第1章

第1話 同じように生きろ

 工場で作られた部品のように、人も寸分違わず同じだとでもいうのだろうか。


「こっちだってずっと疲れてんのよ!」


 わたしにはそんな大きな声は到出せないし、白目を剥くまで誰かを睨めたりしない。完成した品が欠陥付きであるとか模造にしかすぎないとか、そういうんじゃないんだろうけど。内部に流れる、根本的な温かさのようなものが明らかに違っていた。


「やれ足がむくんだめまいがするだ、甘えすぎなんだってば! みんなそれを我慢して仕事してんの!」

「す、すみません」


 息切れと動悸が激しく、鉄を削るような耳鳴りの音が、かけられている言葉を不明瞭にする。滲む冷や汗は口の水分を奪っていき、反論しようとする舌は砂を拾うように粗く滑るばかりでわたしの意思を汲み取ってはくれない。


「でも、お医者さんにも気をつけるよう言われてて、元々貧血気味なのもあってほんの少しだけ休ませてほしいんです」

「あたしだって糖尿の薬飲んでんの! 見るかい!? 体悪いのなんてみんな一緒なんだから、片山さん見て見んさい! あんなに湿布貼りながら頑張ってんだよ!?」


 机を叩く音が事務所内に響く。いつものことかと、一瞬だけ視線をよこして自分の作業に戻る周りの人は、きっと薄情なんかではないのだろう。


 それぞれに別々の生活があって、愛する人もいて、自分だけの夢がある。


 得意不得意ですら違って、好き嫌いもその人の心の中にだけ存在する。外付けなんかじゃない。わたしたちは違うからこそ支え合って生きていくんだ。


「みんな同じなんだから!」

「・・・・・・はい」


 全部全部、同じなんだって。


 疲労も不幸も悩みも苦しみも全部一緒。体力も気力も寿命も何もかも一緒で、生まれるときも死ぬときもみんな同じ。今すぐにでも天井が降ってきたら誰かは生きる残るのかな、なんて幼稚な妄想をしてしまう。


 最近体作りに励んでいると噂の技術士の中村さんなら、生き残れるだろうか。


 そうじゃないよね。


 みんな同じなんだもん。


 体が強い人も、弱い人も、関係ない。感じる辛さはすべて同等で、仕事以外で蓄積した疲労や悩みのタネ、病気、家庭の事情、業務の量、責任の重さ。全部が同じだから、わたしも、他の人も、今も二階で一服しているであろう上司も、感じる辛さは全部同じ。


 こちらを睨み付ける鋭い瞳に精一杯の謝罪をして、わたしは自分のデスクに向かい合った。


 打ち込めば出てくる、甘えという文字。タイピングが遅くても、文字を消す時間はいつだって一瞬で、積み上げたものなどなんの意味もないのだと思い知らされる。


 わたしだって、弱音を吐いたわけじゃない。


 もう何時間も前から限界で、それでもきっと注意されることは分かっていたからなんとか耐えた。けど体は心の忍耐など知ったことではないと悲鳴を上げ続ける。


 それを知っているのはわたしだけだ。いつもより体調が悪く、長引く治療と薬の副作用もあって体の血液が上手く巡回してくれない。だから足はむくむし、途中で痺れて、やがて痛みに変わる。すると咳が出始めて、血栓でも飛んだのかと疑ってしまうほどに呼吸が苦しくなる。


 それを何時間も経ての、これだ。説明なんてきっとできないだろう。積み上げたものを消すのは、一瞬だ。


 やがて私は、意識が真っ白になっていくのを感じながら椅子から落ちていった。



 帰り道では雪が降っていた。


 コートの隙間から入ってくる冷気に体は震え、仕事の終わり際に浴びせられた言葉に心は怯えてしまっていた。


『体調管理も仕事のうちだって言ってるでしょ! もうさ、そうやってダラダラ仕事されても目障りだからもう帰りな!』


 生きるのって、こんなに難しいことだったっけ。


 雪をかきわけながら、小さな頃の記憶を呼び起こす。無邪気に白い世界を駆け回っていたときとは比べものにならないほど、今が磨り減っていた。


 コンビニで今日の夜ご飯を買って、外に出ると駐車場に設置されている柵にリードが繋がれていた。その先には、もふもふと毛並みの柔らかそうな犬がいた。


 犬は蕭々と降りしきる雪に飛びついて楽しそうに遊んでいた。


 わたしが近づくとその小さな頭を出してきて、撫でてってかわいらしく催促してくる。


 人懐っこいのかな。


 愛嬌もあって、こちらまで頬が緩みきってしまう。


 こんなに寒いのに元気だね。


 冷たいものを浴びてもハツラツとしていられる快活さが羨ましかった。わたしもこんな風にもふもふに生まれたら、また違ったのかな。


 わたしは昔から体が弱かった。朝はめまいと腹痛、昼間は強烈な倦怠感。夕方になると動悸と息切れ、むくみと冷や汗が続き、夜になると不安と恐怖が心を黒く染めていく。


 病院にも何度も行ったけど、結局これという病気は見つからず、お医者さんには体質だろうと言われた。今も定期的に検査には行っているけど、結局採血をしてからお薬をもらうばかりでこれといった治療はされていない。


