第31話 虹色
目の下に入れたオレンジ色をひっさげて、青葉の香りがする街路樹を通る。
吹き抜ける春風を受けるとせっかく仕上げた前髪がリセットされてしまい、近所のコンビニに駆け寄ってお手洗いの鏡で手直しをする。駐車場にリードで繋がれた温厚そうな犬に何故か吠えられてしまい、お尻に火が付いたような勢いでその場を去ったりなんだり。ふとした瞬間に緊張を思い出し、必要のない力が肩肘に入ってしまう。
わたしはなるべく、菓子折の入った紙袋にシワがつかないよう体から離して持つ。がに股というか、がに腕というか。変な格好になっていた。ところで、がにってなんなのだろう。カニのような姿が由来しているのなら、カニ股じゃないのだろうか。でもそれだと、カニ玉とごっちゃになっちゃうか。なんてどうでもいいことを考えながら、少し塗りすぎたかもしれない口にはなるべく触れないよう、くしゃみをする。
これから向かう先に、わたしは何を期待しているんだろう。新しい出会いとか、もしかしたらお互い気になってましたとか、そんなようなものを、胸に抱いている。
お得意様と約束したその日が、ついにやってきたのだ。
幸い空は晴れていて、紙袋から顔を出すアザレアも買ったときよりも元気そうにしていた。
指定された時間にはちょうどよく着きそうだった。渡されたメモ帳には、たどたどしい文字で住所が書いてある。とても綺麗な女性ではあるが故に、そのギャップはどこか愛らしいものがあった。
彼女の住んでいる家は一軒屋だった。特段飾るものもない、ありきたりな家。だけど、この家にあの人が住んでいるのかと思うと、お城に招待された平民のような気持ちになってしまう。
緊張しながら、風除室に設置されたインターホンを押す。家の中から微かに音が聞こえる。しかし応対はない。
五分ほど待って、もう一度押そうか、でも何回も押したらしつこい女だと思われて嫌われるか、なんて迷って、身動きがとれなくなってしまった。
そんなとき、庭の方から声がして、わたしは風除室を出て、家の敷地をぐるりと回った。
花がたくさん植えられたカラフルな庭の石段の上に、彼女はいた。
どう声をかけようか迷いながら、車の停まっていない空の駐車場から顔を覗かせてみる。
彼女は石段の上で。なにやら白い物体をこねていた。なんだろう、あれ。
「粘土をね、こねてるんですよ」
彼女はわたしを見ないまま、しかしわたしの来訪には気付いているのか、粘土をこねる手を止めない。
わたしはあがっていいのかどうか迷いながら、失礼しますと言って庭にあがらせてもらった。
「粘土って不思議ですよね。こうやってこねてあげると形を変えて、強くこねればこねるほど、重みを増していく。これを芯と言うのですけど、これを放っておくと今度は逆に、形を保ったまま固まってしまうんです。こうなってしまうと中々手強くて」
「は、はい」
そうですか、なんの話?
そんなことを言うわけにもいかず、わたしは曖昧に肯定してしまった。それに気付いたのか、彼女は優しい笑顔を浮かべて粘土を手の中で遊ばせた。
「人間と似ていますよね」
「え?」
「あなたはどうですか? もう固まってしまっていますか?」
「どう、でしょう」
「こねてみれば分かるでしょうか」
はじめて彼女と目が合う。イタズラっぽく笑う彼女に、面食らってしまうわたし。
「冗談です」
そう言って小首を傾げると、彼女の艶やかな黒髪が色とりどりの景色の中で優雅に舞う。綺麗だ。・・・・・・わたし、目を奪われてばっかりだな。
今日ここに来た本当の意味を思い出して、紙袋を彼女に差し出す。つまらなくはないはずなのだけど、一応、つまらないものですがと言っておく。彼女も、それを正面から捉えていないのだろう。中身を見ないまま「どうも」と返事をした。
彼女はお茶を出すと言って家の中へと消えていく。わたしは内心、よし、と喜んでいた。菓子折を渡してビジネストークをしてそれで終わる可能性もあったわけなので、まだ話せるということに安堵する。
お盆と一緒に、温かいそば茶を持ってきてくれた彼女は、わたしの隣に腰掛けた。ふわりと、バニラのような甘い香りがした。
「あれは、アザレアですね?」
「え、あ、はい。そうなんです。たまたまお店で見つけて、えっと、喜んでいただけたらと思いましてっ」
輪ゴムを飛ばしたような語尾に、茶碗の水面が揺れる。
「白いアザレア、綺麗ですよね。花言葉はたしか『あなたに愛されて幸せ』だったかな?」
「え」
「そういうことなんですか?」
間近で彼女に見つめられて、ぶわっと顔が熱くなっていくのを感じる。
「ち、違います。花言葉とか、そういうの全然知らなくて、ほんと、勘で選んだといいますかっ」
