第3話 本当にごめんなさい
翌日、職場でわたしはいつものように叱られていた。
青果センターに務めるわたしは普段は事務作業をこなしているが、時々ご来客への荷詰めや取引先から預かっていた新商品の処理なども任されることがある。
今回は来年のお歳暮に向けて発注された新商品を保管庫で常温処理をするという業務をこなしたわけなのだが、どうもビニールをかけなかったことがよくなかったらしく、廊下ですれ違った先輩に止められ、人目も憚らず大声で注意された。
「だからビニールはかけてって言ったよね!? なんで勝手なことするの!? こんなやり方誰に教わったの!」
しかし、今回の件に関してわたしは引き下がるわけにはいかなかった。
というのも、前にもこの業務をこなしたことはあるのだが、その際に目の前にいる先輩から「ビニール袋は畳んで一番下の箱だけでいいよ」と言われたのだ。わたしは忘れないように、その場でメモを取った。
「せ、先輩です」
「は!? なに!?」
「先輩が前に、そう言って」
「言ってないって! ていうかだって、あんた昨日はちゃんとビニールかけてたじゃん!」
「昨日? あの、昨日はわたしは」
「なんですぐはいって言えないの!」
していません。
そう言おうとした口は先輩の勢いに押し潰されてしまった。
この先輩は、記憶違いを起こすことが多々あった。前もそれでやっていない仕事で注意を受けたりもした。
叱られている間、何度も記憶を辿ったけれど、やはりわたしにビニールは一番下だけでいいと言ったのは先輩だ。たしか周りにも何人かいて、わたしはその日たまたま体の調子がよかったので元気よく返事をすると、その人たちはくすくすと笑いながら「頑張れ」と言ってくれたのだ。
わたしの体調がいい日なんてそう多くはない。だから絶対に記憶違いなんかじゃない。
だからあとはそれをしっかりと伝えればいいだけなんだけど。
「人のせいにしてる暇があったら仕事覚えたら!? そもそも考えればわかることじゃん! 今までこんなことしてる人見たことある!? ないでしょ!」
喋る隙すら与えられない。
この場に必要なのは正論ではなく大声なのだろうか。
学校っていうのは意地悪だ。こんなことなら勉強よりも大声で相手を威圧する方法だけを教えてくれたらよかったのに。
萎縮するわたし。怒鳴る先輩。はたから見たら、わたしが何かやらかしたのかと思うだろう。
わたしはただ、言われた通りにしただけなのに。
「すみませんでした」
結局わたしは深々と頭を下げ、その場で平謝りするしかなかった。
先輩が舌打ちをしながらどこかへ行く。わたしはすぐ動き出すことはできず、窓ガラスに映る鬱屈とした表情の自分とにらめっこする。勝つこともなければ負けることもないだろう。
どうしてわたしだけ、こんな目にあうんだろ。
そう思うと、昨日言われた言葉が脳内を反復する。
『みんな同じなんだから!』
そうなのかな。
本当はみんなもこんな目にあって、毎日具合が悪くて、嫌なことがあって、大好きな人と別れて、それでもきちんと毎日を生きているのかな。
甘え。それはなによりもわたしの胸を削り取っていく威力を持つ。
わたしが弱いだけだったのかな。
なにもかも体のせいにして、自分の境遇のせいにして、周りのせいにして。本当はわたしがもっと本気で頑張って、歯を食いしばっていればこんなことにはならなかったのかもしれない。
昨晩、わたしは夜が明けるまで泣き続けた。そのせいで全然眠れなくて今日の仕事もずっとぼーっとしっぱなしだった。先輩も、そんなわたしが目障りだったから、あんな風に怒ったのかもしれない。
胸が苦しくなる。
全部わたしが悪かったのに、言い訳ばかりして自分を正当化していた。
体が弱いなら他にやりようがあったんじゃないか。たしかに、わたし以外にもお昼休みに薬を飲んでいる人は何人かいた。その中でもわたしが一番重症だと自分で思い込み、なら休憩しようがその場で倒れようが仕方ないと、一種の諦めのようなものを抱いていた。
わたしは自分の弱い部分を盾にして、子供のようにワガママを言っていただけだったのだ。
他の人たちが行き来する廊下のど真ん中で、わたしは立ち尽くす。
なにしてるんだろう、わたし。
全部、自分が悪いんじゃないか。
先輩に怒られたのも、弓梨に逃げられてしまったのも、要因はわたしにある。今までこんなこと思ったこともなかった。飄々と被害者面をしながら生きてきた自分を思い返すと反吐が出そうになるのと同時に、罪悪感のようなものがこみ上げてくる。
わたしは自分のデスクに戻ると、隣で頭を抱えてうなっている田代さんに声をかけた。昨日わたしに、みんな同じと教えてくれた、その人だ。
「あ、あの」
「なに? 忙しいからあとにしてよ」
「昨日は、す、すみませんでした」
「は?」
「あ、えと、本当に、すみません、わたし、サボ、っちゃって」
「はあ? 昨日のサボりだったの?」
そんなわけない。
本当に体調が悪かった。
そう言い訳しようとする弱い自分が顔を出す。
けれど、それを振り切ってわたしは頭を下げる。
「みんなが頑張ってるのに、わたしだけ、すみ、ませ・・・・・・すみませ、ん」
田代さんがどんな顔をしているか想像することもできない。
それでもいつかは顔をあげなくちゃいけない。心強い淀んだ床のタイルに別れを告げて、視界を戻す。
田代さんと目が合った。
「え、なに。泣いてるの」
田代さんは驚いたようにわたしを見ていた。
わたしは慌てて涙をぬぐってもう一度謝罪する。昨日の分を取り返そうと、自分の頬を叩いて気合いを入れる。
頑張らなくちゃ。
泣いてる場合じゃない。
泣きたいのはみんな一緒。わたしだけ泣くなんて、絶対にダメなんだから。
無心でキーボードを叩く。羅列する文字を追う。過去の記憶を追う。癒えない傷を負う。
弓梨のことが頭から離れない。ふいにまた泣きそうになってしまう。滲んだ視界をむりやり明瞭にして、前を向く。時間が経つと、やはり意識が薄くなりはじめる。息は絶え絶えに、じっとしていても不規則な心臓の鼓動が鼓膜まで伝わってくる。吐き気と咳き込む感覚が混ざり合い、背筋を伸ばしていられなくなる。
それでも、倒れちゃだめだ。弱音を吐いちゃだめだ。
決して意識を手放さないよう、必死に仕事を続けた。
入力する文字を間違えるたびに謝った。
椅子が音を鳴らすたびに謝った。
息をついて背にもたれるたびに謝った。
仕事の進捗を聞かれるたびに謝った。
声をかけられるたびに謝った。
全部全部、わたしが悪かったんです。
ごめんなさい。
「ねえ、さっきからずっとブツブツつぶやいてるけど、大丈夫?」
ふいに後ろから声をかけられる。
「ご、ごめんなさい!」
ごめんなさい。
うるさくしてごめんなさい。
目障りでごめんなさい。
なんの役にも立てないのに。
ここにいてもなんの意味もないのに。
わたしなんて誰も必要としていないのに。
ごめんなさい。
こんなわたしが。
「本当に、ごめんなさい・・・・・・」
生きてて、ごめんなさい。
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