 特に寒い日はいつもより不調が顕著で、冷え切った手足の先から浸食するように体が動かなくなっていく。


 なんでわたしだけなんだろうって、何度も思った。


 わたしは毎朝腹痛で苦しんでいるのに、クラスの子たちはさっぱり元気で、遊びすぎてもクラクラしないで、授業中もずっと座っていられる。いいな。羨ましいなって思いながら、わたしは何度も保健室に行ったり、早退したりした。


 それからクラスのみんなからは幽霊扱いされていることを知った。久しぶりに学校に行けたと思っても、みんなからはいないものとして扱われた。


 でもそれは、小学校だからだって思ってた。周りと、そしてわたしも大人になれば変わっていくんだろうって、信じてた。


 結果。こうして定職に就いた今もわたしの体は治らず、いないもの扱いどころか、職場の人からは叱咤される毎日。


「わたしが、悪いのかな」


 指を出すと、犬がぺろ、と舐めてくる。かじかんだ指がかすかに温かくなっていく。


「ちょっと、勝手に触らないでもらえますか」


 声がして顔をあげると、買い物袋を持った女性がわたしを睨んでいた。


「ご、ごめんなさいっ」


 飼い主の人だろうか。


 犬とお別れをする暇もなく、わたしは逃げるようにその場を去った。


 寒い。


 冷たいもので溢れている。


 でも、みんな同じだ。


 冬は寒い。しょうがない。


 世間は冷たい。しょうがない。


 だから頑張れ。我慢しろ。元気を出せ。


 みんな同じだ。


「わたしだって、みんなと同じになりたいよ」


 どうすればなれるのかな。どうすればわたしも、みんなみたいに強くなれるのかな。


 とぼとぼと、足を引きずるように歩く。


 本当はもう、生きるのも辛かった。甘えなんじゃないかって何度も思ったし、周りも頑張ってるんだからわたしも泣き言いっちゃだめだって自分を奮い立たせたりもした。


 でも、やっぱり、直面する現実は辛いことばっかりで。


 誰も手を差し伸べてはくれない冷たいこの世界で、わたしはさっきの犬のように元気に走り回ることはできなかった。


 それでもわたしが毎朝起きて仕事に行って、帰ってこれるのは、今付き合っている彼女のおかげだった。


 名前は弓梨ゆみりという。二年前研修先で出会って、一年前から同棲を始めている。すごく明るい人で、誰にでも分け隔てなく接することのできる一つ歳上の女性だ。


 わたしが女性しか愛せないということをカミングアウトしたときも彼女は真剣に聞いてくれて、勝手に泣き出したわたしを優しく抱きしめてくれた。


 料理はちょっとだけ下手っぴだけど、肩を揉むのがとっても上手。それに涙脆くて、一緒にテレビを見ているとすぐに隣から涙を啜る音が聞こえてくる。


 そんな弓梨のことがわたしは大好きだった。


 弓梨がいるから、わたしはこうして嫌なことがあっても真っ直ぐ家に帰ることができる。


 マンションに着いて、合鍵を使って部屋に入る。


「ただいまー。弓梨、いる?」


 キッチンに弓梨が立っていたらどうしようと思いながらも、部屋の電気を点けて回る。


 しかし中は寒く、人の気配が感じられない。


「いないの?」


 そういえば弓梨は昨日、会社の先輩と飲み会があると言って出てしまったきりだ。ようやく会えると思ったのに。


 一日会わなかっただけでこんな風に思ってしまうのは、わたしの寂しがりすぎだろうか。


 メッセージには既読がついているので、気づいてはいるのだろう。弓梨は帰ってくるときや、なにかサプライズがあるときはあえて既読スルーをするクセがあった。弓梨は人の驚いた顔と、笑った顔が大好きなのだ。


 ドキドキしながらリビングのドアを開ける。


 パン! とクラッカーが鳴るなんてことはなかった。


 電灯が部屋を明るく照らすと、黒の長机に一枚の手紙が置かれていることに気づく。


 なんだろう?


 わたしはカバンをソファに置いて、弓梨の書く思い切りのいい、躍動感のある文字を目で追った。


『ごめんね。私、職場の先輩と付き合うことになった。……男の人だよ』

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