本当に。


 ただ、本当にそれだけの。


 普通の世界へ向けて、わたしは走る。


 わたしたちはあくまで人間だ。傷ができれば血が流れるし、辛いことが積み重なれば、死にたくなるときもある。そういう、脆弱な生き物だ。


 飛べないし、体力にも限界があるし、老いるし、死ぬ。


 でも、だからこそ、この限られた体で、後悔のない自分を貫かなきゃダメなんだ。


 世界なんて嫌いになっていい。


 常識なんて嫌いになっていい。


 でも、自分だけは嫌いにならないように。


 自分を嫌になる暇もないほどに、自分を許せる日々を。


 これからも。


 飽くまで続けていこう。

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わたしはあくまで人間です 野水はた @hata_hata

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