第2話 不必要な存在

「え?」


 便せんは一枚だった。


 わたしはその一文だけですべてを読み取ることはできなかった。


 ただ、心臓が不快な跳ね方をしているのだけは分かる。あらゆる憶測がとてつもない速度で頭の中を往復する。


 便せんを裏返すと、そこには万札が四枚くっついていた。それがわたしと弓梨で出し合っていたマンションの家賃代だということに気づくと、ふらっと意識が飛びそうになる。


 待って、待ってよ。


 また嘘吐いてるんだよね。


 わたしを笑わせようとしてくれているんだよね。


 震える手で、スマホを手に取る。


 通話をかけてみるも、弓梨は出ない。それから三十回ほど、弓梨が出るまでコールを鳴らし続けた。


 およそ一時間ほど経ったあたりだろうか。


 突然通話がかけられなくなった。通話ボタンを押しても聞いたことのないメッセージでホーム画面に戻される。


 もしかして、ブロックされた?


 わたしは手からスマホを落として、その場に崩れ落ちた。


 どうして、なんで? そればかりが頭に浮かぶ。


 弓梨に聞きたい。もし本当にこれが別れの手紙なのだとしても、教えてほしかった。


 わたしのどこがダメだったのか。それさえ言ってもらえば、わたしはなんでも直すから。仕事だって辞める、お金だって貸す。弓梨のためならなんだってするって決めてた。それくらい安いものなのに。


 わたしの言葉は、もう弓梨には届かない。何年も経て積み重なった想いは、たった一つのボタンで完全に隔たれてしまった。


 弓梨との最後のトーク画面。


 そこにはわたしの『行ってらっしゃい! 飲み過ぎないようにね!』というメッセージだけがむなしく残っている。


 わたしはふらふらと部屋の中を歩き回る。この部屋の中には弓梨との思い出がたくさんある。


 リビングの大きさに釣り合っていない大きなソファも、二人一緒に寝転がれるようにと無理して買ったものだ。黒い本棚も、弓梨が黒が好きだったから、わたしの趣味には合わないけど我慢して買った。壁にかけられている4Kテレビは、たしか弓梨がクレジットカードで買ったんだっけ。運ぶのが大変だったのを今でも覚えている。


 おそろいのキーホルダー。旅行先で買ってきたすだれに、試しに買ってみたけどすぐにやめた電子ピアノ。古着で溢れた弓梨のクローゼットは・・・・・・もぬけの殻になっていた。


 弓梨が持って行ったのはそれだけだった。他の家電製品などはすべてこの部屋に置きっぱなしだ。


 弓梨と共同の寝室。ベッドには弓梨が使っていた黒の枕とわたしのピンクの枕が並んでいる。


 わたしはそのままベッドに飛び込んだ。


 枕を潰し、悲痛に塗れた声で叫ぶ。


 どうしてわたしじゃダメなの?


 それは乗り換え? 気まぐれ? それともずっと前から決めていたこと?


 手紙の最後に添えられた『男の人だよ』という言葉がわたしの心臓を遠慮なく握り潰そうとする。


 男の人だから、なんなの? それをわたしに言って、どうなるの? 


 これまでの日々を黒く塗りたくるような言葉が辛い。これまでの思い出がすべて虚像に見えるようで、平衡感覚がなくなっていった。


 白目で睨まれているようだった。後ろ指を指されているようだった。


 女性二人で過ごしたこの部屋を、嘲笑われているようだった。


 両手でベッドを叩く。そのたびにバネが軋み、埃が舞い上がる。シーツに染みがあることに気づき、自分の頬に手を当てた。


 唇を噛みすぎて、血が出ているのが分かる。意識がもうろうとし、それが貧血の症状であることは長年付き合ってきた自分の体だ、すぐに分かった。


 手足に力が入らず、ベッドを叩くことすらできなくなる。


 わたしの体は、人並みに悲しむことすらできないというのだろうか。


 神様は残酷だ。


 世界は冷酷だ。    


 天井を見上げながら、わたしは大声で泣いた。


 こぼれる涙には、これまで過ごした弓梨との思い出が含まれているような気さえした。こぼせばこぼすほど、弓梨が遠ざかっていく。楽しい思い出、繋いだ手のひら、抱き合った体、感じた温かさ。すべてが無情な水滴となって染みを作る。その染みだって、乾けば消えてしまうだろう。


 弓梨のにおいが微かに残ったシーツを握りしめて泣きわめく。


 子供の夜泣きのようだ。


 けれど、泣いているわたしを抱きしめてくれる人はどこにもいない。それはわたしが、もう子供じゃないからだ。 


 わたしが、走り回る犬のようにかわいくないからだ。


『みんな同じなんだから!』

『ちょっと、勝手に触らないでもらえますか』

『男の人だよ』


 ああ、そうか。


 ようやく気付いた。


 なにも世界が残酷なんじゃない、社会が理不尽なんじゃない。


 ただわたしが。


 誰からも必要とされていないだけだったんだ。

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