「分かってますよ。そんなに慌てないでください」
ふわりと花が乗るように、彼女の手がわたしの手に重なる。ドクンドクンと、心臓が跳ね回る。
火照る体を押さえるようにして、わたしは無心を貫く。しばしの間、彼女と一緒に庭にやってきた小鳥たちを眺めていた。
「鳥といえばやっぱり、黒か白を連想しますか?」
ふいに、彼女が小さな声で問いかけてくる。耳をくすぐるようなその声に、背筋をゾクゾクとさせながら答える。
「そうですね、カラスとか、ハトとか。やっぱり黒か白なので」
「それなら、塗りつぶしたいのかもしれませんね」
「どういうことですか?」
「青や黄色の鳥もいますけど、そういう前向きなものより、目の前の景色を大事にしてるってことです」
目の前の景色を大事にしている、というよりは、目の前しか見えていない、のほうが正しいかもしれなかった。わたしの場合。
「でも、世界のどこかには虹色の鳥もいるらしいですね」
「え、そうなんですか?」
「冗談です」
「ま、また」
「あんまり簡単に信じちゃダメですよ」
彼女はそうやって、人をからかうのが好きなのかもしれない。仕事で会話するだけでは決して見ることのできない一面を見られて、わたしの心はどこか浮き足立っていた。
「でも、いたらいいなとも思いますよね。黒も白も、青も黄色も含んだ、そんな鳥がいるのなら」
「そうですね。そんな鳥を見ることができたら、ちょっとの間だけど、幸せな気持ちになれるかも」
「勇気なんてものじゃ抗えないほどの惰性があるのだとしたら、それは、探そうとしない自分のことなのかもしません」
「素敵な考えだと思います」
「はい、そうやって現実を塗りたくれたら、いいですよね」
そう言って、彼女は粘土を筆で撫で始める。けど、そこに色はない。無色透明を、一心不乱に塗りたくっていた。
「こんな感じで、どうですか? 綺麗な色でしょう?」
「は、はい。とても」
「冗談です」
わたしが困ったような反応を見せると、彼女は何かを我慢するように、頬を膨らませた。わ、笑うの堪えてませんか? それ。
そうこうしていると、彼女の手から粘土が落ちて、庭の外へと転がっていってしまった。群がっていた小鳥たちも、それには驚いてどこかへ飛び立ってしまう。
「すみません、あれ、取ってきてもらっていいですか?」
彼女に言われて、わたしは一目散に駆けていた。犬みたいだ。
粘土は道路にまで転がっていってしまった。すでに砂利などがこびりついてしまっている。あれをどうにかできるのかは分からないけれど、手遅れになる前に拾ってしまおう。そう思って手を伸ばすも。
「あっ」
曲がってきた車に気付いて、手を引っ込めてしまう。幸い接触することはなかったけど、車が通過したそこでは、タイヤの跡を付けて潰れてしまった粘土が哀しげに地面に広がっていた。
「す、すみません。間に合いませんでした」
振り返って謝ると、わたしのすぐ後ろに、彼女が付いてきていた。
「せっかくのチャンスだったのに、よかったんですか?」
「チャンス、ですか?」
「ええ、せっかく、あの粘土みたいになれるチャンス、だったのに」
粘土、みたいに?
地面に横たわる砂利混じりの粘土を見る。
ジャリ、ズザ、グチャ。
不自然なほどに鮮明な、聞いたこともないはずの音が信号を送るように脳内を駆け巡る。痛い、苦しい。胸が引き裂けそうだった。
「あ、あの、わたし」
顔をあげると、ふいに彼女の前髪が風に揺れた。
視界に日陰ができあがる。
わたしは彼女に、キスをされていた。
ドクンドクン、ドクンドクンと。鼓膜の横に心臓があるんじゃないかというような激しい鼓動に周囲の物音が入らなくなる。
顔を離すと、彼女は三日月のように口角を歪めて、笑った。
「粘土だって、最初は丸だった。でも、外の力によって形を変えて、歪んで、捻れて、最終的には、あんな土まみれの茶色になって、地面に同化しちゃってます。本当は綺麗な白色をしていたのにね」
わたしよりも一回り背丈の小さい彼女だけど、その低い声色での物言いには、威圧のようなものを感じてしまう。わたしが後ずさりすると、彼女はわたしの腕を掴んで、離してはくれない。
彼女は自分の毛先をつまんで、わたしに見せつけるようにしてくる。
「これだって、本当は白だったんですよ? でも、いろんなものが抜け落ちて、要らないものまで流し込まれて、こんな色になっちゃった。白色、結構お気に入りだったのに」
彼女が笑うと、雪が降ったかのように寒気がした。
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